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Film Review:『マイルス・デイヴィス クールの誕生』という特異な構成のドキュメンタリーについて(※ネタバレあり)

マイルス・デイヴィスのドキュメンタリー映画『マイルス・デイヴィス クールの誕生』はかなり特異な映画であり、マイルス・デイヴィスの映画としては異色の作品でもある。

■音楽キャリアにおけるトピックを省略しまくっている特異な構成

まずこの映画はマイルス・デイヴィスのファン、もしくはそれなりにジャズに精通しているリスナーが戸惑う部分がいくつもある。

例えば、このタイトルにある名盤『Birth of The Cool』に関しては、ギル・エヴァンスの作編曲だけでなく、『Birth of The Cool』にインスパイされて始まるクールジャズのムーブメントの主役でもあるジェリー・マリガンリー・コニッツの参加も重要だと散々語られてきた。でも、ここではそういったジャズ本での定番の解説は一切ない。

その後、マイルス・デイヴィスの名盤『Kind of Blue』の話では、ここでは“モードジャズ”みたいな話が一切出てこないだけでなく、ビル・エヴァンスが参加していた話さえ出てこない。少し大げさに言えば『Kind of Blue』はその前に出てくる『死刑台のエレベーター』の延長にあるものという意味合いで出てくる。

第2クインテットの話でもウェイン・ショーターハービー・ハンコックロン・カーターは本人出演だが、トニー・ウィリアムスに関してはほぼ言及がない。と言った感じで、その後のエレクトリック期に関しても、キース・ジャレットチック・コリアジャック・ディジョネットジョン・マクラフリンジョー・ザヴィヌルも一切言及がない。さらに言えば、『In a Silent Way』は出てこないし、テオ・マセロに関しても言及はない。

個人的に特に面白いと思ったのは、最後のあたり。マイルスと言えば音楽的に上手くいかなかったとはいえ、ラストアルバムとしてヒップホップをやった『Doo-Bop』があり、新しい音楽に挑戦し続ける音楽家=マイルスの姿勢を表す作品として度々語られる。でも、ここでは一切出てこない。

つまり、この『マイルス・デイヴィス クールの誕生』は多くのジャズマニアやマイルス・ファンが知っている“重要なはずの情報”とそれに関する説明がかなり抜けていて、こうやって例をあげていくとこれで成立するのかってくらいに驚くほど抜けていることがわかる。ただ、テンポよく、流れるように物語は進んでいき、映画としては違和感が全くない。おそらくこの“特異性”に気付かない人も少なくないと思えるほどに自然で、敢えて省略していると考えたほうが正しいだろう。その点でもこの映画では極めて野心的な作品とも言えるかもしれない。

なぜそんな物語になったのか、ということだが、それはこの映画が“音楽映画”ではないから、と僕は考えている。この映画のテーマは“人間としてのマイルス・デイヴィス”を描くこと。音楽家マイルス・デイヴィスではなく、人間マイルス・デイヴィスの中の大部分として音楽も含まれると考えたほうがいいだろう。

■マイルス・デイヴィスの人生と女性たち

そして、そのためのいくつかのサブテーマがあり、ひとつは“人種差別”、もうひとつが”ドラッグとアルコール”、そして“女性との関係”だ。その3つが絡み合いながら話が進行し、それらにフォーカスすることで、マイルス・デイヴィスの人間性が浮かび上がる。中でもマイルスと関係があった女性たちのエピソードが多めなのがこの映画の特徴にもなっている。

例えばマイルスの幼少期の話の時点で、彼が住んでいた地域における黒人の立場や、マイルスの家柄が語られるだけでなく、彼の両親の関係性やそれを見ていた彼が感じていたことなどが詳細に語られて行く。人種差別や、マイルスと両親の関係や両親の夫婦としての関係性までもが語られていることで、この映画が音楽映画ではないことが示される。

