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interview Tomeka Reid:チェロでジャズを弾くこと、作曲/キュレーション論、AACMについて(1,5000字)

僕がトミーカ・リードに注目し始めたのは彼女が自身のカルテットを結成して作品をリリースし始めたころだった。トミーカのチェロとメアリー・ハルヴァーソンのギターをフロントに、ジェイソン・レブキのベースとトマ・フジワラのドラムがリズムセクションを担うこのグループはそれぞれの演奏者の演奏は言うまでもないが、同時に楽曲の素晴らしさがこのグループを特別なものにしていた。

個々の演奏を最大限に反映する作りになっていて、それぞれの演奏のキャラクターがそのまま楽曲の個性に繋がっているのだが、特定の誰かが突出するのではなく、全員のアンサンブルが調和する構造にもなっていた。個々の即興演奏に関してもあくまで「楽曲」を演奏する中での即興である意図が伝わってくるもので、自身をアピールしつつも必要なものを簡潔に出しているようにも聴こえた。デザインされていることと、個性が活かされていることが両立していた。風通しはよいのだが、決してゆるくはなく、演奏者が能動的に楽曲に貢献しているさまが興味深かった。

そのうえでフリージャズ的な即興もあれば、エフェクトを駆使した空間的なパフォーマンスもあり、かと思えば、スウィングやグルーヴも備わっているし、親しみやすい旋律へのこだわりも感じられた。トミーカが類まれな作曲家であることは明らかだった。

しかも、彼女の楽器はジャズではめったに使われることのないチェロなのだ。ヴァイオリンでもダブルベースでもなく、チェロ。彼女はこれまでにジャズで使われてきた数少ないチェロの事例を丹念に研究しながらも、現代にふさわしい方法を新たに編み出そうとしている。

そういった試みをアフリカンアメリカン(の女性)の立場である自身に自覚的なマインドで行っているのも彼女の特徴になっているはずだ。AACMのメンバーでもある彼女の音楽にはそんな文脈も織り込まれている。

2024年6月の初来日に際して、トミーカ・リードへの取材を行った。彼女はとても饒舌で、自身のキャリアや考えについて、どんどん話してくれた。僕らはそれをひたすら浴びているような状況だったが、そのおかげで彼女の大枠をようやく日本語で示すことができる記事を作ることができた。Rolling Stone Japan掲載のメアリー・ハルヴァーソンの記事と併せて読んでもらいたい。

取材・執筆・編集:柳樂光隆 | 通訳:丸山京子
協力:nagalu | S/N AllianceOmnicent


◉チェロとの出会い

――チェロを弾くようになったきっかけを教えてください。

母の希望で、メリーランド州の公立学校システムにあるフランス語イマージョンスクール(*1)に通っていた。唯一英語で授業が行われてたのが音楽で、もともと音楽も好きで、フランス語が喋れない私にとってそこは特別な場所だった。普通は英語を喋ると罰則があるけど、そこでなら友達と英語が喋れて、音楽も楽しめる。フルートとバイオリンが人気だったから、私と友達は「わたしたちはちょっと違うから」とタフな所を見せようと、大きくて重いチェロを選んだ(笑)。それがきっかけ。その時からチェロという楽器が大好きになり、他の人たちと演奏するのも大好きだった。私にとってコラボレーションが大切な練習だったの。自分も音を出し、周りの子たちも音を出し、何かを作り上げているんだという感覚が大好きだった。

今やっているTomeka Reid Quartetにしても、曲を書き、ギグを見つけてくるのは私だし、私の名前を冠しているけど、バンドメイト無しでは何も意味がないと思ってる。彼らが私のアイディアに命を吹き込んでくれる。チェロの役割が基盤を下から支えるサポート役だからというのもあるのかもしれないけど「波に乗る」のではなく「私が波になる」という感覚でやってる。チェロはベースの役割も果たせるし、ソロもとれるし、ハーモニーの役も果たせる。ヴィオリンのような「私、私、私」になる必要は感じなかった。ただいい音楽の一部になりたい、自分よりも大きな何かの一部になりたい、っていうことなんだと思う。

*1:フランス語イマージョンスクール=通常授業をフランス語で行う仏英バイリンガル教育

――子供のころから縁の下の力持ち的なところに意義を見出していたと。あなたはメリーランド大学でどんなことを学んでいたんですか?

