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残念なホテル、至福のホテル3(2)

<至福のホテル>

 至福のホテルというと真っ先に思い出すのは、Shokoが選んだのと同じ、サントリーニ島、イアの海を一望できるホテルだ。トイレは身動きできないほど小さかったし、室内はベッド一つ分のスペースがすべて、という狭さだったが、とにかく目の前に広がる青い海を臨むバルコニーが最高だった。毎晩ワインやつまみを買ってきてはバルコニーで遅くまで飲んだ、まさに「至福」のホテル。

▼Shokoの記事

 でもそれではShokoと話がダブってしまうので、今回は別なホテルの話を。貧乏旅行をしがちなので、「至福のホテル」よりは「残念なホテル」のほうが思い出しやすいけれど、非日常的でタイムトリップのような体験として思い出す宿には、イギリスで泊まったマナーハウスと、ドイツの古城ホテルがある。

英国、マナーハウスでタイムトリップ

 夫と母と一緒にリバプール方面へドライブ旅行をした時のこと。リバプールまで一日で運転するのは長すぎるし、道中で一泊だけマナーハウスに泊まってみようということになった。マナーハウスホテルとは、かつて荘園領主が建てた邸宅をホテルとして開放しているものだ。イギリスのドラマ「ダウントンアビー」に出てくるような上流貴族のお屋敷から比べると格が下がるけれど、田舎の下級貴族の邸宅という設定は、まさにジェーン オースティンの世界のようだ。

 ずいぶん前のことなので場所がどこだったのか定かではないが、周りに何もない、英語で言うところのmiddle of nowhere(名もない場所の真ん中、つまり辺鄙なところという意味)だったのは確かだ。なだらかな丘が見渡せる広大な敷地の中の一本道を運転していくと、突然姿を現すそのマナーハウスは、14世紀に建てられてから何度も違うオーナーの手に引き継がれ、増築や改築を繰り返しながら現在のマナーハウスホテルという形態に落ち着いたそうだ。過去にはTSエリオットに代表される詩人や作家が長期滞在して物書きに勤しんだそうで、部屋の一つ一つには作家の名前がつけられている。建物の中は豪華絢爛、というわけではないが、イギリスの伝統的な家具はどれもどっしりと落ち着いていて、趣味がいい。

ホテル一階のラウンジ

 母の部屋は一階のテラス付きで、増築部分なのか室内はモダンだったが、一歩外に出ると、少し霧のかかった緑の丘陵がどこまでも続いているのが見える。私たちの部屋は本棟にあり、迷路のような細い廊下を何度も曲がり、階段を上り、時に梁に頭をぶつけそうになりながら、わくわくしてたどり着いた先はなんと屋根裏部屋だった。チューダー様式の黒い木組みのある部屋の天井は三角形で、形からも建物の一番上にいるのが分かる。もしかしたら、昔は召使いの部屋だったのかもしれない。格子の入った小さな窓からは遠くの丘が見え、なんともロマンチックな部屋だ。

テラスつきの部屋と屋根裏部屋
目の前にはイギリスらしい緑の丘が広がる

 ホテルのレストランで夕食を予約したので、それまでの時間は、建物の中を探検したり、庭を散策したりして過ごした。あいにくの天気だったけれど、あちこちで少しずつバラが咲き始めている英国庭園を歩くと、同じ場所を貴族たちが着飾って歩いたのはそんなに昔のことではないように感じた。夕食のフランス料理のコースも、僻地とは思えない洗練されたメニューで、出てくるお皿ひとつひとつが味だけでなく視覚的にも堪能できた。

 忙しいドライブ旅行の途中だったはずなのに、時間の流れを忘れるような、その場所にずっと滞在していたくなるような居心地の良さを感じる空間だった。まわりに何もない田舎の一軒家だからこそ、時間に追われることもなく、タイムトリップのような体験として思う存分に滞在を楽しめたのだろう。今思うと、当時私は在英10年ほどだったけれど、町中の狭い賃貸アパート暮らしばかりで、実体験として経験していたイギリス生活は決して優雅なものではなかった。ここで初めて、小説や映画で描かれるイメージ通りの「イギリス」に出会ったのかもしれない。


二人きりの古城ホテル

 もうひとつの思い出深い宿は、ドイツで泊まった古城ホテルだ。年末の休暇に夫婦でヨーロッパ列車旅行を計画し、せっかくヨーロッパを巡る旅をするのなら、一泊くらい古城ホテルに泊まってみるのも悪くないだろうと思った。昔バックパックでドイツを回ったことがあり、ライン川沿いに古城が多いことは知っていたので、事前にネットで調べて予約することができた。