ちなみにこの映画で語られる女性をあげると、クレオタ・ヘンリー・デイビス(母親)、アイリーン・コーソン(地元での交際相手)、ジュリエット・グレコ(歌手)、ジャンヌ・モロー(女優)、フランシス・テイラー(ダンサー)、ベティ・デイヴィス(歌手)、マルグリット・カントゥ(交際相手)、シシリー・タイソン(女優)、ジョー・ゲルバード(画家)と言った顔ぶれ。

中でも重要なのは元妻のフランシス・テイラーで、彼女がいかに優れたダンサーで、いかに素晴らしい感性を持っていた人だったかが描かれている。『Sketches of Spain』でのスペイン・モチーフ導入のきっかけを与えたのが彼女だって話があったり、そもそも彼女自身がダンサーとして超一流のトップ・ダンサーであり、ブロードウェイのミュージカル『West Side Story』のキャストだったエピソードがあったり、フランシス・テイラーがマイルスにとってどれだけ大きな存在だったのかがわかるだけでなく、そもそもとんでもない才能を持った人で、黒人ダンサーのパイオニアみたいな存在だったことがわかる。

ただ、マイルスがフランシスへの暴力をふるい、彼女の夢でもあった『West Side Story』のキャストをマイルスが嫉妬により降板させていたことも語られる。ここではウェイン・ショーターがマイルスの身勝手により夢を諦めさせられたフランシスの気持ちを推し量るシーンがある。その罪だけでなく、音楽や人種差別に関しては先進的だったマイルスがフランシスのダンサーとしてのキャリアを自身の身勝手な都合だけでなく、その理由に家父長制を持ってきたその思考の古さをフランシスの証言と共に描いているシーンは、この映画の最も重要な部分であると言えるだろう。(さらに言えば、妻への思いを度々語り、女性ミュージシャンとの共演を積極的に行ってきたウェイン・ショーターがフランシスについて語ることの意図も感じる。)

■映画『MILES AHEAD/マイルス・デイヴィス 空白の5年間』との関係

このマイルスの負の側面の扱いが軽いという批判がこの映画にはある。僕もここに関してはあっさりしすぎているのと、薬物やアルコールへの言及を含め、マイルスへの愛情を強調したフランシスの発言がマイルスの罪を軽くしているようにも聞こえる。ただ、この映画はマイルスの権利を管理をしているマイルスの甥ヴィンス・ウィルバーンがかなり関わっていて、ヴィンスとつながりの深いフランシスがそれに協力しているという構図もその関係がある気がしている。実はこの構図は2015年に公開されたマイルスの伝記を元に過激に創作を施した『MILES AHEAD/マイルス・デイヴィス 空白の5年間』と同じだ。この『MILES AHEAD』でもマイルスの最愛の妻で、マイルスは70年代になってもその別れを悔やんでいる、という状況でフランシスの存在が描かれ、フランシスとの思い出を回想するような美しいシーンが挿入されている。つまり、かなりフランシス寄りな内容になっている。

実は『MILES AHEAD』には当初、別の構想もあったらしい。それはヴィンス・ウィルバーンを含めたマイルスの家族からの提案で、マイルスが愛した5人の女性に焦点を当て、それをフレームワークとして使用するマイルスの伝記的映画という内容だったと監督で主演のドン・チードルが以下の米ローリングストーン誌のインタビューで語っている。しかし、ドン・チードルはその提案を断り、70年代のマイルスの隠遁期とフランシスとの思い出を核に据えたフィクション要素の強いギャング映画として作り上げた。

つまり、『Birth of The Cool』は『MILES AHEAD』時に実現されなかったマイルス・ファミリー&関係者の希望が叶えられたものという見方もできるのかもしれない。ここではフランシスだけでなく、元交際相手でマイルスとの間に息子エリン・デイヴィスがいるマルグリット・カントゥもマイルスから受けた暴力について語っているが、強く断罪するようなトーンになっていない。もしかしたら、この映画が元妻や子供たちも含めたマイルス・ファミリーの意向がそのトーンに関係しているのかもしれない、と僕は想像している。そういった意向ゆえに貴重な映像や写真の使用許可が下りたのかもしれない、とも。とはいえ、ベティ・デイヴィスもマイルスからの暴力を原因に離婚しているわけで、このマイルスの女性への暴力癖の扱い方に関しては当事者の意向とはまた別のところで今後も議論され続けることになるだろう。

