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ダールのこと#0_「2020年のミソシール」

2020年に最も多く作った料理.

私の場合それは,間違いなくダール・ミソシールだろう.

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【ダール・ミソシールとは】
ダール(ひきわりの乾燥豆全般)と野菜を煮て,味噌とスパイスで味をつけたもの.出汁は用いない.日本の一般家庭で食べられている味噌汁とは似て非なるもの.カシミール,マイソール,などを彷彿とさせるインド的な響きを持つ名称はカレーのオープンチャットにて命名された.上記画像が一例で,写真映えの対極にある.

ダール,野菜,スパイスの組み合わせはなんでも良いけれど,イメージのため具体例を挙げるならば次のよう.

【作例】
・チャナダール,モヤシ,ヒバーチ
・ムングダール,白菜,アジョワン
・マスールダル,キャベツ,クミン
などなど.なんとも低コスト.

出汁は基本的には取らない.それでもほどよくまとまるのは,ダルの煮汁がそのままベースを作ってくれているからなんじゃないかと思う.

味噌もなんだっていいけれど,甘めの合わせ味噌がダルのもったりした口当たりにしっくりくると思う.一度,飛騨の道端で買った強烈な自家製豆味噌にアジョワンを合わせて作ったら,それはそれで美味しかった.

でもやっぱり,毎日食べたくなるのは合わせ味噌のミソシール.
とりわけ,マスール,キャベツ,クミンの組み合わせには幾たびも世話になった.

疲れ切って帰宅し,何が食べたいのかもわからないけれどとにかく自分の中が空っぽな感じのする時.シンクに放りっぱなしの小鍋をざっと流して水を張る.コンロの火にかけてマスールダルを2掴みほど投げ入れる.冷蔵庫で萎びかけているキャベツの外葉を剥き,ざくざくと刻む.ダルが吹きこぼれそうになったら(2回に1回は吹きこぼすが)キャベツを鍋に追加し勢いを鎮める.再び沸いたところに味噌を溶き入れてクミンを1つまみ加える.

ミソシール完成まで実に15分足らず.思考停止でも作れる,いわゆる限界飯である.

この短時間でもマスールならば十分に食べられる柔らかさになる.薄っぺらくて,個々の境界がよくわからないマスールダルの食感,キャベツの甘味,油を使わずに煮出す形になるクミンの,普段の華やかさとは違う少し薬っぽい香り.こうしたものを味噌がまとめている.その結果,鍋の中身は滋養の優しさ煮込みともいうべき味となる.

2020年,COVID-19によって世の中のいろんなことが変わった.いや,変わっているようだった.

私の住む地方では,皆警戒感こそ強めたものの長い間新規感染者ゼロが続いた.また,勤め先の業界的にも経営上の打撃はなく,業務内容の都合もあってテレワークとも無縁だった.影響という影響は,かなり小さい方だったと思う.とはいえ,密かに意欲を高めていた海外でのプロジェクトはことごとく消え,計画を練っていた私生活の予定は一切合切がキャンセルとなった.こうした小さな打撃の積み重ねや非常事態にある世間一般との隔絶感に,じわじわと疲弊を喰らっていった.もちろん,このご時世に忙しいと言えるほど仕事があるだけでもありがたいことだ.けれど,何食わぬ顔をして夜遅くまで働いた平日,帰宅途中に「一体なんのためにここで働いているんだ?」と自問することは圧倒的に多くなった.先が見えない世の中で,これから何十年もひとところで何をやっていくんだろう.

この問いは,きっと目を逸らしてはいけないものだ.わかっている.空虚さから生まれた問いで以って身を振り返り,これからに舵を定めないといけない.しかし当座,私には明日も明後日も同じ仕事が待っている.

そんな日々の中で,とにもかくにも明日へ向かう心身を養ってくれていたのが深夜のミソシールだった.何より温かく,汁物なので食べやすい.ダルのとろみとスパイスで満足感もある.洗い物も最小限で済む.油を使っていないので寝る頃には胃も軽くなっている.さらにいうと,(体質によるかもしれないけれど)マスール・ミソシールは翌日のお腹の調子が俄然良い.もう,現代人はみんなこれを作ればいいんじゃないか,という気になる.

なお,夜だけじゃなく朝の忙しい時にもミソシールは優秀だ.豆を煮ている間に(ふきこぼしのリスクは上がるが)洗顔やなんかを済ませていれば身支度の片手間に作ることができる.半量は昼食用にスープジャーに,残りは時間の許す限り朝飯に.スープジャーでじっくり加熱されると,野菜からも出汁が出てダルもねっとりしスパイスも個性を出す(これら全てをアクと捉える節もあるかもしれないが,文化の違いなので許容されたい).これさえあれば,束の間の昼休憩も安らぎの密度が上がる気がする.

しかし困るのが,同僚たちからの「何食べてるの?」という問いかけだ.明らかに和食でない香りのドブ色の汁をすすっている奴がいたら,聞きたくなるのも不思議はない.しかしなんと答えたものか.ミソシールの説明なんてややこしくてできやしない.では,スープ? 嘘ではないが,きっと「なんの?」と追加の質問が来てしまう.なら,味噌汁? いやスパイスを使っている手前そう言い切ってしまうのは気が引ける.しかも出汁も取ってないし和食家に顔向けもできない.迷った挙句,私はこう答える.「カレー(みたいなもの)です」

「カレーとは」論はいたる所で為されるとも,行き着くところの公約数は「スパイスを使った,他にカレーとは呼び用のない料理の集合体」が相場に思う.だとすれば,ダール・ミソシールもその枠には入っている.しかも,カレーの効用の1つ,救いの要素もある.うん,やはりミソシールはカレーだ.

ふと,この取り留めのない振り返りにぴったりな小説があったことを思い出したので最後に引用したい.村上春樹の短編集「カンガルー日和」に収録されている「スパゲティーの年に」より.(ちなみにこの作品,9ページ中6ページはスパゲティーを作っている)

スパゲティー・ポロネーズ
スパゲティー・バジリコ
スパゲティー・ペシ
スパゲティー・牛タン
スパゲティー・あさりトマト・ソース
スパゲティー・カルボナーラ
にんにく・スパゲティー
そして余り物を出鱈目に放り込まれた悲劇的な名もなきスパゲティーたち.
スパゲティーは蒸気の中に生まれ落ち,川の流れのように一九七一年と言う時の斜面を下り,そして消えていった.
僕は彼らを悼む.
一九七一年のスパゲティーたち.

私が作っていたのは「余り物を出鱈目に放り込まれた悲劇的な」ミソシールばかりだったけれど,日々の中にただ飲み込まれていった,しかしそれによって私の生活を形取っていたものと言う点で(そしてこの作品の漠とした寂しさもふくめて),スパゲティーをミソシールに読み替えられると思う.

2020年,それはミソシールの年だった.



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