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Jazz The New Chapter 6:Afterword/あとがき

『Jazz The New Chapter 5』はJTNCシリーズをスタートしてから、初めて手ごたえもしくは充実感みたいなものがあった本だった。それゆえに、僕は正直、JTNCでこの後、何やったらいいのかちょっと考えあぐねていたのが2018後半~2019前半。『MILES REIMAGINED』で掴んだ方法論を『4』で実践して、それをブラッシュアップして、『5』ではかなり満足がいくもができた感触があったからだ。

JTNCに関しては、本を出すとか出さないとかまだ決まっていない時点で、すでに次の取材を始めている。というか、その号の骨子が決まった後に来日したアーティストに関しては、制作真っ只中のタイミングに取材をしてはいても、その号にハマらなければ載せられないので、必然的に次の号のための取材ということになる。それは『6』に関しても同じで、僕は2020年1月の段階で既に『7』のための取材をしていた。これはある時期から遅いメディア/遅いジャーナリズムみたいなことを考えるようになったこともある(ので、『6』でのフライング・ロータスの2本目のインタビューには大いに共感しながら話を聞いた)。なので、『5』が出る前から既に『6』の取材も始めていたので、すでにそれなりに動いていた。ただ、何をやるべきか、『5』みたいな面白さをつくれるのかどうかを考えると、なんとなく先が見えてなかった。

そんな時にたまたま知り合ったのがオランダでGood Music Companyというエージェント会社をやっているマイクとユルゲン。

彼らはスナーキー・パピーをはじめ、様々なジャズ・ミュージシャンと契約しているエージェントで、アメリカのアーティストのヨーロッパでのツアーのプロモートから、マネージメントまでいろいろやっていて、今ではヨーロッパだけでなくワールドワイドに動いている面白い会社だ。彼らはシャイ・マエストロの『The Dream Thief』リリース後の来日に合わせて、いくつかの商談も兼ねて日本に来ていた。僕がシャイには以前から何度も取材して顔見知りだったこともあり、シャイが僕を彼らを紹介してくれて、そこでJTNCを見せて話しているうちに親しくなり、その後もSNSでやり取りをするようになった。その時にたまたま持っていたJTNCを見て、僕らに関心を持ってくれて、その後、彼らが契約しているアーティストにも僕のことを聞いたらしく、そこから更に強い関心を持ってくれるようになったのも親交が深まった理由だった。その彼らが契約していたアーティストの一人がマカヤ・マクレイヴン。『5』でのマカヤの扱いが良かったことだけでなく、マカヤが日本でやったシークレットライブを僕が手伝ったりしたことなどを知って、僕がやろうとしていることをかなり深く理解してくれて、共感を抱いてくれているようだった。

その時に、マイクから「君は(スナーキー・パピーが主催している)GrounUP Music Festivalは一度行ったほうがいいよ」と彼らに言われて、彼らが言うんだったら間違いないだろうと思って、2019年に金も無いのに思い切ってマイアミへの航空券を取り、GrounUP Festivalに行ってみて、少し視界が開けた、というのがこの『6』の本当の始まりだったと思う。

マイアミがとても美しい場所で、会場が最高のロケーションだってことは以前、スナーキー・パピーのマイケル・リーグからも聞いていたし、マイクとユルゲンもそこを強調していた。たまたま2018年の年末に朝日新聞系のウェブメディア&Mのためにやった挾間美帆のインタビューの撮影に来ていて知り合ったフォトグラファーの山本華が「1月からアメリカに留学するんです」と言っていたので、「週末にマイアミまでジャズ・フェスの写真を撮りに来ませんか?」と言ったら2日間来てくれたので、フェスの雰囲気が伝わる素敵な写真をたくさん載せることができた。

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フェスのあれこれについてマイクとユルゲンとやり取りをしているときに「あなたたちエージェントの役割について取材を受ける気はない?」と聞いてみたら快諾してくれたので、シャイ・マエストロと挾間美帆が共演した《NEO-SYMPHONIC JAZZ at 芸劇》のジャズのために再び来日したマイクとユルゲンの取材をやることになったりもした。彼らと二度も顔を合わせることができたのは挾間美帆が芸劇との大きい企画にシャイ・マエストロを起用してくれたからだ。そういったことが本を1冊作る際のイメージみたいなものを形にしてくれた。つまり、この本のいろんなことはシャイ・マエストロと挾間美帆が繋いでくれた縁がきっかけだったりする。