専攻はチェロ。私は小学4年生からチェロを弾いていたけど、個人レッスンを受ける余裕はなくて、学び始めたのは高校に入ってから。だからチェロ専攻で大学に入学できるほど、レパートリーを弾いた経験もなかった。その道に進もうっていう子は大抵、レパートリーを多く弾いているものでしょ。でも、高校のチェロの先生がメリーランド大のチェロの教授のパートナーだったので「この子は真面目な生徒だから」と推薦してくれて入学が許された。そこでクラシック・チェロの音楽学士号をとった。

――つまり、大学生の頃は、クラシックしかやっていなかったと

ええ。というのも、私はスタートが遅かったから「このレパートリーを学ばなきゃ」「楽器をもっと学ばなきゃ」という思いが強かった。弾いてたのはほぼクラシック。そのころの私はプロのチェロ奏者を目指すなら他のことは邪魔になると思ってたから。今思えばそんな考えをしなければよかったのだけど、18歳、19歳の時ってそんなものでしょ。

◉シカゴへの移住とニコール・ミッチェル

―― あなたのキャリアにとってはシカゴへの移住が大きかったと思います。どんなきっかけがありましたか?

高校時代の親友がシカゴのNorthwestern 大学に進んだから、96年の夏、彼女に会いに行った。その時にシカゴに恋してしまった。
 
98年の夏、シカゴの検眼医の学校に通ってた姉が帰郷する間だけ、彼女のシカゴのアパートに私が住むことになった。その時、たまたま「Classical Symphony」というクラスのオーディションのチラシを見かけた。ここにいる間だけでもチェロを弾く場があったらいいと思って、オーディションを受けてみた。そこでニコール・ミッチェルに会った。

※Nicole Mitchell's Black Earth Ensemble『Afrika Rising』にトミーカは参加している

―― へー!

このオーケストラには黒人の弦楽器奏者が5人もいて、それだけで「私は絶対シカゴに引っ越してくる」と思った。だってそれまで黒人はセクションに私一人、もしくはオーケストラに一人ないしは二人いただけなのが、5人もいるなんて!それにニッキー(=ニコール)がクールですごくいい人で「シカゴに来るなら私のバンドで演奏して」と言ってくれた。私もずっとバンドで弾いてみたいと思ってたから。大学卒業後はクラシック以外のことをしてもいいかなと思い始めていたころだった。心の中で、オーケストラの道に進みたくないと自分でわかってたんだと思う。もしニッキーが本気でそう言ってくれているのなら、シカゴに移ってきたら、入れてくれるように頼もうと思っていた。

――なるほど。

そして2000年、荷物をまとめ、Greyhound(長距離バス)でシカゴに来た。De Pau大学に行き、ニッキーを探し出し、一緒に演奏するようになった。それを機にシカゴの即興音楽シーンに参加するようになった。それまで聞いていたジャズというとストレートアヘッドで、ビバップタイプのジャズだった。でもニッキーと出会い、Fred Anderson's Velvet Lounge(*2)で演奏するようになった。あれは当時、シカゴにいる者にとってとても意味のある場所だった。みんながその場で、集まり、フォームさえない音楽を即興で作っていた。私にとっては、そんな音楽は生まれて初めてだから、めちゃめちゃ怖いことだったのを覚えてる。

*2:Fred Anderson's Velvet Lounge=シカゴのエクスペリメンタルなジャズシーンの中心でもあるライブハウス。ジェフ・パーカーやマカヤ・マクレイヴンらも出入りしていた

――クラシック音楽を勉強してきた人は、ニコール・ミッチェルがやっているような音楽に触れることはなかなかなかったと思うのですが、最初に聴いた時の印象はどうでした?

私は最初からすごく好きだった!何よりも違ったのは、彼女が私に望んだこと。「変な音をいろいろ出してほしい」って。私はついこの間まで、大学の5年間かけて、キーキー鳴る音を出さないにはどうすればいいかを学んできたわけ。でも、それをやっていい、しかも人前で、コンサートでやれと言うんだから驚いた(笑)。私にとってコンサートは、1学期かけて練習した曲を、スタジオの授業で何度か演奏して、ようやく人前で演奏するものって印象だったから。前日の夜、もしくはギグの当日にリハーサルだなんて怖くて仕方がなかった。でもすごく楽しかった。リズムセクションがあるのも、「音楽と作曲家との距離」が近いことも新鮮だったし。

――音楽と作曲家との距離が近いとは?