 ヨーロッパ旅行の起点だったベルギーのブリュッセルを朝に出発し、何度か列車を乗り換えて、夕方にライン川沿いのKAUBという駅に到着した。電車を降りると、ホームには誰もいない。目の前は雪が積もり、電車の乗り換えをした大都会のケルンとは別世界だ。駅員もいなければタクシーも来ない。一瞬途方に暮れたけれど、古城らしき建物は小高い丘の上に見えているし、待っていたら日が暮れてしまいそうなので、意を決して歩くことにした。けれど大雪の中、スーツケースを引きずって急な坂を上っていくのは思ったより重労働で、目の前に見える城はなかなか近づかない。タクシーを待たなかったことをちょっと後悔したけれど、雪の積もった枯れ木の隙間から見えるライン川に夕日がキラキラと光って美しかった。30分以上は歩いただろうか。人っ子一人いないような村を通り抜けて、ようやく城にたどり着いた頃にはほぼ日が暮れていた。

 日本語で「お城」というと、どうしてもシンデレラ城のようなきらびやかな宮殿を想像しがちだが、お城にもいろいろある。この古城は石造りの素朴な作りで、どちらかというと要塞のような様相を呈していた。それでも木々と石の塀に囲まれ、ところどころオレンジ色のランプで照らされた小道を、石造りのアーチを何度かくぐりぬけながら進んでいくと、まるで絵本の中の世界に紛れ込んだような気分になる。

 凍えた体で城の中に入ると、城の中も変わらず寒かった。内壁も外と同じ石造りで、全体的に暗い。入るとすぐに受付があったが、すぐ隣は四角い中庭で、壁も天井もなく、半分外の様な空間だ。中庭には雪が降っているのが見える。これでは寒いはずだ。年末だったからか、大雪のせいか、とにかくそのお城は閑散としていた。ほかのお客を見た覚えがない。迎え入れてくれた女性スタッフは、訛りのある英語で「大雪の中、良く来れたわね」というようなことを言った。どうやらこんな大雪はドイツでも珍しいようだ。私たちの滞在中、一人しかいないように見えるこの女性スタッフが、広い城の中を走り回って世話をしてくれた。夕食は「王の間でキャンドルをともしたディナー」になると教えてくれた。

古城ホテルの内装

 実は泊まった部屋の内装はあまり覚えていないのだけれど、この「王の間」がすごかった。教会のような天井の高い薄暗い広い部屋に、「ハリーポッタ―」に出てくるような長いダイニングテーブルが並ぶ。その手前には立派な王座があり、きっとその昔ここで王様が家臣たちと食事をしたのだと容易に想像できる。これでは落ち着かないからか、私たちはその長いテーブルではなく、別に用意された窓際の二人掛けのテーブルに案内された。部屋には他に誰もいない。目の前にはクリスマスの飾り付けがされたろうそくの光が揺れている。もう年末だけれど、ヨーロッパではクリスマスのお祝いは当日だけではなく、新年に入っても続くのだ。いったいどれだけ離れたキッチンから運んでくるのか、女性スタッフは一人で行ったり来たりしながら息を切らせて食事を運んでくる。吐く息が白い。

王の間で地元産のワインをいただく

 ちょっと奮発して15年物のドイツワインを頼むと、ラベルも何ついていない茶色の瓶がクーラーに入って運ばれてきた。銀色のペンで手書きで何か書いてある。ライン川沿いはワインの産地で、このワインはまさにこの城の持つブドウ園のブドウで作られたものだった。地下のワイン蔵から持ってきたという。広い王の間に二人きり。ちょっと落ち着かないけれど、気分がいい。その荘厳なダイニングルームで一晩中飲んでいたかったけれど、一人きりのスタッフの女性に悪い気がして、ボトルを部屋に持ち帰った。当時イギリスで安いドイツワインばかり飲んでいた私たちには、この地元産の年代物ワインはたいそうおいしく感じられた。ドイツワインらしい甘口で、でも甘すぎずにすっきりとして飲みやすく、二人であっという間にボトルを空けてしまった。朝起きると、前日は暗くて見えなかった窓の外に、ブドウ園が広がっていた。

 マナーハウスも古城ホテルも、「至福」という言葉からはちょっと遠いかもしれないが、あまりにも非現実的な空間で、まるでファンタジーの世界の様だった。他ではできない体験をできるホテルだったことは間違いない。もう一度行こうと思ったら、もうどこにも見つからない、そんな気さえする。

古城から見えるライン川

(text & photos by Mihoko)©elia


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