そして、フェスで見た音楽、そして、フェスそのものがあまりに素晴らしく、そこで観たことや体感したことを元に取材をしたり、構成を考えた。ジェイソン・JT・トーマスボブ・レイノルズら、フェスで会ったミュージシャンたちにそのことを伝えながらインタビューをしたこともいい結果を生んだし、あの時にマイアミで観たデヴィッド・クロスビーのライブの感動が高橋健太郎さんのすさまじい論考を含めたかなりのボリュームを割いたデヴィッド・クロスビー特集に繋がっている。ちなみにマイアミの後に行ったNYで唐木さんと一緒にジャズ・ギャラリーにライブを観にいって知り合い、その後、SNS上で何度かやり取りをしていたカッサ・オーバーオールが2020年にアルバムを出して、日本でライブをするというので彼とあれこれやり取りをしているうちに、オフィシャル・インタビューをやることになり、これを『6』に掲載した。これがこの本にとってかなり重要な記事にもなった。

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この秋には、若林恵の黒鳥社のプロジェクトで、ジェイ・コウガミ岡田一男矢代真也らとでロンドンに取材ツアーに行った。僕の行きたいところもスケジュールに入れてくれて、そこで見たもの、感じたこともここには入っている。僕が見たロンドンの音楽業界は、音楽そのものやジャズが云々というよりも、音楽シーンだけでなく行政などもが一体となって音楽を使ったある種の社会実験をやっているようにも感じて、強い関心を持った。UKジャズに関しては、これまでの僕は繰り返し音源を聴いてみても現在のUKのジャズのシーンのことが自分の中でうまく捉えられなかったし、様々な原稿やインタビューを読んでも書かれていることに正直ピンとこなかった。それまでのリリースから予想はしていたが、来日公演の中にはその演奏や作曲のクオリティにがっかりするようなものもあった。ただ、2019年に入ってからはリリースされる作品も少しづつ焦点が合い始めていたし、作品のクオリティも徐々に上がってきているように思えた。UKのアーティストが頭の中で描いたサウンドを少しづつ録音物として形にできるようになってきているのは確かだった。つまり、2019年を境にアーティストの意図が音源にも刻まれ始め、僕の耳でも聴き取れはじめていた。それはジャズだけに限らずジョルジャ・スミス「be Honest」や、2020年に発表されたJ Hus『Big Conspiracy』辺りにもそういうものを感じられた。そういうことを感じるようになってからロンドンに行って、実際に現地の状況を見られたり、話を聞けたことはタイミング的にも良かったのだろう。トゥモローズ・ウォリアーズでの取材も、スティーム・ダウンを観に行ったことも、自分の中の視点が出来上がっていたので、スムースに理解ができたと思う。それも若林恵がロンドン・ツアーをやると言い出したからだし、その時にふと思いついてロンドンのWorldwideFMで働いている木村真理さんに相談したから実現したものも多い。(※ちなみにこの若林恵とのツアーの成果は、カンファレンスやいくつかの記事として形になってはいるが、できれば書籍的な形でまとめたいと思っている。)この『6』の中ではUKの特集のボリュームはさほど大きくはないが、この時に得た経験や考え方はかなり様々なところに入っているはず。

というわけで、いつものことだが、つまりは計画したわけではなく、偶然が連なって、結果的にこういうものができた、ということなわけだ。

ただ、この本にもいくつかの音楽的なテーマ、もしくは問題意識、または視点みたいなものは存在する。その最も大きなもののひとつは《ハーモニー》だったと思う。それはここ数年の僕の関心からでもあるし、それはベッカ・スティーヴンスミシェル・ウィリスデヴィッド・クロスビー、そして、ジェイコブ・コリアーの音楽がもたらしてくれたものでもあるし、それは『4』や『5』からやってきたことの延長でもある。彼らが作り出すのは生でのコーラスにしろ、多重録音にしろ、まるでヴォコーダーやオートチューンを使って変調させたような時にエレクトリックにも錯覚してしまうような響きをいくつかの声を同時に鳴らして響き合わせることで生み出している。その響きの面白さが音楽の魅力に繋がっているものが増えている気がしていた。その最たる例がジェイコブ・コリアー。彼にはどうしても話を聞きたいと思っていたので、来日するときにはすぐにオファーをして、あの驚愕のアレンジの「Moon River」の話を聞いた。