クラシック音楽では21世紀ものではない限り、21世紀だったとしても、作曲家本人と一緒に空間にいるなんてことないでしょ?しかもコンポーザーが黒人の女性。(ニコールを見て)「私もいつかこんなことができるかもしれない」と思った。《Representation matters》(*3)と言うでしょ?まさにそれだった。彼女はバンドを率い、音楽を書き、ギグのブッキングもやっていたから。

*3:Representation matters=自分たちの代表(自分と同じ肌の色など)になるような存在が社会にいるということが大事という考え

◉シカゴのコミュニティ

もう一人、そこで出会い、私のメンターになったのはヴォーカリストのディー・アレキサンダー(Dee Alexander)。彼女も曲を書き、バンドをブッキングし、バンドを率い、ニッキー同様バンドでツアーを始めるところだった。シカゴの中でも色々な活動をしているけれど、それを全米に、そして海外にまで持って行こうとしていた。若い黒人女性の一人としてものすごく衝撃を受けた。そこがシカゴのシーンの中でも、特殊な点。というのも大抵、教えるのは男性。私のように二人の女性がメンターだった女性は、同世代の中にもほとんどいないはず。

※Dee Alexander『Songs for My Mother Loves』にトミーカも参加している

またマイク・リード(Mike Reed)にも感謝してる。数歳年上なだけだけど、私にとってのメンターだった。とにかくニッキーとディー はシャイで、ひどいステージ恐怖症で泣きながらステージに上がっていた私を、いつも励まし続けてくれたわ。ディーに「もうギグに頼めなくなるくらい、あなたはいずれすごく売れっ子になる」と言われて「何言ってんの?」と思ったこともあった。そのころの私は全く自信がなかった。二人からは常に「自分のバンドを作りなさい」「作曲をしなさい」と励まされていた。若い時は作曲もしてたのだけど、私はシンフォニーを書くのが作曲だと思いこんでいた。でも、いろんな種類の曲の書き方があるんだと、二人そしてAACM(*4)を通じて学んだ。「自分のvoice(声、主張)を見つけろ。人を引用するな」と。多くの学生は(誰の演奏を)採譜して、lickを一つくらい入れればそれでいいと思ってたけれど、彼らは「そうではなくて、自分のvoiceを見つけないとステージで自爆する」と言ってくれた。

*4:AACM=Association for the Advancement of Creative Musicians、創造的ミュージシャンの進歩のための協会。1965年にシカゴで設立された非営利団体。 アフリカン・アメリカンのミュージシャンの活動をサポートしている。ムハル・リチャード・エイブラムスが設立し、アート・アンサンブル・オブ・シカゴやヘンリー・スレッギル、アンソニー・ブラクストンも所属していた。ジェフ・パーカー、ユリウス・ポールなども在籍。

――シカゴのコミュニティでは最初からオリジナルなものを目指せる環境があったと。

あとはFred Anderson's Velvet Loungeで多くの仲間ができたことも大きかった。マイク・リードジョシュア・エブラムズはニッキーの紹介だったけど、彼はマイクと私がやってたバンドにいたし、グレッグ・ウォードジェイソン・アダシェヴィッツジェイソン・レブキキース・ジャクソン…など彼らのやってることを見て「いつか私もこういうことができるかも」と思ったから。

※Joshua Abrams『Represencing』にトミーカは参加している

◉AACMのこと

――AACMに加入したきっかけは?

ニッキーを通じて。あとはVelvet Loungeに出入りするうちに知った。私が加入したのは2005年。彼らもちょうど新しい風を吹き込むような若い世代を探していたところだった。
 
というのも団体創設当時は第一世代の人たちがいて、その後、80年代〜90年代も活動は盛んだった。でもなぜか、その時は少し低迷気味だった。ニッキーから最初誘われた時は、団体のことは何も知らなかったので緊張したけれど、メンターである彼女が言うのだからと、参加したって感じ。マイク・リード、私、コーリー・ウィルクスジュニアス・ポール…がいた。
 