ちなみにマイルスのエレクトリック化に貢献した立役者で『Files De Kilimanjaro』のジャケに写っている女性でもあるベティ・デイヴィスと、『Socerer』のジャケに写っている女性であり80年代の復帰までのマイルスの面倒を見ていた女優のシシリー・タイソンが妙にあっさりと扱われて終わりなのも、マイルス・ファミリー内でのパワーバランスも関係があるのかもしれないとも思ってしまった。ベティ・デイヴィスに関してはドキュメンタリー映画の『BETTY THEY SAY I'M DIFFERENT』が2017年に制作されたり、最近でもジャミラ・ウッズがベティからのインスピレーションを形にした「Betty」をアルバム『LEGACY! LEGACY!』に収録していたり、再び脚光を浴びている。

余談だが、もし、『MILES AHEAD』が5人の女性との関係を軸に作られていたとしたら、マイルスのファンが想像するのはジュリエット・グレコ(歌手)、フランシス・テイラー(ダンサー)、ベティ・デイヴィス(歌手)、シシリー・タイソン(女優)、ジョー・ゲルバード(画家)と言った顔ぶれだろうけど、そうじゃなかったかもしれないなと思ったり。実際にマイルス・ファミリーが提示したその5人は誰だったんでしょうね。

■Netflix時代のドキュメンタリー

そんな女性との関係と数々の人種差別やドラッグ&アルコール、そして、そこに音楽史が重なっていくようなイメージで、それが115分と2時間を切る短時間でまとめられている。

これはなかなか驚異的な構成だ。マイルスと言えば、何度も音楽性を変え、その時代に先駆けた変化をジャズシーンが追いかけることでジャズ史ができあがったような音楽家で、重要作がかなり多いだけでなく、しかもその作品ごとにジャズ史を代表する偉大なミュージシャンが数多く起用されていることにも意味がある。マイルスが起用したミュージシャンたちはマイルスに起用された後にシーンを代表するような存在として成長していくケースも少なくないためにそのマイルス門下生のマイルスとの共演以後を含めて説明することでマイルスの実像が浮かび上がるような解説が定番になっている状況もある。ただ、冒頭でも書いたようにここではそれをかなり大胆に端折っている。それは女性たちとの関係や人種問題、時代背景を組み込んだうえで、物語に整合性が取れる最低限の音楽説明に止めているから、なのではないかと僕は思っている。

正直、音楽的な説明ほど、時間を割かなければならない要素もない。ジャンルの話だけでなく、有名ミュージシャンの簡単な説明だけでもマイルスにもなればきりがない。その上、いちいちそれを加えていくと説明的過ぎる構成になってしまい、スムースな進行を妨げる。しかし、この映画はそういった説明的な箇所を限りなく少なくしつつ、その省略を違和感なく見せてつつ、人生と音楽を巧みに織り交ぜ、キャッチ―な見どころだけを繋ぎ、音楽ドキュメンタリーとしても、人物ドキュメンタリーとしても、観客を飽きさせずにしまうという意味で、なかなかに驚異的な構成と編集だと思う。

つまりちょっと退屈だと思われたらすぐにキャンセルされてしまうNetflix時代の観客に配慮したドキュメンタリーという意味もあるのかもしれないのだ。トピックがどんどん立ち上がっていく速い展開やマニアが喜びそうなライブ映像がかなり少ないこともそんな意図を考えれば納得できる。クイーンやエルトン・ジョンの伝記的映画あたりにも感じる感触に似ている。