そして、ちょうどのころ僕がよく聴いていたのはジェイコブ・コリア―にも通じるような不協和音を取り入れた聖歌や合唱曲。その中でも16世紀の作曲家カルロ・ジェズアルドの不協和音を取り入れた合唱曲を気に入っていた僕は、そういった音楽のことをもっと知りたくなっていた。なので、ここではクラシックの専門家の小室敬幸くんにジェイコブとジェズアルドを繋ぐような原稿をお願いした。ここでの話はブラッド・メルドー『Finding Gabriel』あたりにも繋がると思うし、New Amsterdamレーベル周辺のインディークラシック界隈にも繋がるだろう。そして、これが2020年に新作を発表するモーゼス・サムニーとも関わってくる(と予想される)のが面白い。モーゼス・サムニーは音楽教育を受けているわけではないのだが、教会でのクワイアでの経験やブラジル音楽やクラシック音楽など幅広い音楽を聴いた経験から、自分の耳と頭でそれを作り上げている。モーゼスのような音楽を聴いていて思うのは、こういった不思議なひっかかりがあり、でもとてもエモーショナルで、それでいて気持ちのいい響きを作り出す人たちは自分の耳に聴こえたサウンド、もしくは自分の頭の中で鳴ったサウンドに忠実に思えることだ。2019年の僕はそんなことをずっと考えていたら、ブルガリアン・ヴォイスについて原稿を書いてくれと頼まれたり、石若駿×岸田繁 対談の中で岸田さんが「ピッチを修正しないこと」や「自分の耳に聴こえた音に立ち戻る」ことについて話してくれて(そこは記事の流れ上、ばっさりカットしたが)、この本のためだけなく、普段の仕事でも考えることになったりしていた。これも偶然だった。

またさっき名前が出たメルドーについて考えると、ここ数年、コンテンポラリージャズ周りの表現が変わってきているのを個人的には感じていた。もっとも感じたのはデヴィッド・ボウイとのコラボを経た後に来日したマリア・シュナイダーで、そのエピソードは『5』のマリアのインタビューを読んで欲しいが、今まで計算された流麗さの中に巧みに奇妙な構造を仕込んできたジャズ・ミュージシャンが多かったように僕は思っていて、僕の中ではマリアもそんな一人だった。マリアといえば、鳥や空を始め、自然をテーマに選んだシネマティックで美しい作品が多く、現在最新作の『The Thompson Fields』もアメリカの広大な地平をや自然を思わせるもの。そんなマリアが突如、ダークでのノイジーでアブストラクトなサウンドをライブで披露した時には心底驚いた。ボウイとのコラボによる「Sue」よりもはるかに刺激的なサウンドがそのうち、彼女の新作の中で発表されることだろう。

ただ、その予兆はシーンの中にはあり、ダーシー・ジェイムス・アーギューは『Real Enemies』でそのタイトルそのままのごりっごりに不穏な音楽を奏でていた。また、マリアのバンドのトロンボーン奏者のライアン・ケバーレも『The Hope I Hold』ではマリアとも通じるダークなサウンドの曲を録音していた。そんな作品のことが気になっていたタイミングで、ブラッド・メルドーが『Finding Gabriel』を発表した。あんなやけくそみたいなパワフルなトランペットやサックスの演奏を収録させたメルドーにかなり驚いた。それは不穏というよりは怒りにも似た感情を表すような演奏で、不条理や無理解や非道さへの抗議のようにも聴こえるものだった。表現方法は違うが、カミラ・メサの『Ambar』にもそんな抗議を感じさせる瞬間はあったし、アンブローズ・アキンムシーレ『Origami Harvest』やアントニオ・サンチェス『Lines in The Sand』もそのうちのひとつだろう。もちろんこれまでにもケンドリック・ラマー『To Pimp A Butterfly』やカマシ・ワシントン『The Epic』、コモン『Black America Again』などでブラック・ライヴス・マター経由の怒りのような感情が表現された音楽もある。メルドーらのサウンドには怒りや不満、悲しみだけでなく、やるせなさや無常感や無力感、更には祈りも近い願いのような切実さも含め、アメリカと世界の現状に対する複雑な情感が渦巻いている気がした。そういった様々な思いがノイズやダークなハーモニーに込められているように聴こえた。不協和音をコーラスに取り入れて響きをぶつけたことによる濁ったような質感も、破壊や爆発を思わせる直情的なフィーリングも、おそらく時代の何かを表している発露のようなものかもしれない。

