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「変更可能」な電子的言語環境と日本文化その1ーセンター試験評論の過去問「スタイルと情報」より

記事の修正遍歴その1

以前の記事

この記事の最初の小見出しを
「さつき十日なるに、月かすみて光りたり
としていました。

更級日記の、
「神無月つごもりなるに、紅葉散らで盛りなり」
という文章のインスパイアのつもりだったのです。

「つごもりなるに」の「に」は逆接の接続助詞。
神無月が冬であることも確認できるので、
「に」の識別の定番として、
塾の授業ではよく出てくる文章なのです。

ところが、僕のタイトルの方には、
何か違和感がある…

何だろう?としばらく考えていたのですが、
違和感の正体は「月の」の格助詞「の」。

愛用する旺文社の「標準古語辞典」には
このような解説が載っています。

「主格を表す格助詞「の」「が」の場合は、
それを受ける述語は、ふつうそこで切れることなく下につづく
まれに切れるときは、終止形ではなく、連体形止めとなる」
旺文社「標準古語辞典」より

あー、あれだけ漢文の書き下しのときに
「部分の主語に『の』をつける」と
生徒にエラそうに言ってたのに…。

なんだか張り切って書いた文章にミスがあると
ちょっと恥ずかしいですね。

というわけで、記事の小見出しを修正しました。
「さつき十日なるに、月かすみて光りたる

枕草子の「紫だちたる雲のほそくたなびきたる」
みたいになって、
ちょっと違和感が落ち着きました。

記事の修正遍歴その2

他にも、夏目漱石「夢十夜」第一夜について書いた
この記事。

真珠貝って、忘れ貝じゃないか
最初はそれだけしか武器を持ってなかったので、
なんだか自分でもよくわからないことを
ダラダラと書いてたのですが、

真珠=月の雫」という
新しい武器を手に入れると、
あくまでも「自分の中では」なのですが、
結構腑に落ちる解釈ができたと思っています。

何しろ真珠貝の後、
月の描写は最後まで出てこないのですから、
忘れ貝の効果はバツグンですよね。

もちろん僕は研究者でも何でもないので、
ひょっとしたら同じことを言ってる先行研究が
あったのかもしれませんが、
そこまでは調査してないです。
まあ自分が考えたことには間違いないですし、
自己満足ということで。

で、これも最初に投稿したものから
大幅に書き換えました

他の記事もちょいちょい修正したり、
ひどい時には他の方の記事へのコメントも
修正したりしたことがあります。

いかに自分が何も考えずに
発言・発信しているかの証左
お恥ずかしい限りでございます。

「完結しない」電子的言語情報

このように「書く」ことに対して
覚悟の足りない僕は、
気軽に修正可能なnoteへの投稿が
気に入っています。

こんなことを書いていて思い出したのは、
2005年センター追試の評論
吉岡洋「スタイルと情報」の一節。
今では当たり前になった
タッチペン・スタイラスペンについての話です。

 「スタイラス」とは元来、蠟板に書き記すための鉄筆のことを意味していた。この鉄筆が板に塗られた蠟を掻き削ることによって、文字を書いたのである。この蠟板を古代ローマ人たちは手紙としても用い、その後もヨーロッパではかなり広範囲に使われた。「書く」ことと「掻く」こと。「書く」ことは長い間、まさに「引っ掻く」ことによって痕跡を残す行為だったのである。そして<文体>を意味する「スタイル」という語が、この鉄筆の名に由来することはよく知られている。スタイルとは、個人の身体が物質世界を引っ掻いた痕跡の中に記録される何かなのである。
 「書く=引っ掻く」という行為は、言語記号と書き手との間にひとつの関係を設定する。言語には、筆跡という形で書き手の身体性が書きこまれるのである。書き手の精神と身体は、物質世界のなかに転写され、固定される。そして情報の転写プロセスはそこでひとまず終るのである。書かれてしまったものは、取り返しがつかない。自分の残した筆跡に対して愛着、羞恥、憎悪などの強い感情が起こるのも、そうした変更不能性に由来する。書かれた文字とは、モノと化した自分自身なのである。それは、まるで自分の肉体の一部のように感じられるのだ。スタイルとは、こうした変更不能性と切り離すことができない。
 このように文字言語が変更不能な姿で現れることが、記号と意味作用についてのひとつの考え方を導く。つまり「書く」ことを通じて身体性が焼き付けられた「作品」は、あたかも自律的な意味作用をもつ存在であるようにみえるのだ。「書く」ことは創造者が被造物に息を吹き込む(=生命を与える)行為にたとえられることで、独特の儀式性を帯びてくる。作者の精神が受肉した「書物」という形式において、記号過程と解釈のプロセスは完結しているようにみえる。そこで読者はあたかも神殿の中の聖遺物に対するように、到達不能の意味に向き合わねばならないのである。
(略)
 電子的言語には、そもそも完結性が存在しない。記号は特定の物質的形態として終結するかわりに、潜在的な情報空間の中を浮遊し、さらなる変更や転写へとつねに開かれた状態にある。「スタイル」という概念がもしも、個人の精神/身体がある特別な行為を通じて残した変更不可能な痕跡を意味するとすれば、スタイラスをはじめとする電子的言語環境は、「スタイル」を支えている世界観を根本から掘り崩している。そしてそれにかわって、言語のもつ反対の側面、つまり終結しない記号過程、意味作用につねに介入する解釈者の存在、という側面が強調されることになるのである。電子的環境においては否応なく、言語の動的な側面に注意をはらうように促されるのだ。
吉岡洋「スタイルと情報」より

