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159 「書かない」のか「書けない」のか。「書かない」のである。しかし「書けない」のである。数学もそうなのかな。

ここに【「書かない」のか「書けない」のか。「書かない」のである。しかし「書けない」のである。】とある。数学の事後検討会は、できるかできないか、やっているかやっていないか「しか」議論の対象になっていないと感じる。もっとグラデーションの実態があるはずなのに。

僕が「大事なことは、子どもが必要感をもつことだと思う」という言葉は、どの子に向けて考えた言葉なのか?ちゃんとあらゆる子が入っているのか?その言葉によって透明にされた子はいなかったのか?ということに、嫌気がさしているのかもしれない。

数学は、体育と似ていて「運動神経がよい子」は楽しい場だ。体育よりもタチが悪いのは、苦手な子も楽しめるようにグループ編成を工夫したり、ルールを変更して楽しめる形にしたり、ゴール設定を少し低くすることが認められていたりする。でも、数学はそうじゃないことが多い。


飯久保さんのいうように、マッチョな主体性を僕らは求めすぎている。全部の教科で主体的にアクティブでいることを求めている。自分が得意で好きな教科だから、感動を共有したい気持ちがどうしても出てしまう。

数学の授業では、子どもたちは『「書かない」のか「書けない」のか。「書かない」のである。しかし「書けない」のである。』なのだろうか。そうだとすれば、僕らはもっとやれる手立てを考えることができるかもしれない。まだまだやれることはあるんだろうな。