その一方で、スピリチュアルジャズ的なサウンドがもてはやされたり、ヒッピー/ニューエイジを思わせるサウンドが目につくようになったりもした。サンラアリス・コルトレーンの名前をやたら聴くようになった流れもある。こういう流れのことも知りたくて、カルロス・ニーニョに話を聞いてみたりもした。近年は、ある種の精神性みたいなものと関係のある音楽をよく耳にする。例えば、デヴィッド・バーンのルアカ・バップ・レーベルがここ数年でアリス・コルトレーンのカセットテープ音源を再発し、レアなゴスペル音源を集めたコンピレーションをリリースして、その2枚に「WORLD SPIRITUALITY CLASSICS」というシリーズ名を冠した。それ以外にもライト・イン・ザ・アティックからのニューエイジのリリースもあったり、カルロス・ニーニョが関与したララージの新作なんてのもあった。

そういった様々なサウンドが何を表しているのかは正直、まだよくわからない。カニエ・ウエストがサンデー・サービスやったりすることとも関係あるかもしれないし、エスペランサ・スポルディングが80年代の西海岸でニューエイジに支持された非科学的な民間療法からインスパイアされた奇妙なアルバムを作ったこととも関係があるかもしれないし、UKからシャバカ・ハッチングスみたいな超肉体派でパンク的な爆発力によりノイジーな即興演奏を行いつつ、アフロフューチャリズムを感じさせるサウンドを作るサックス奏者が出てきたこととも関係があるかもしれない。ソランジュが出したアルバム『When I Get Home』のメディテーションっぽさや短いラーガのような構造もここに接続できる気がする。その前にはニューエイジやヒーリング、スピリチュアル・ミュージックなどをずいぶん前から実践し続け、近年より深くその世界に入り込んでいるカルロス・ニーニョの存在もある。この本の取材の間にも多くのミュージシャンたちが、ヨガやメディテーションの話をしていたり、ベジタリアンやビーガンになっていたり酒をやめていたり、気候変動の話をしていたり、いろんなことがあった。この本を作りながら、いろんなことを考えながら、とりあえずわからないものはわからないままひたすら本の中に入れていった。

あともうひとつトピックがあるとしたら、ビヨンセの『Homecoming』以降との繋がりか。それまでにもジャズミュージシャン達のビバップ以前への回帰なども含めて、ジャズ史とアメリカ音楽史の再点検については度々語ってきたが、そこを今回『6』ではさらに深めた感がある。そもそも西アフリカから連れてこられたアフリカ人奴隷がカリブ諸島を経由し、アメリカやヨーロッパへと送られた奴隷貿易により、アフリカから様々な音楽の要素が伝わった背景があり、そのアフリカ由来のDNAがアフリカ~カリブ~アメリカのそれぞれの土地で様々な形で発展した結果生まれたディアスポラの音楽たちを、アメリカにおけるカリブ諸島から来た文化の玄関口だったルイジアナ出身のビヨンセが、現代のアメリカ的な視点でそれらをまとめ上げたのが『Homecoming』だったというような見方もできる。『6』ではそこと繋がる話がいくつも散りばめられていると思う。クリスチャン・スコットコートニー・パインは正にそこの話をしているし、僕がアンジェリーク・キジョーに惹かれるのもその部分だ。今のイギリスの中のカリブやアフリカからの移民の2世、3世たちによるジャズに関しても、ジャズであることは一旦脇に置いといて、そのディアスポラをどう表現しようとしているのかの部分を僕は聴いている、と言っていいかもしれない。