そのころ、ジョージ・ルイスの本 『A Power Stronger Than Itself : The AACM and American Experimental Music』を読んで「なんだかとてもヘヴィ…」と思ったのも覚えてる。

https://press.uchicago.edu/ucp/books/book/chicago/P/bo5504497.html

その時は20代半ば〜だったから自分を見つけきれてなくて「この実験音楽という音楽に惹かれてはいるけれど、まだクラシックを完全に捨てたいわけじゃない」と思ってた時期。人からは「ジャズを演奏するとレッテルを貼られる。もうクラシック音楽が演奏できると思ってもらえない」と言われ…確かに音の外れたような曲があって、仕事がしたければ、完璧な演奏をするものだとクラシックの弦楽奏者としては思うわけでしょ。「どうしたらいいんだろ?」と板挟みだった。と同時に、ものすごくこの世界に惹かれ、魅了されていた。クラシックのセッティングでやってた時とは違う形で自分が参加できると思えたし、すごくシャイだった自分が人間として成長するいいチャンスだとも思えた。ステージ上で何かを作り出すことに、居心地の良さと悪さを両方感じながらも、自分で自分を奮い立たせようとした。そうすることで音楽的に発展するだけでなく、個人としても《be present》(=その場にいる)”ということを学んだ。決してこれで完璧ということじゃない。まだ私はこの音楽の中で成長している。空間、コミュニケーション、音楽を聴くこと…それらはフリーな即興演奏には欠かせない大きな要素。そういった様々な状況を通じて、結局は《Finding your own voice》というAACMの哲学を学んでいる。

「トミーカとは何者?」
「この音楽は私にどういう意味がある?」
とたくさんのことを自分に問い、その答えを探そうとしている。

◉チェロでジャズをやること

――ジャズにおいてチェロを弾く人はかなり少ないと思います。そんな中であなたはどんなものを研究してきたのでしょうか?

かなり少ないけれど、チェロはこの手の音楽において20世紀への変わり目、1900年代初めのジェイムズ・リース・ヨーロップ(James Reese Europe)まで遡るレガシーがある。おそらくアンプ(音の増幅)の問題や音域のせいだと思う。ヴァイオリンが主流になれたのは、音域が高く、音の通りがよかったから。チェロはバスドラやベースの音域だから、チコ・ハミルトンのアンサンブルやサード・ストリーム(*5)といった”そのほかの楽器”を探そうとする再復活の動きの中でも、見落とされたのではないかと思う。

*5:サード・ストリーム=Third Stream。1957年に作曲家のガンサー・シュラーが提唱したジャズとクラシックを融合する音楽のこと。ジョン・ルイス率いるモダン・ジャズ・カルテットやジミー・ジェフリーが有名

――なるほど。

でも、サム・ジョーンズダグ・ワトキンスオスカー・ペティフォードといった、私が《ベース・チェロ奏者》と呼んでる人たちの貢献は忘れちゃいけない。ベーシストの間にチェロのトレンドを作ったのはオスカー・ペティフォードだった。野球をしていて腕を折ってチェロを手にしたのがきっかけで、チェロにベースと同じ機能があることを見つけたということ。

あとは60年代サード・ストリームの人たち、ケイロー・スコット(Calo Scott)アブドゥル・ワドゥド(Abdul Wadud)…70年代は少しいないけど、アブドゥルは70年代にも少しやっていた。あとは、ディアドゥラ・マリー(Diedre Murray)…みな、チェロ奏者が尊敬するチェロ奏者。つまり彼らは元々(クラシックの世界で)チェロを演奏していて、そのあとでチェロでジャズを演奏するようになった。ベースからチェロに転向したわけではないってこと。そんな感じで、私たちチェロ奏者にも音楽の中の歴史はある

※Calo Scott:Mal Waldron「The Cattin' Toddler」でソロあり
※Abdul Wadud『By Myself』
「By Myself: An Interview with Abdul Wadud」トミーカによるアブドゥル・ワドゥドへのインタビュー記事
※Diedre Murray:Hannibal「The Rabbit」でソロあり

――へー。

ニコールの前に私がメンターとしていたのは、高校で大好きだった先生サイース・カマルディーンだった。彼が作ってくれた”聞くべきチェロ奏者のリスト”のレコードは必死に探した。今だったら、YouTubeとかがあって本当に楽だったと思う。見つけるのもだけど、全部買い揃えるのは貧乏大学生にとっては大変だったから。そんな中でも私が最も惹かれたのがアブドゥル・ワドゥド。彼は完璧なチェリストだった。ニュージャージー・シンフォニーで演奏してたほどテクニックはあったのに、同時にものすごくハイレベルで即興演奏もした。あと、知ってた?彼はクラシックの演奏会の時はロナルド・デュヴォン(Ronald DeVaughn)という名前で、即興ギグの時はアブドゥル・ワドゥドと名乗ってたんだって。最終的にはアブドゥル・ワドゥドで通したんだけどね。

