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私が学生だったころ、美術部ですごした日々

秋も深まってきましたね。
空が高く、すがすがしい雲が広がっています。

夕陽をうけて照りかがやく雲がとてもキレイ。
どこかで見たことある雲〜と思ったら、私が高校生のときに描いた油絵の背景に映りこんだ雲と同じなのです。

秋が深まると、美術部のメンバーは校内で写生に取り組みます。
例年描いていた秋特有の高い空と、見慣れた校舎。なつかしい思い出です。

なぜ美術部へ?

なぜ美術部に入ったのか。その理由はただ一つ。
芸術的に傑出したセンスをもつ先輩女子が一人いたからに他なりません。

その美しいスタイルは、見た目だけではなく作品や生き方にも反映されていてキラキラしていました。
先輩に対する憧れや共同制作できるチャンスを活かした思いがあって、美術部に所属したわけです。

転機になった寸評会

まずは初心者向け油絵セットを購入。
才能あふれる先輩たちとともに絵を描き、ともに過ごした時間は何物にも代えられません。
美しい石膏とそのデッサン画にかこまれた放課後でした。

そして数カ月後。
仕上がった油絵を一覧展示し、顧問の先生や部員同士で寸評しあいます。
そのときはじめて、生まれながらの天才っているのだと思い知らされるのです。 まさしく天賦の才能。

そもそもの構図、油絵のタッチ、配色、絵筆の運び方、色の重ね方など。 

同じ風景画を描いても全く違う仕上がり。
どれ一つとっても圧巻の筆さばき。
ひと目見て惹きつけられる絵って、このこと!

私が一生努力しても、この域には到達しえない。
絵画って、努力したから上手く描けるものではない、と気づくのです。

寸評会のとき、十分に思い知らされました。
わりと早い時期に、美大進学を将来の選択肢から外したのです。

せいせいした進路選択

当時を振り返っても、適切な判断だったと思います。
努力して到達しえるなら、努力を惜しまないつもりでした。

才能やセンスは、もって生まれたもの。
全く別次元の問題。

努力してもこの高みには届かない。あまりにも目指すゴールが到達困難と分かると、残念って気持ちにすらならないのです。わだかまりが消えました。

「せいせいした」そんな感じ。
自分にとっては、前向きな言葉。

後悔の気持ちはみじんもなく、世の中には才能あふれる人がいると得心が行きました。秋の空を見ると、そんなことを思い出すのです。

そのまま楽しんだ美術部

でも美術部は楽しかったよ。 平日放課後と土曜の午後は部室で制作。
コーヒー飲みながら、おしゃべり。 

ときに先輩たちの傑作を目の当たりにして刺激を受ける日々。

ときに世界堂に寄り道して、絵の具を物色。
 新しい絵の具があれば、どうしても出せなかった色をキャンバスに描けるかもしれない。そんな淡い希望を持って制作しては、撃沈する日々の繰り返し。

たいてい絵の具が変わってもそんなに代わり映えしない。
現実は甘くないのだ。
描けば描くほど、身の程を知るということか。

休日には仲間同士で美術館めぐりや画廊めぐり。 
右も左もわからない銀座デビュー。ビルの一室に画廊を見つけては鑑賞しつづける珍道中。体力勝負。

夏休みには写生合宿。作りこまれた”しおり”が前衛的かつ芸術的。
夜には寸評会と肝だめし。どっちも恐怖。おもしろいしかない。

まとめ

アートに親しむ素地を作ってくれた高校生活。
十分に描き、十分に楽しみました。
アート鑑賞が生涯の趣味になるとは思いもよらず。

画家たちのたどり着いた高みに何があるのか、バトンを下ろした私には想像しえません。

それでも、絵画には鑑賞する楽しみがあります。
偉大な画家たちが何ヶ月も描けて描く作品には、敬意を表するばかりですね。

せいせいした秋の空。
十分にやりきった、十分にチャレンジした自分に、はなむけたnoteになりました!

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