それにビヨンセが黒人大学をモチーフに使っていたが、そういったアメリカのアフロアメリカン音楽史の再点検も『6』も重要だ。例えば、ラプソディーは『eve』の中でニーナ・シモンなどとともにアフェニ・シャクールの名前があったり、ジャミラ・ウッズの『LEGACY! LEGACY!』ではアーサ・キットベティ・デイヴィスを思わせる曲名があったりする。そういった歴史の再検証と再評価が音楽にも反映されているのはジャズも同じで、歴史が現在の事情に合わせて編み直されているのは、あらゆる場所に見ることができる。それは『6』で取り上げた映画『グリーン・ブック』のモデルとなったピアニストのドン・シャーリーにも同じことが言えるだろう。ドン・シャーリーの音楽が長らく僕のようなリスナーの耳にも届かなったことは、これまでのアメリカでのブラックミュージックに対する考え方や歴史観の偏りが妨げていた可能性も大いにある。クラシックを好んだ彼が敢えて、ポップな選曲の中に超絶テクニックをねじ込んだような演奏をしたことは、当時のアメリカのクラシックのシーンでは黒人であることで演奏させてもらえなかったドン・シャーリーの立場とも無関係ではない。『5』でクリスチャン・スコットはキャブ・キャロウェイのおどけたようなスタイルが昔は好きではなかったが、あの時代のアフロアメリカンはシリアスな表現が許されず、そういった振る舞いをするしか人前で音楽を演奏する術がなかった背景を知ってからはキャブ・キャロウェイを見る目が変わったと語っていた。それがイギリスでも同様だったことはコートニー・パインがカリビアンの立場から語ってくれている。そういった文脈がわかると、ファッツ・ウォーラーの演奏からもわかることがあるし、陽気な振る舞いやラテン・ジャズにこだわったディジー・ガレスピーみたいな人を再考する必要が浮かび上がる。ジャズ以外でもハーレム生まれのカリブ系アメリカ人歌手ハリー・ベラフォンテが50年代からカリブ諸島から南米、アフリカを含めた世界中のフォークソングを歌ってきたことの意味も見えて絵来る。それに、笑わない黒人だったマイルス・デイヴィスの振る舞いの意味が分かってくるだろう。そういう意味では、『6』でも少し触れたドロシー・ドネガンヘイゼル・スコットのような黒人で、しかも女性だった演奏家が、風変わりなパフォーマンスをしていたこと、更に言えば、アリス・コルトレーンメアリー・ルー・ウィリアムス秋吉敏子らの特異な音楽性について、再考する必要があるのだろう。ちなみにアメリカではこういった研究はかなり進んでいて、そういったアカデミックな場での歴史の更新が最終的にポピュラーミュージックの世界にまで届いていることが、ドン・シャーリーみたいな人に光が当たることや、近年のアリス・コルトレーンの再評価とも無関係ではないはずだ。

そういえば、「最近のジャズは新しいトピックがないですね。」「最近のジャズは地味ですね。」なんて言ってくる人は『JTNC』を始めてから途切れずに現れるが、ここ2年ほど、少し多めだった気がする。たしかに『Black Radio』『You’re Dead』『The Epic』『To Pimp A Butterfly』クラスの事件はなかったかもしれないし、ドラマーが打ち込みにビートを人力で叩きましたみたいな話はもはや(日本でも)かなりメジャーな場所でも定着したし、今やその精度や、その中でのクリエイティビティが求められていて、ただの人力○○では驚かなくなってきた。その代わりに、プログラミングとドラミングを、もしくはエディットやポストプロダクションを含めた様々な要素を平等に扱い、パラレルに鳴らすような新しい感覚を持った演奏家が増えてきたのは個人的には注目していた。ビートも作るが、決して「ビートメイカー」ではなく、活動はあくまで「ドラマー」がメインだが、自身の作品ではそのビートを自分の生演奏のドラムと組み合わせることを前提としていて、そのどちらにも優位性を持たせず、完全にその二つを平等に共存させているようなスタイルだ。マカヤ・マクレイヴンカッサ・オーバーオールは正にその筆頭で、ハイエイタス・カイヨーテのペリン・モスもそんな場所にいる。彼らの音楽を聴いていると、打ち込みと生演奏の境界の概念がかなり変わりつつあるのを感じるほかない。そういった感覚はリジョイサーキーファーDJハリソン、もしくはジャマル・ディーン、日本でもKan Sanoあたりの生演奏もするビートメイカーにもみられるが、ドラマーたちがその概念を自らのドラムと共に書き換えていく様は、かなりスリリングだ。高橋アフィが書いてくれた原稿、もしくは僕が『5』に書いた「Drum is Orchestra」はそういった話とも繋がっている。そして、そのドラマーたちの進化が他の楽器にも波及して、またジャズミュージシャンが作る音楽の可能性が広がっていく気がするのもワクワクする部分。クリスチャン・スコットは正にその一人と考えていいだろう。

最後に、この本は監修者である僕がほぼ一人で書いている。構成を決めていく中で、足りない部分、つまり僕には書けないことに関してだけは原稿を6人のスペシャリストにお願いした。以前から思うところがいくつかあり、『MILES REIMAGINED』から『4』『5』を経て、徐々に自分が書く分量を増やしていたのを、今回はディスクレビューをも自分で全て書くことにした。