話がそれたけど、私はそんな彼や、ディアドゥラ・マリーアクア・ディクソン(Akua Dixon)が率いていたカルテット・インディゴ(Quartette Indigo)エリック・ドルフィー『Out There』でのロン・カーターなどを聴いていた。

※Eric Dolphy『Out There』では前編でロン・カーターがチェロを弾いている

――ジャズにおけるチェロをひたすら調べ上げたと。

そう。でも、チェロの凄い点は、レガシーがない分、伝統に則る必要がないので、聴くとどのチェロ奏者もみんな違ってること。どのアルト奏者の肩にもチャーリー・パーカーという大きな存在が乗っかってるものだし、テナーならソニー・ロリンズ……ドラムならアート・ブレイキー……「私はどうしたらいい!?」ってくらいの大きすぎる存在がいる。でも、それがチェロにはない。だから自分のvoiceを見つけ、自分のやり方でどう自分を、もしくは自分の音楽を自分の楽器で表現し、利用するかを決められる。私がしているように座って弾き続けることもできるし、ムニーエ・フェネル(Muneer Fennell)みたいに弦を2本増やして6弦にして、しかも立って弾くこともできる。「ジャズではこう弾くべき」というものがない。可能性がいくらでもあるってことだから、逆にとてもエキサイティングだったと思う。

――型が無いことのメリットですか。

あともう一つ。色んなセッティングで演奏するようになると「こういうのは知ってる?」と”ジャズの言語”で話されることもあった。それで私も採譜(transcribe)を始めることにした。でも、チェロ以外の楽器をね。そうすることで、チェロ的な考えを捨てることができたから。チェロの演奏というと“長く伸ばして、ヴィブラートをかける”ばかり。それも美しいけど、そこから抜け出すにはどうしたらいいかを考えるようになって、ベース奏者を聴くようになり、オスカー・ペティフォードを聴いた。ビバップではどうなのかってことを考えるようになって、トランペット奏者、サックス奏者と聴いていって、最終的に特に参考になったのはトロンボーン奏者だった。

ーートロンボーンですか

トロンボーンは弦楽器じゃないのに、キーがない。チェロもギターのようなフレットがない。その点でトロンボーンとチェロは(構造が)似てるから。音を探すには身体を使って移動するしかない。トロンボーンが前に出したり引いたりする動きなら、チェロは右か左の動き。だから、トロンボーンを採譜するのはいいエクセサイズになった。グレイシャン・モンカーJ.J. ジョンソンカイ・ワインディング…彼らの音楽が大好きだった。そうやって”言語”を学び、見つけるために、他の楽器を採譜し、それをどうチェロに当てはめられるか、試したりした。

採譜だけじゃなくて、実際にアンサンブルで演奏しながら、たとえばニッキーがフルートで歌っているのを聴いて「あのサウンドを私のチェロで真似るにはどうする?」「オクターブで弾いてみよう」「あのパーカッシヴなサウンドをチェロで出すにはどうすればいい?」「サックスが出したあの速い連打のような音を、キーがないチェロで出すにはどうすればいい?」と考えたりもした。

◉作曲論とキュレーション

――では、次は作曲家について、です。これまでに研究した作曲家は誰ですか?

私は自分のバンドを率いるのが好きなのと同じくらい、コラボレーションが好き。人のプロジェクトでプレイすると色々学べるから。《学ぶ》というと学校の勉強的なものをすぐ頭に浮かべてしまうけど、それは偏見。考えを変えなきゃいけない。
 
たとえば、ニコール・ミッチェルの音楽はマイク・リードのとも、ディー・アレキサンダーのとも違う。つい最近、私がやったデイヴ・ダグラスのツアー、マイラ・メルフォード(*6)のツアー、トマ・フジワラ7 Poets(*7)イングリッド・ラウブロック…そのどれもがいい経験だった。

*6:Myra Melford's Fire and Water Quintet (M. Melford, I. Laubrock, M Halvorson, T Reid, L. Mok『HEAR THE LIGHT SINGING』
*7:TOMAS FUJIWARA (Tomas Fujiwara, Tomeka Reid, Patricia Brennan)『7 POETS TRIO』

アンソニー・ブラクストンのアンサンブルでプレイしたことも忘れられない。研究ということであれば、それが成功したか否かは別にして「Peripatetic」は私が考えるブラクストン的アイディアをソースを煮詰めるようにして書いた曲。