かつて「書く」という行為は、
自らの精神と身体を刻む、
変更不能な取り返しのつかない行為でした。
そしてそれが、自分自身の「スタイル」を
形作っていました。

しかし、電子的言語環境では、
書き手の身体性が筆跡を通して
刻まれることはなく、
書かれたものは情報空間の中を浮遊し、
さらなる変更や転写へと常に開かれています。

だから電子的言語環境では
著者の責任や情報の信頼性が
書物よりもあいまいになってしまうのでしょう。

しかし、すでに電子的言語環境に
慣れ親しんでしまっている僕は、
noteやパソコンに残したファイルはもちろん、
発表したり印刷したりしてしまった原稿でさえも、
修正なんかすぐできる、という
甘い考えになってしまっています…。

変更不能な「書物」という形式―
同じく変更不能な絵画や書などとともに、
まるで「聖遺物」のような作品に込められた
作者の意図は、我々読者には
どうすることもできません。
ただ「解釈するもの」として対峙するしかない。
読者は作者には永遠に到達不能です。

しかし、電子的言語環境においては、
それはどうにかすることができるかもしれない。
noteだったらコメントして、
意図の説明を求めたり、
作者がそれに回答したりすることができる。
そのやり取りを通して、作者の意図に近づいたり、
あるいは作者の表現や、
意図でさえも修正が可能であり、
まさに「終結しない記号過程」です。

情報への愛着

僕が「スタイルと情報」の文章で好きな部分は、
書かれてしまったものは、取り返しがつかない。
自分の残した筆跡に対して
愛着、羞恥、憎悪などの強い感情が起こるのも、
そうした変更不能性に由来する。

情報の取り扱いについても、
ちょうど先日尼崎市で市民全員の個人情報の入った
USBが紛失した事件がありましたが、

あれがもし電子データではなく
自分が46万人分一人ひとり手書きで書いた紙なら、
飲み屋に持っていくような扱いは
しなかっただろうに、とふと思いました。
いやまあ、そもそも物理的に
持っていけないんでしょうけど…
愛着という点で、ですね。

もちろん、今まで投稿してきた記事には、
電子的言語環境で変更可能であっても、
愛着があります
自分の身体を使った感があるということで…。
僕は一つ一つの記事が長いので特に執着が強い…。
いや、短くても自分なりにうまく書けると
当然愛着は生じますが。

noteでは
「長くても1000字程度が一番読まれやすい」
といろんな人が書いているのですが、
自分にはその才能がありません。

あと、僕が学生のころから大好きなライターさんが
超長文ということの影響を勝手に受けています。
世代的に、「テキストサイトの子」なので。

この記事は実に18万字だそうで。
1つの記事で、
源氏物語(100万文字)の実に5分の1
それでも読み飽きずに
最後まで読んでしまいました。

patoさんの文章は問答無用で、
その人が動き、感じ、生きる身体を
ガッツリ感じることが出来ます。

筆跡としての身体性が失われた
電子的言語環境においてでも、
身体性を読み取ることができる
そんな文章が僕は好きなのかもしれません。

ここまでで3500字。
お読みくださり本当にありがとうございます。
長いので二つに分けました。
後編はこちらです。

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