その理由のひとつが自分の文章がたくさん並ぶことで、それぞれの記事同士に自然に繋がりが出るのではないかと思った。例えば、全てのインタビューを僕がやっているので、全てが個々のアーティストに合わせた質問をしているが、その中には否が応でもそれ以前にやった別のアーティスとのインタビューやそれ以前に書いた論考の中で出てきた疑問や問題意識といった思考の欠片みたいなものが引き継がれることになる。それをうまく活かしたかった。インタビュー記事に批評性が宿って、論考のようにも読めるものにしたいという思いもずっとあったので、それを全記事で実践したら、本全体の中で何かしらの大きな論のようなものが醸し出されたりするのではないかと思ったのもある。ディスク・レビューにしても200字ほどのレビューの集積がひとつの塊のようになって、見方によってはところどころに1,000字くらいのコラムが浮かび上がってくるようになったらいいかなと思ったりした。だから、時間も無かったが、敢えて自分で全て書いた。ディスク・レビューだけで2万字以上あるわけで、そこがただのディスク・ガイドにならずに、いくつかの文脈が浮かび上がってくる論考のようにもなったらいいなとも思った。

そんなことを考えていた時に、ペリン・モスやクリスチャン・スコットのインタビューでの彼らの発言があった。彼らは自分一人で様々な楽器を演奏し、自分と向かい合いながら、じっくりとアルバムを作った話をしている。そういった話を聞いていて、それまでにも考えていた自分一人で作ることへの関心が増していったことも自分で書く分量を増やした理由だったりもする。そんなことをしていたら、この本の製作が佳境になったころにジェフ・パーカーも『Suite For Max Brown』で自分ひとりで多くの楽器を演奏した作品を発表した。おこがましいからもしれないが、この『6』はそういう人たちの作品と同じようなテンションがあるのかもしれない。ということは、ここに執筆してくれた6人はジョージア・アン・マルドロウジャマイア・ウィリアムスのような他の誰でも替えが効かない、その人にしかないサウンドを鳴らせる人で、それもまた同じなのかもしれない。ちなみに、細田くんのアンソニー・ブラクストンに関する論考や、唐木さんのチャーチとゴスペルに関する論考はかなり唐突に入っているように見えるかもしれない。ただ、僕の中ではこれまでの5冊にも、この本の中でもどこかの文脈に接続できるものとして載せている。そういう読み方もしてもらえたらうれしい。

インタビューでペリン・モスはクレヴァ―・オースティン名義で発表した『Pareidolia』について、自分の専門の楽器ではなくても、自分で演奏するとそれがたとえ多少拙くても自分にしか出せないナラティブが宿るし、そのナラティブが必要だったと言うようなことを話してくれた。この本の中にもひとつひとつの記事に僕のナラティブが宿っていればいいと思う。この本の執筆を終えてすぐ、来日していたジェフ・パーカーに取材をした。それはきっと次の『7』のためのものになると思うが、その時にジェフはこの作品はパーソナルなものだと語っていた。ちょうど、その日、アカデミー賞が発表され、ポン・ジュノ監督が『パラサイト』で作品賞を受賞した。その授賞式のスピーチでマーティン・スコセッシの「もっともパーソナルなものは、もっともクリエイティブだ」って言葉を引用していた。僕は取材現場に向かう電車の中でたまたまそれを見たこと、そして、それはあなたの新作についても同じことが言える気がしますねとジェフに伝えたら、ジェフは照れたように笑いながら「そうだとうれしいね」と言っていた。

