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うつの素質。3

幼稚園が嫌で嫌でしょうがなかった俺は、体が元々虚弱体質だったこともあり、段々と休みがちになっていった。
やはり本だけが友達で、何も変わらず、本の数だけ世界があって言葉があってそれを書いた人たちがいて。その無数に広がっていく頭の中の知恵や知識の草原がどうしようもなく愛おしかった。

ある日、幼稚園に行った日、帰りのバスを待っていた。
土砂降りの雨が降っていて交通網が麻痺しており、バスが定刻では来なかったので、俺を含めて何人かは遊戯室でバスや親の車の送迎を待っていた。
俺以外の皆は自然と3〜4人のグループになって固まり、共に遊んでいた。
その何人かは俺と同じ組の人もいた気がするが、定かではない。休みがちな俺は生身の友達などいなかったし、名前すら覚えていなかった。
よくすれ違っただけの顔見知りだけかもしれない。
どんな風に遊んでいるのか、どんな話をしているのか、ただ気になった。人に対して興味がなかった俺は、純粋に遊びの種類と話題についてのみ興味があった。
しかし話しかけ方がそもそも分からない。
入園式が終わった後に誰かに挨拶もなくいきなり話しかけられたりした覚えはあったが、自分には真似の出来ない芸当だなと関心した記憶しかない。
…まぁいいや。
部屋の隅で絵本を一人で読む。本さえあれば別に何もいらない。

コツン。

何かが頭に当たった。
周りを見渡すと丸めた折り紙が落ちていた。
拾って、じっと見つめて考える。何だろう。折り紙は何かを模す為に使う物。ならばこれは何を模しているのか。岩か?

コツン。

また頭に当たった。
同じく折り紙を丸めた物。
クスクスとした堪え気味の笑い声が近くから聞こえてくる。
その方角を見ると、3人の女子がこちらを見て笑っていた。
意味がわからなかった。
丸めた折り紙を俺に当てて、何を笑える事があるのか。何の意味があるのか。

どういういみ?

と3人の女子に聞いた。

え、いみ?
ケタケタと笑いながらおうむ返しをしてくる。

これをなげたいみ、わからないんだけど。

笑い声が大きくなる。

あいさつだよ、あいさつ!
えるくんやすんでばっかだからわかんないか!
はやってるんだよ!

挨拶?
これが挨拶なのか。
物を投げて、相手に当てて、気付いてもらう。
なるほど、言葉を発して相手に気付いてもらうことと似ている。
これが流行りって面白い文化だ。
閉鎖的な文化圏だからこそ何が流行るのかわからない。知識不足だったなぁ。
ならば、挨拶には挨拶を返さなければならない。
丁度近くにあって、手頃でよく飛びそうな小さな四角い積み木を手に取って、女子たちに投げつけた。

いたい!

2個投げられたからもう一つか。
今度は三角の積み木を持って投げる。

いたいって!!
やめてよ!!!!
なにすんの!?
いみわかんないんだけど!!
しねよ!
ようちえんくるなよ!

女子たちが何やら大声で叫びだした。
意味が分からないのは俺の方だ。

いや、あいさつなんでしょ? だからあいさつをかえしただけだよ。

はあ!?
ばかじゃないの!?
せんせいにいいつけるから!

その大声に他のグループも反応を示し、集まってくる。
女子たちは泣き、よくわからない説明のような弁明か何かを集まってきた連中に高らかに話している。

ぼく、せんせいよんでくる!
こういうやつのこと、くそやろうっていうんだぜ!
さいていだよな!
おまえなんかいないほうがいいんだよ!
なんでようちえんきてんの?
やすんだままやめちまえよくそやろう!

俺に対して言っているのだろうか。
さっきは死ねと聞こえた気がしたが、クソ野郎だとか、俺はこの場にいない方がいいだとか必死に、顔見知りの者も含めて見知らぬ男子や女子たちが叫んでいた。
挨拶を返しただけなのだけど、何が間違っていたのだろう。
怒り、恐怖、怯えている様子が声色と表情から読み取れる。
…ああ、そうか、投げられた物をそのまま投げ返さなかったから皆怒っているのか。悪いことをしてしまった。
俺はすぐ近くに落ちていた丸まった折り紙を大所帯になったグループに向かって投げた。
見知らぬ男子に当たった。

なにすんだよくそやろう!!!