結局は、こういった色んな人たち、ロスコー・ミッチェルの考える《空間という概念》の中で演奏する経験、それが学びだったのだと思う。それを経験できた自分はラッキーだった。

――なるほど。

作曲って曲を書くだけじゃなくて、《バンドをキュレートすること》でもある。音を書き留め、コンセプトを作ることはあくまでも(曲の)一部。それ以上に大きい部分を占めるのはプレイヤーたちのキュレーション。デューク・エリントンはそれを実践した人だった。それぞれのプレイヤーの席に誰を持ってくるかを、ものすごく考えた人だった。今の私のカルテットにはとても感謝している。だって音はいくらでも書けるけど、自分の書いた音楽に命を吹き込むのはプレイヤーなんだから。自分たちの生きてきた人生の歴史を全て音楽に注いでくれる人をいかに選ぶかが大事ってこと。だから、私は様々なアンサンブルに参加し、自分以外のプレイヤーがその曲をどう演奏するかを見て、聴いて、彼らの音の解釈、アイディアを伝えるコミュニケーション力を学んできた。バンドを率いるというのはただ存在感を出そうとするのではなく、アンサンブルのキュレーションが大事なのだということも。

つまりいかに人を選ぶか、なぜこのプロジェクトにはこの人なのか、ということ。なので、(私にとっての作曲は)ジョン・コルトレーンのレコードを研究して、彼のハーモニック・ストラクチャーを学び、フォームを理解するということだけじゃないってこと。

最近は《performer-composer》(*8)という言い方がよくされるようだけど…でもそれならサン・ラもそうじゃなかった?と私は思う…、とにかく今はそれが流行ってるみたいなところがあって。でも、昔から(さっき名前があがったような人たちは)皆、performer-composerだった。だから自身のプロジェクトを作るにあたり、彼らが作曲にどう取り組み、それをどう取り入れているか、参考にした。カルテットに限らず、大きなストリング・アンサンブルであるTomeka Reid StringtetArtifactsとのコラボレーションなど、あらゆるプロジェクトにそれは当てはまってる。

*8:従来のジャンルの枠組みにとらわれず、作曲・演奏・即興の境界線上にある新たな即興演奏を模索するもの。NYのニュースクールにはその名前のプログラムがある。https://www.newschool.edu/performing-arts/performer-composer/

◉トミーカ・リード・カルテットの成り立ち

――今、キュレーションということを言われましたが、Tomeka Reid Quartetは弦楽器が3人いる変わった編成です。弦楽器へのこだわりが強いんですね。

そもそも弦楽器が大好きだから。来週末、String Festival を主催する。ジャズ/ジャズ即興音楽におけるストリングスを応援したくてやっていることの一つ。もちろんこれまでも弦楽器奏者はいたわけだけど、もっと私たちは勇気づけられるべきだと思う。

長いこと、シカゴで、弦楽器奏者としての私は孤独だった。チェロ奏者は長いこと、私とフレッド・ロンバーグホーム(Fred Lonberg -Holm)くらいしかいなかった。ヴァイオリンならジェイムス・サンダースとかいたし、近年はシカゴにも弦楽器の即興演奏者は増えたけど、私がNYに移ったころはそうじゃなかった。私は唯一の女性、しかもブラックの女性弦楽器奏者。なんだか”男子専用クラブ”にいるみたいな気がして「もっと演奏がしたい、もっと学びたい」と思った。

だから、もっと弦楽器奏者がいる、女性がいる、ノンバイナリーな人たちがいるNYに移った。そしたら「え?ヴィオラはメキシカン?最高!」(笑)って感じ。シカゴのジャズ/即興音楽シーンではアジア人も正しくレプリゼントされているとは言えなかった。そうやってNYで自分以外の人たちと共演することができて、彼らがどんな体験を音楽で表現するのか、それを知れたのはとてもエキサイティングだった。

――メアリー・ハルヴァーソンはギタリストとして非常に個性的です。そして、彼女はエフェクターを使って、誰もやらない独特の音色を奏でて、それをフレーズに組み込みます。そんな彼女の演奏はTomeka Reid Quartetで最も輝いていると僕は感じています。

それは大勢の人から言われる。その度、私は「やったー!」って(笑)。

最初のメンバーは私とジョシュ・エイブラムソンマット・シュナイダーの3人。マットのギターはアメリカーナ風だった。私は自分でも何をやってるのかもわからない感じのクラシカル、ジャズ、アヴァンギャルドなどなど。そのミクスチャーがとても気に入ってたんだけど、このメンバーで続けられなくなってしまった。

