見出し画像

とても晴れた日に、解釈の自由さに救われる

Coccoの『Raining』を耳にしたとき、これは自分のための歌だと思った。こんなにも、自分の苦悩をストレートに表現するアーティストがいることに、希望すら感じるほどに。

教室で笑っていたのは、誰だったのだろうか。

実際に私は小学生のとき、いじめられた経験がある。私が泣く姿を見て笑いたかったからと、後から聞いた。軽はずみな理由ながらも、いじめは陰湿。先生が保身に入る姿も見た。助けを求めれば求めるほど孤立し、いじめる側はグループになって圧をかけてくる。やり過ごすしかない。

さいわい、私には応援してくれるクラスメイトが複数いた。

誰もいないときに私のところへやってきて「私は味方だからね!」と言って去っていくのだ。声なき声に、どれだけ救われたか。クラスメイトが声を大にして言えない事情も、よく分かる。いじめの矛先が自分に向かうのが怖いからだ。

私が逆の立場になったとしても、きっと同じようにしただろう。それでも、気持ちは伝わるのだ。一人ではないと。

私は無力で
言葉を選べずに
帰り道のにおいだけ
優しかった

Coccoの『Raining』より

匂いだけは、優しかった。いじめられた事自体忘れていた私は、成人してから、どれほどこの言葉に励まされたことか。

当時から、いじめられる世界は受け入れがたくても、匂いだけは優しいのだ。そのうちに小学校でのいじめは収束した。

私を受け入れてくれる世界はある。そう思えると力が出た。

生きてゆける
そんな気がしていた
教室で誰かが笑ってた
それは とても晴れた日で

Coccoの『Raining』より

教室の中で笑っていたのは、紛れもなく私自身だ。

とても良く晴れた日に、歌声が聞こえてきた気がする。解釈の自由さに、救われる。友人と教師に恵まれ、泣き笑いできる生活をとりもどしたのは中学生のときからだ。

私は文字通りに、中学校で自由を謳歌した。不自由だった経験があったからこそ、かけがえのない時間がまぶしく感じる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?