その男子が詰め寄ってきて、俺の髪の毛を引っ張る。

ふざけてんのか!
ころすぞ!! おい! ころしちまうぞ!!

いや、だから、挨拶を返しただけなのに。
他のグループからもあらゆる罵詈雑言が飛んでくる。
俺は髪の毛を引っ張られながら、頬を殴られた。
母親のビンタや父親の拳よりは痛くない。大丈夫だ。
が、何故殴られたのかわからない。
俺はコミュニケーションを取ろうとしただけ。
話そうとしただけ。
なのに何故ここまで激昂しているのか。
何故周りも囃し立てているのか。

ころせ! ころせころせー!!

なんて言葉も聞こえてくる。
殺すというのは命を絶つということ。
チャトランのようにするということ。
きっと痛いだろう、多分怖いだろう。
なんて世界は理不尽で、醜いんだろう。

先生が騒ぎを聞きつけたのか、呼ばれたのかで、やっと部屋に入ってきた。
俺と見知らぬ男子の間に割って入り、喧嘩でもないただの暴力を止めてくれた。
一体何があったの?
俺に聞いてくれた。
俺は正直に事の顛末を話した。


折り紙が投げられてきた

これは挨拶だということだったので、自分も同じように物を投げ返した

相手は怒った

疑問に思ったので質問した

更に怒られ、暴力を振るわれ、今に至る

と。

先生は泣いている女子のグループにも話を聞きに行き、暫くしてからこちらに戻ってきて、俺の頬をビンタした。

謝りなさい。

女の子に怖い思いさせて、怪我でもしたらどうするつもりだったの。
積み木を投げるなんて何考えてるの。
当たったら痛いに決まってるでしょ?
などと怒涛のように捲し立ててくる。

先生は近くにあった四角い積み木を拾って、俺の頭に振り下ろしてきた。痛い。

やられたらやり返すなんてことしないで。
相手がどう思ってるか、何を考えてるか、しっかり考えてから行動しなさい、わかりましたか?

俺は頷き、はいと答えた。
するとその時、こめかみから生温い汗が流れ出てきた。手で拭うと赤かった。血だ。

先生はそれを見るやいなや、目を白黒させて焦り始めて、エプロンの中からハンカチを取り出して俺のこめかみの上辺り、側頭部に当てた。
さっき積み木を振り下ろした所だった。
恐らく皮膚が削れたのだろう。
先生は沢山謝りながら、俺に一つ約束させた。

これはえる君が自分で積み木にぶつけて怪我しただけだからね?
お父さんお母さんにもちゃんとそう言うのよ?
える君が悪い事しなければこういう事になってないんだから、しょうがない怪我なの、わかるよね?
先生が積み木を持って、とかそういう余計な話は絶対に誰にも話しちゃダメだよ、約束ね?


よく喋るなぁ、としか思っていなかった。
そしてすぐに合点がいった。
挨拶をしたから、皆喋り出したんじゃないかと。
罵倒されたり暴力は振るわれたものの、きっとあの行為は挨拶に違いなかったのだと思った。

せんせい、あいさつをありがとうございます。

俺は精一杯の笑顔で先生に伝えた。
笑顔を返してくれると思った。
しかし違った。
筆舌に尽くし難い、とても訝しげな表情をして、俺に当てていたハンカチを取り上げて立ち上がったのだ。

気持ち悪っ。

苦虫を潰したような怪訝な表情でこちらを見下ろし、こう吐き捨て、その場から去っていった。
疑問ばかりが浮かんでいた。
だが、はっきりとこれだけは脳裏に焼き付いていた。

ああ、これが人間なんだ。

バスが来た。さぁ、帰ろう。

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