そんな時にマイクがやってるLiving By Lanternsという約10人くらいのグループに誘われ、そこにはトマ・フジワラとメアリーがいて、初めて二人に会った。その後、マイクがLiving〜を小さなユニットに分けて、私はトマとニック・ブッチャーとのユニットになったのだけど、私はトマとの相性がすごく良いと思った。トマはNYで活動していたから、一緒にバンドをやるならトマト一緒にメアリーも入ればすごくいいんじゃないかって思った。

※Living By Lanterns『New Myth​/​Old Science』にトミーカとメアリー・ハルヴァーソン参加

◉アコースティックとエレクトロニクス

ーーへー、そうだったんですね。

彼女はマット・シュナイダーが絶対使わないペダルを使ってた。当時、私はアンチ・エレクトロニクス派で、エレクトロニックなサウンドは好きだったけど、エレクトロニックな音をアコースティックのままで再現する方法を見つけようとしていた。そのために鉛筆やペーパークリップで楽器を叩いたりしてた。でも、メアリーには彼女だけの独自のスタイルがあって、それはすごく洗練されていたし、面白いって思えた。

当時、私は多くの弦楽器奏者からは面白みを感じていなかった。ベースラインを弾いて、compパートをループして、その上でソロを取る…。それもクールだし、私もやったし、楽しいのはわかる。でも、何かが違うって感じていた。メアリーも重ねたり、ループを乗せたりする。でも、メアリーは私が聴いてきたチェロやヴァイオリンの人たちとはどこか違っていた。

――なるほど。

一緒にバンドをやるようになってから、エレクトロニクスにも関心が出ていたけど、エレクトロニクスに関しては、メアリーに任せようって思ってた。私は私なりにアコースティックのままでエレクトロニックのようなサウンドを模索しようって。

そんな時に私はメアリーの先生であるジョー・モリスと共演(*9)するようになった。そこで彼の演奏を聴いて驚いた。彼はメアリーがエレクトロニクスでやってたbendなどを、アコースティックのままで鳴らしていた。それはまさに長い間、私が探していたエフェクトを使ったような演奏だった。

でも、新作『3+3』からは2曲でペダルを試している。メアリーが私を触発したのもあって、今の私は昔ほどエレクトロニクスに対する抵抗は無くなったから。とはいえ、アコースティック・サウンドはキープしたままで使うようにしてる。だって私はチェロのサウンドが大好きだから。えこひいき目に言うけれど…チェロは最高の楽器(笑)。アコースティックな自分のサウンドを守りつつ、チェロという楽器を追求し、同時に色々なテイストも取り入れて、常に変わり続けようと思ってる。

*9:Tomeka Reid - Joe Morris『Combinations』

◉AACMの今

ーーAACMは長い歴史がある団体です。長い時間をかけて継承されているものもあれば、時代に合わせて変わってきたものもあるのではないかと思います。現在のAACMの存在意義において「変わらないことによる良い部分」「変わったことによる良い部分」について聞かせてください。

あぁ…彼ら自身は変わっていると思っているけど、あまり変わっていないというのが現状かも(苦笑)。うーん、どう答えたらいいんだろう、難しい…

ーー僕らにとっては、何をやっているのか、いまいちわかるようでわからない団体でもあるんですよ。でも、よく名前は出るし、重要な団体なのはわかる。なので、僕はいろんな人にどんな団体なのか、聞いているんですよ。

なるほどね。でもね、アメリカ人っていうか、私もいまいちよくわかってなかったりする(笑)

ーーそうなんですね(笑)

《Power Stronger Than Itself》(それ自体よりも強い力)というキャッチコピー以上の真実はないと思う。今もその精神は受け継がれている。Junius Paul-ismを引用するなら、《it keeps going》 ということ。

とはいえ、みんな頑張っているけれど、創立された当時と比べると、今は時代的に大変なんだと思う。60年代後半〜70年代にはAACM Schoolがあった。今も存続させようとしているけど、建物不足の問題がある。スペースはあるんだけど、団体内には他の優先順位もある…という感じで思うほど活動ができていないかも知れない。関心、能力、時間、みな人それぞれだから。
 
来年が60周年なので、昨日も会合があった。パンデミックのせいですべてがZOOMになってしまったことも原因にあるのかも知れない。今も対面の授業をやってるのか、私にはわからない。私自身はシカゴにいる時間が少ないので、活発な会員ではないから。ニコール・ミッチェルマイク・リードと一緒にArtifactsを始めたのが10年前の2015年なんだけど、その時点で私は各地を転々としてたから、AACMに関しては頻繁に活動をしていなかった。