そんなことを経て以来、僕はサンダーキャット『IT IS WHAT IT IS』やブリタニー・ハワード『Jaime』にあるパーソナルな雰囲気は実はけっこう重要なことなのかもしれないと思い始めている。それはジャズメイア・ホーンが言っていた自分を愛することみたいな話とも関係あるのかもしれないし、もしかしたら、チャンス・ザ・ラッパー『The Big Day』やジェイムス・ブレイク『Assume Form』をそう言う視点で聴き直してみるといいのかもしれないとも思う。ペリン・モスは自分ひとりでじっくりとアルバムを作っていたことがセラピーのようなものだったと話してくれたし、ジェフ・パーカーは前作『New Breed』を父親に、『Suite For Max Brown』を母親に捧げ、そこでは自分の娘をヴォーカリストとして起用したりもしている。自分自身や最も身近な社会としての家族や恋人へ捧げた、自分や身近な人への愛を語り、ささやかに自分を認めたり、肯定するような作品たちには、ただのラヴソング以上の意味があるのかもしれない。そう思うと、カッサ・オーバーオールが自身の心をさらけ出したような『I THINK I’M GOOD』や、ラブソングを並べたホセ・ジェイムズの『No Beginning No End 2』にもそんな自分や自分の身近なところに向き合ったパーソナルゆえの魅力を感じる。メンタルヘルス的な問題を抱えていたことのあるカッサ・オーバーオールや、親友マック・ミラーを失った(り、あと失恋とかもあったっぽいのは歌詞にもあり、それと関係あるかはわからないけど、酒も止め、ベジタリアンになったっぽい)サンダーキャットに関しては、まさに作品を作ること、もしくは音を出すことによるセラピー的なものを感じてしまう。自分の不安さや憂鬱さのような感情、もしくは自分の弱さみたいなものを音楽にしているのも吐露的な意味があるかもしれないし、その音楽を作る過程で信じられるミュージシャンとのディープな共同作業を挟んでいるのもまた癒しのひとつになったのかなとか。そういえば、シャソールが『When I Get Home』のレコーディング中にソランジュにインタビューを行った話をしていたが、そういうことも今、アーティストたちが考えていることを知るためのヒントになるかもしれない(ビヨンセとジェイZのカーターズはどうだろう)。ジャズミュージシャン達が自分のやり方で、自分だけの物語を歌おうとしているという意味では、シンガー・ソング・ライター的になっているのかもしれないとも思ったりもしている。

なんか、とりとめが無くなってしまったが、僕はこんなことが頭の中にぐるぐると回っている状態で、この本を作った。相談相手無しでひとりで作っていると、自分の中でどんどん考えが深まり、広がり、頭の中にある情報がどんどん繋がっていって、どんどんよくわからない方向に進んでいって、その結果、こういうものができた。おそらく『Jazz The New Chapter 6』はこれまででもっともパーソナルな本になった気がするが、わずかでもこれまでの5冊よりもクリエイティブになっていたらいいなと思う。

多くの人が手に取ってくれて、次の本を出す許可が出版社から下りる程度に売れたら、2021年に『Jazz The New Chapter 7』でまたお会いしましょう。

柳樂光隆(Jazz The New Chapter)

※Jazz The New Chapter 6の広告について

今回は2本。ユニバーサル・ミュージックとコアポートです。

ユニバーサル・ミュージックは僕が選曲を担当した『Jazz The New Chapter Ternary』というコンピレーションの広告です。これは書名を使ってビジネスをする場合はライセンス的に広告を出してもらうルールにしているからです。

コアポートは本書に掲載したアーティストで言えばベッカ・スティーヴンスやデイナ・スティーブンス、カミラ・メサをリリースしているインディー・レーベルです。僕はこれらの記事をコアポートから依頼されて載せているのではなく、先にこっちから取材をしたいと言って取材して載せているので、お金をもらって載せている記事ではありません。なので、広告というよりは、我々の活動と出版に対するサポートとして広告を出していただけたのだと解釈しています。コアポートからは以前にも広告を出していただいています。

基本的に特定の企業やレーベル、アーティストではなく、ジャズを中心としたシーンを幅広く伝えたいと思っている本なので、出来るだけいろんな事情に左右されずに自分たちがいいと思ったものを作りたい意図から、可能な限り本の実売で回したい気持ちはあります。とはいえ、こういったマイナーでオルタナティブな内容の本ですから、バカ売れすることも難しいでしょうし、もともと予算も少なく、その中で原稿料や通訳費、その他諸経費などをなんとか捻出している状態です。なので、こういった広告費は非常に助かります。今後、広告という形でサポートしたいという奇特な企業の方がいらっしゃいましたら、ぜひ、よろしくお願いします。

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Jazz The New Chapter 6:Afterword/あとがき

柳樂光隆

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79年、島根・出雲生まれ。音楽評論家。『MILES:Reimagined』、21世紀以降のジャズをまとめた世界初のジャズ本「Jazz The New Chapter」シリーズ監修者。共著に後藤雅洋、村井康司との鼎談集『100年のジャズを聴く』など
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