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interview Bobby Sparks Ⅱ - RHファクターのオリジナル・メンバーが語るダラスとスナーキー・パピー

僕はスナーキー・パピーは同世代の若者が集まったお友達バンドではないところが面白いと思っている。マイケル・リーグを始めとしたノーステキサス大学の仲間たちが中心ではあるのだが、何人かそれとは異なるメンバーが在籍している。

そのひとりが鍵盤奏者のボビー・スパークスだ。スナーキー・パピーの鍵盤奏者といえば、コリー・ヘンリーショーン・マーティンの印象もあるかもしれないが、ボビー・スパークスはその二人以上のキャリアと実力といっても過言ではない。彼こそがダラスの音楽シーンのレジェンドなのだから。例えば、マイケル・リーグとショーン・マーティンはボビーのことをこう語っている。

マイケル・リーグ「スナーキー・パピーが一番最初にコラボレーションしたダラスのミュージシャンがボビー・スパークスだった。彼はとにかくファンキーなんだ。僕らは”世界一ファンキーな人間”って呼んでる(笑)。ボビーは何を弾いてもフィール・グッドなんだよね。彼は音楽に憑りつかれている人間で、音楽をとんでもなく聴いていて、音楽の歴史にかなり深く精通している。僕はその部分でもボビーをリスペクトしている」

https://rollingstonejapan.com/articles/detail/38455

ショーン・マーティン「ボビー・スパークスの存在はダラスに不可欠だね。それはダラスの音楽シーンだけじゃなくて、僕の人生に於いても、だね。僕はボビーがやっていたことを見ながら、それを真似るように学んでいった。楽器で言えばモーグを弾くようになったこと、つまりアナログシンセの弾き方に関しては彼の影響が大きいんだ。ボビーは楽器の真のエッセンスをシーンの若いミュージシャンにも伝えてくれていたんだ。僕のその若いミュージシャンの一人だった。彼の存在はすごく大きかったと思うね」

https://note.com/elis_ragina/n/n2509798e6bef

何といってもボビー・スパークスはロイ・ハーグローヴのプロジェクトとして知られるRHファクターのオリジナル・メンバーであり、RHファクター誕生のきっかけを作った人物だ。しかも、カーク・フランクリンのバンド・メンバーを務めたこともあり、スナーキー・パピーのメンバーでもある。そんなボビーがひと声かければ、ソロ・アルバムにこんな敏腕ミュージシャンが集結してしまう。

ちなみに現在のスナーキー・パピーのライブでの最大の見せ場はどう考えてもボビー・スパークスによるクラヴィネットでのソロだ。ボビーは年長だが、スナーキー・パピーの最強のソロイストであり、今や不可欠のメンバーなのだ。

ここではスナーキー・パピー『Empire Central』をきっかけにダラスを掘るシリーズの第3弾として、ボビー・スパークスのインタビューをお送りする。ここにはダラスのシーンを読み解くためのヒントが散りばめられている。

取材・編集:柳樂光隆 | 協力:COREPORT

◉スナーキー・パピーとの関係

――マイケル・リーグとダラスのシーンで出会ったときの話を聞かせてください。

私はダラスのブルックリン・ジャズ・カフェでKeith Anderson(Sax)とJason  "JT" Thomas (Drums)とよく演奏していましたそこにBernard Wrightが入ることもありましたね。マイケルはその演奏をよく見にきてくれたので、そこで知り合いました。マイケルとの最初の演奏は、Steve PruitKeith Andersonと一緒にストレート・アヘッドジャズのギグをやった時です。2005-6年ごろだったと思います。スナーキー・パピーが結成されたのはその数年前でしたね。
 
マイケルと私たちはいつもフュージョン(※ここでのフュージョンはジャンルとしてのフュージョンではなく、ジャンルが入り混じったインストロメンタル音楽ってニュアンス)を演奏していました。、メンバーはマイケル、Justin Stanton(key & tp)、 Bob Lanzetti(g)、Chris Mcqueen(g)、Steve Pruitt(ds)、Mike "Maz" Maher(tp)、そして私でした。テキサスとその周辺の大学のバーやクラブでよくやってましたね。

――スナーキー・パピーに加入したのはどんな経緯ですか?
 