ちなみにこの映画では2019年に公開されたジャズの名門レーベルのブルーノートのドキュメンタリーの『ブルーノート・レコード ジャズを超えて』がレーベルの歴史のかなりの部分をアメリカでの黒人への人種差別と絡めて展開していたのと同じように、マイルスやジャズと黒人への人種差別問題との関係にフォーカスしている部分も多い。それはBlack Lives Matter以降のジャズ映画として至極まっとうだ。それに加え、ここでは解説役として音楽評論家や歴史研究家が何人も出てくるが、アメリカのジャズ関係や歴史ものだとどうしても白人男性の研究者が中心になってしまいがちだが、黒人の女性の研究者も何人も出てきて、人種や性別の偏りにも配慮されている。またかなり音楽的な説明を省いているにもかかわらずマイルスの音楽の中にあるファンクやロックだけでなく、クラシックフラメンコインド音楽などについての言及は使われていて、マイルスの音楽が持つ人種や地域に捉われない多様性には触れていたのも印象的だった。様々な意味で今の時代に合わせた作りになっているとは言えるだろう。

ちなみに2001年に発表されたマイルス・デイヴィスのドキュメンタリー『Miles Davis Story』はマイルスの生涯をオーソドックスに追っていく構成で、音楽面に関しても説明多め。両方を比べると、この『Birth of  The Cool』がいかに特殊かがよくわかると思う。

■神格化された存在ではなく、ひとりの人間として

映画の最後、80年代以降の奇跡的な復帰を果たした晩年、マイルスはこれまでとは別人のような人柄になっている。TVに出て、雑誌の取材を受け、積極的に対話をしている。人当たりが柔らかくなったわけではないが、これまでの口を利くのさえ難しい状況とは明らかに異なる姿がある。

ここでも無理に音楽性にフォーカスせずに人間関係を軸に構成し、人に心を開くようになったマイルスの人間としての変化を強調し、それに伴い70年代以前のような野心的な音楽家としての姿からは遠ざかったような物足りなさを並べているのが印象に残った。ここでの復帰後のマイルスは”過去の偉人”のようでもあり、どこか”セレブ扱いの有名人”を映しているようでもある。生涯の中でも負の部分も積極的に取り上げていることだけでなく、その音楽的な評価が高くない80年代以降の作品群を70年代以前の作品群とは全く違う熱量で扱っていることも含めて、この映画でのマイルスへの視線は神格化された存在へのそれではなく、かなり客観性を含んでいる。

マイルスが亡くなってそろそろ30年が経つ。マイルスが生きている時代を体験していないジャズ・ミュージシャンがどんどんシーンに出ている。1979年生まれの僕にとってもジャズを聴き始めた頃にはマイルスはすでに亡くなっていたので、歴史上の人物でしかなかった。この映画で、マイルスがヒップホップに取り組んだ遺作『Doo Bop』に触れなかったのもそんな客観的な、どこか冷めたまなざしが理由にあるようにも感じられる。ヒップホップに取り組もうとしたがコラボ相手の選定にも失敗して、音楽的には成果を見出しにくいた遺作を無理に扱うよりも、マイルスが亡くなる直前にモントルー・ジャズ・フェスティヴァルに出演し、クインシー・ジョーンズ指揮の下、ギル・エヴァンスのトリビュートに参加した『Live at Montreux 1991』を扱っているのにもそんな意図を感じてしまう。マイルスの再晩年を“最後まで新しい音楽に挑もうとした意欲的な姿”ではなく、“絶対に自身の過去の作風を再演しなかったマイルスが40年も前の自身の曲を演奏したとてもマイルスとは思えない姿”として、モントルーでの映像を映しているのもそういった冷徹な視点を感じてしまう。そう思って見てみると、この映画では終始、マイルスの弱さや未熟さ、至らなさが映り続けていることがわかる。

神話の中の存在ではなく、等身大のひとりの人間としてマイルスを描いた本作からは、モダンジャズが完全に相対化され、客観視されている現在における“ジャズ観”みたいなものが見えてくる気がしている。近年の音楽ドキュメンタリーはそこに写っている事実だけでなく、構成や編集から浮かび上がる現代性/時代性を読み取るとより楽しめるのではないだろうか。

※2016年にマイルス・デイヴィスに関する本を出しています。めちゃくちゃ面白い本なので良かったらどうぞ。

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