それでもAACMの一員であること、《Do it yourself to find your own voice》という団体の哲学には影響を受けた。私は先達を敬い、自分が今やっていることに受け継いだレガシーにお返しがしたい。その年、ACCM創立50周年で、私はあまり活動に参加できなかったので、何か団体への愛を示そうと初めたのがArtifacts。ACCMのコンポーザーたちの曲を演奏するというのが目的だったので1st『Artifacts』、2nd『.​.​.​and then there's this』(2021)は彼らの曲を取り上げた。でも「私たちもACCMのメンバーじゃない?」(笑)と思い、最近では自分たちの曲もやるようになった。

今後もその方向で、ACCMという団体とそこから出てきた素晴らしい楽曲への感謝を発信し続けたい。だってまだ多くの人がヘンリー・スレッギルフレッド・ホプキンススティーヴ・マッコールらとやっていたバンドのAIRのことも知らない。私たちのことは知っているけど、AIRを知らない世代へ、私たちが引き継げたらと思う。

ロスコー・ミッチェルの音楽、スティーヴ・マッコールフレッド・ホプキンスリロイ・ジェンキンスアミーナ・クローディン・マイヤーズの音楽も今に伝えてきたい。それがArtifactsの目的だったから。実際、創立60周年までに、もう少しプロジェクトを進ませておきたかったのだけど、パンデミックで思うようには進んでなくて。

ーーなるほど

でも、今、AACMの本を書いているので、それによって彼らが公私共に果たした貢献に人々の関心を向けたいと思っている。

あと、少なくともシカゴ支部では、ほとんどの活動を行っているのは女性たちだから!

ーーそれはどういうことですか?

素晴らしいミュージシャンたちの影には、妻やガールフレンド、大勢の素晴らしい女性たちが常にいた。男たちの面倒を見て、子供を育て、作曲し、踊り、歌い、パフォーマンスをし、全てのことをしていた女性たちがね。それを伝えるのには難しい部分もたくさんあるけど、私はそこに対して何かしたいと思っている。なぜなら今、自分が体験している音楽的経験は、AACMの一員になれたことで体験できたことだという事実は否定しようがないから。

ーー女性の話が出ましたけども、AACMからはアミーナ・クローディン・マイヤーズニコールマタナ・ロバーツ…そしてあなた、と女性ミュージシャンを多く輩出してきました。それを可能にしたのはなんだったと思いますか?

ニコール・ミッチェルの話を何度も出したのは、彼女が私の人生にとって重要な人物だったこともあるけど、彼女が私やマタナといった世代が団体に加入する上で果たした役割が甚大だったから。AACMも決して常に女性に優しい団体だったわけじゃない。リタ・ウォーフォード(Rita Warford)は多くのライヴをやっていた。あとアン・E・ウォード(Ann E. Ward)も忘れちゃいけない。残念にも2016年に亡くなったけど、女性がここまで来られたのは彼女のように自分で道を切り開いてきた人がいたから。

他にもハープ奏者のマイーアココ・エリシーズ(Coco Elysses)シャンタ・ナルーラ(Shanta Nurulla)…。加入したいと思っても、女性は必ずしもすぐに受けれられてはいなかった。この音楽に関わりたい、このサウンドが、この活動が、この哲学が好き、と思っても初期のリタ、アミーナ、マイーア、シャンタといった女性たち、ニッキーですら、自分の主張をやり通すことでようやくAACMの一員になれたわけだから。

ーーそうだったんですね…

私、マティナ、レネ・ベイカー(Renee Baker)、今ならジョヴィア・アームストロングマンクウィ・エンドーシ(Mankwe Ndosi)ウゴチ・ノアオググ(Ugochi Nwaogwugwu)アレクシス・ロンブレ(Alexix Lombre)…。アレクシスは一番新しいメンバー。もちろん色々あるけれども、2000年代以降は女性が多く受け入れられるようになっている。そして、実際にAACMを今、動かしているのはそういった女性たちだってことは私が改めて言っておきたいこと!

※ニコール・ミッチェルのアルバム『Sesc Jazz: Nicole Mitchell's Black Earth Sway』にはアレクシス・ロンブレ、ココ・エリシーズ、ジョヴィア・アームストロングらが参加している

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