2007年頃にマイケルから誘われたんです。でも、その頃、私はマーカス・ミラータワー・オブ・パワーのツアーに参加していたので、スナーキー・パピーに関してはタイミングが合った時に、時間の許す限り一緒に演奏していました。彼らの音楽は全てのフュージョンなので、とても気に入っていました。すべての曲で(リズムが複雑なので)カウントをしなければならず、それは私にとってはチャレンジングだったんですけど、それもとても楽しかった。バーナード・ライトと私がスナーキー・パピーに在籍していた時期ですね。
 
でも、2009年から2010年にかけて、私はあまりにも多くの仕事を抱えていたので、残念ながらマイケルとスナーキー・パピーにコミットすることができなくなりました。だから、彼らはショーン・マーティンにメンバーになるよう声をかけたんだと思います。そして、2015-16年頃、マイケルが「戻ってきてくれない?」って声をかけてくれたので、再び参加することになりました。

――スナーキー・パピーの最初期の2008年の『Bring Us The Bright』からあなたの名前はありますよね。このアルバムではRobert "Sput" Searightがプロデュースをしていました。あなたはRobert "Sput" Searightと関係が深いですよね。

Sputは私の兄弟のようなものです。子供の頃から知っているので、本当に仲がいい。私はSputより1歳だけ年上です。私たちは13歳か14歳の時から教会で一緒に演奏しているんです。そして、ゴスペル・アーティストのCarnell Murrelとの演奏も一緒にしていたこともありました。

◉ロイ・ハーグローヴとRHファクター

――スナーキー・パピーのメンバーの中ではJason "JT" Thomasとは特に長い関係なのではないかと思います。

JTとは30年ほど前に知り合いました。キース・アンダーソン、JT、私の3人でオルガン・トリオを結成していて、後にベース奏者のチャック・スミスを加えて、4人でよく演奏していました。私たちはダラスで週に6晩の演奏をすることもあったくらい頻繁につるんでいました。私たちは "clubhoppin’ "だったんですよ。

私とJTはRoy Hargrove & RH Factorでも一緒でしたし、キース・アンダーソンの紹介でやっていたレス・マッキャンとのツアーでも一緒に演奏しました。JTはスナーキー・パピーを脱退したロバート・スパット・シーライトの後任として、スナーキー・パピーに入りました。それが2012年だったと思います。

――ちょうど名前が出たのでRoy Hargroveの話も聞かせてもらえますか?

ロイは特別な存在でした......ロイのような人は後にも先にもいなかったし、誰もロイのように演奏できなかった。彼はいつも時代の最先端を走っていた。私たちはダラスのクラブで一晩に4、5回演奏することもありました。あの日々は信じられないような経験でした。ロイはBooker T. Washington High School for the Performing and Visual Artsに通っていて、同じ学校に通っていたキース・アンダーソンが私にロイを紹介してくれたんです。彼が亡くなる2018年まで私たちはずっと一緒で、20年間一緒に演奏した仲間でした。

――その一緒に演奏したっていうのはRH Factorのことですよね。あなたはRHファクターのメンバーでもあります。

ある日、ロイが私の家に来た時に、私の曲「Take It!」を聴いて「俺もこんな音楽をやりたい」と言ってくれました。そして、バーナード・ライトと一緒に私の家でデモを録音しました。それがRH Factor結成のストーリーです。その後、ニューヨークのエレクトリック・レディ・スタジオでヴァーヴ・レコーズのために3週間レコーディングをしました。そのセッションでは60曲くらい録音した記憶があります。もしかしたら、もっとあったかも(笑)

――結成の時点でバーナード・ライトがいたんですね。

バーナードをRHファクターに引き入れたのは私です。バーナードが10人分の天才であることは別として、私達はお互いの音楽の間合いをよく理解していたんですよ。私たちは完全に同期していたんです。それにみんなが彼のことを知っていて、愛されていました。彼はダラス中を飛び回って演奏しまくっていて、ダラスの音楽シーンに欠かせない存在でした。バーナードは何をやってもオリジナルですね...彼は偽物じゃない。天才でしたね。そして、誰と演奏しようが、どんなスタイルの音楽だろうが 彼はいつも全力を尽くしていたのを覚えています。

――あなたはMarcus Millerと沢山共演しています。あなたとMarcusを繋いだのはMarcusとJamaican Catsの仲間だったBernard Wrightだったりしますか?

その通りです。バーナードがマーカスに「ボビーは彼にしかできないことを弾けるミュージシャンだ」と言って、推薦してくれました。というより、彼はマーカスに私のことを自慢していたんです(笑)。ある時に、私たちはマーカス・ミラーの前座として、フランスのニースでロイ・ハーグローブ&RHファクターとして演奏していました。その日の演奏はそのツアーのベスト・セットともいえる演奏で、それをマーカスと彼のバンドが観ていました。ライブの後、マーカス・ミラー・バンドのドラマーだったPoogie Bellと電話番号を交換しました。後日、私はカーク・フランクリンのツアーでピッツバーグに行った時、Poogieに電話をして「ライヴを観に来ない?」と誘ったら、彼はマーカス・ミラーに私のことを話していたみたいで、マーカスのマネージャーから電話がかかってきて、彼のバンドに誘われたんです。すごく感激しましたね。

――今、名前が出たKirk Franklinとはどんなところから交流が始まり、強い関係を築いたのでしょうか?

