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脱サラ50男が未経験で不動産会社を立ち上げる。

プロローグ

2021年8月、ついに会社をやめた。いや、やっと辞めることができた。27年ほど勤務させてもらったが、残念ながら寂しさや後悔など微塵もないことに我ながら驚いた。

若い頃は絶望的に頭が悪く、素行も生活も最悪だった。まともな職にはつかず、パチンコ店やガソリンスタンドでアルバイト。金と暇があればスロットに興じ、夜になれば朝まで酒を飲み、タバコと体臭にまみれた汚い部屋で、何の目的もなくただただ金と時間を浪費する毎日。学校へも行ったり行かなかったりの流浪の生活で、あの時のおふくろの悲しげな顔は忘れもしない。

そんな阿呆を拾ってもらった会社であった。とてもありがたかった。車の免許が無かったにも関わらず入社を認め、かつ免許取得費用を補助してくれるという好条件で迎え入れてくれた。これが人生初の正社員になった。

その優しさとは裏腹に、仕事内容は想像を絶する厳しさの現場仕事だった。忙殺なんて言葉は生易しく、3日以上徹夜が続いたとき「ここで死ねたら楽なのになぁ」とまで思えた。

しかし辞めなかった。当時は拾ってもらった恩があったのだろう。自分がそんな恩を感じ、ここまで身を呈する人間だとは知らなかった。

それから数年が経ち、役職付けになってまもなく新潟支店開設の責任者として転勤話が浮上。阿呆にとってはまたとないチャンスとこれを受諾し、新潟へ移住することになった。

新潟では知り合いもいなく毎日大きな不安を抱えるも、こんな若造に目を向けてくれる温かい人達に出会え、様々な経験を得た。これが人格形成に多大な影響を与えてくれた。

ツキもあって、それからわずか数ヶ月で大口契約を獲得。商売も生活も好調期に突入した。業界内でも名が広まり、その後は右肩上がりで顧客が増え、県内の競合他社と肩を並べるまでとなった。

新潟移住から十数年が経とうとした頃、本社への転勤が決まった。地方職員が本社勤務へ移動など異例であった。

もともと土地を跨いだ引っ越しには抵抗がなく、いろんな県に住みたいと望んでいたため、これを快諾。知人からも「おめでとう」と祝辞をもらい嬉しかった。

当時の彼女にはつらい思いをさせた。その寂しさよりも本社という魅力が勝ってしまったことを申し訳なかったが、都会で仕事をしたいという渇望を抱き、いざ名古屋へ出立。

しかしこの転勤が大きな変革を生む切欠になった。

憧れた本社勤務になってわずか数ヶ月で気付いた。完全に腐っていた。社長の甘さに漬け込んで、仕事のフリをしているだけの社員ばかりで会社が機能していない。

ある者は昼食のあと直帰、ある者はゲームやネットサーフィンをしている。専務自体も社員の目前で昼寝。支店の多くは赤字危機、新プロジェクトは頓挫ぎみ。驚くほど人望のない社長の子息が会社を引っ張れるはずもなく、空威張りの上層部たちでは士気などあがるはずもない。

絶望だった。間違いなくこの会社は終わると確信できた。外から見る本社は威厳があって誇らしく羨望していたが、中は糞溜めだったと知った時は悲しかった。

こんな遠くまで来て、会社の腐った部分を目の当たりにしてしまい、大変な後悔と憤りに包まれた。こんな会社のために置いてきた彼女にも申し訳なかった。

まもなくして退社を決心した。だがこの年齢で再就職は厳しいし、いまさらサラリーマン生活は嫌だ、、、どうしようか、、、

そこで思いだした。友人が不動産会社を経営しており、彼がその面白さを語っているとき、サラリーマンだった自分の目にはとても楽しそうで羨ましかった。不動産に関連した本や動画を見てその妄想に浸るうちにそれはいつしか夢となった。

そして決意した。夢を現実にする時がやって来たのだと。この本社に来たことはそれを決意させるためだったかもしれない。

風雲急を告げたかどうかはわからないが、自分でも驚く早さで一念発起。即時退職願届け提出。27年務めた会社であっても未練も何もなかった。

ここが起点である。宅建業へ歩みだそうと決心した50歳の夏。