私たちはTrinity Templeが1990年にレコードを録音したときに出会いました。当時、私はバンドのメンバーとして参加していて、カークは聖歌隊を指揮していました。その頃、彼が思いついたアイデアを私が設計していたので、その音楽を正しく演奏するためには私が必要だったんだと思います。私はその音楽にとってふさわしい演奏するためにそこにいたんですよ。彼が思いついた様々なアイデアを私は翻訳して、設計もして、といった感じで彼と一緒に5、6枚のアルバムを作ったと思いますし、大規模なツアーもしましたね。

◉スナーキー・パピー『Empire Central』のこと

――スナーキー・パピー『Empire Central』にはさっきもあなたが話してくれた「Take It」が収録されています。この曲はあなたのソロアルバム『Schizophrenia』に収録されていた曲のカヴァーでRoy Hargroveも参加しています。この曲はもともとどんな経緯で生まれた曲ですか?

1999年から2006年にかけて作った曲です。99年にD'Angleoの「Chicken Grease」のベースラインを引用して録音しました。このロイの演奏はRH Factorと一緒に東京ジャズフェスティバルに行った時、Royが私のホテルの部屋に来て録音したものです。東京での演奏がこの曲に使われているんですよ。

――『Empire Central』のバージョンの「Take It」にはBernard Wrightが参加しています。この曲がどんな経緯で再演されたのか、そして、この曲のレコーディングについてのエピソードがあれば聞かせてください。

マイケル・リーグが「やりたい」と言ったのは...マイケルがこの曲を MySpaceで聴いて、気に入っていたからです。私は脳卒中になったことがあります。だから、その後の体調を考慮して、この曲の演奏をバーナードに依頼したんです。これがバーナードの最後のレコーディングになったんです..。

――『Empire Central』のテーマの一つに“ダラスとの繋がり”があると思います。ダラスで長く活動しているあなたが考える『Empire Central』におけるダラスらしさのポイントをいくつか挙げてもらえますか?

ダラスには、ファンク、ロック、ヒップホップ、カントリー、ジャズなど様々なジャンルの音楽を演奏する人たちがいる小さなコミュニティが広がっています。あと、ゴスペルのコミュニティはダラスでとても重要です。ほとんどのミュージシャンがゴスペルからキャリアをスタートしますが、教会や教会以外でも他のミュージシャンに出会える環境があります。
 
それにダラスとその近辺の地域は、ほとんどのミュージシャンがダラス出身というユニークな関係があると思います。彼らはみんな一緒に演奏したがっているし、お互いのレコーディングに参加したり、セッションをしたり、仕事を紹介し合ったり。他の都市では見られないような愛があると思います。

――『Empire Central』収録の「RL’s」ではあなたのClavinetのソロが聴こえます。まるでエレキギターのような、でも、鍵盤でしかありえないような独特のサウンドです。Clavinetとエフェクターを組み合わせたあなたの独特のサウンドについて聞かせてください。

若いころ、みんながMiniMoogを弾いていたから、他の楽器を見つけたかったんです。当時、私はジョージ・デュークスタンリー・クラークと一緒に演奏していました。Ken Richsにキーボードの修復をお願いしていたことがあって、彼の家にキーボードを受け取りに行ったら、彼が数年をかけて修理したジョージ・デュークのClavinetを彼のところに持っていってくれないかと頼まれたんです。それをジョージに送り届けたら、ジョージが私にClavinetの性能を教えてくれたんです。それがきっかけですね。

実際に使いこなすまでにはかなり時間がかかったんですけど、どうしても欲しくなったのでKenに頼んで見つけてもらって、手に入れることができました。私はこれをエレクトリック・マシンとして使いたかったんですね。私はキーボード奏者ですが、私の頭の中の私はいつもギタリストだったんですよ。だから、Clavinetを使えばジミ・ヘンドリックスエディ・ヘイゼルになれるって思ったんです。

◉セイント・ヴィンセントとの関係

――最後の質問なんですが、あなたはSt Vincentのいくつかの作品にも参加しています。これはどういう繋がりなんですか?

彼女はダラス出身なんですよ。プロデューサーのJohn Congeltonが彼女の1stアルバム『Strange Mercy』のセッションに呼んでくれたんです。当初はミニムーグを弾いてくれってリクエストだったんですけど、彼女が「あなたらしくやってほしい」と言ってくれたので、私は自分のやりたいことをやることができたんです。彼女の次のアルバム『St.Vincent』でも私の演奏が聴けますよ。


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