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生きていくうえで「自信」は本当に必要か?

こんにちは、いけかよです。

突然ですが、みなさんは自分に自信がありますか?
こう聞かれて「はい、あります!」と答えられる方はそんなに多くはないと思います。

でも「自信がある」ってどういうことなんでしょう?
堂々としてること?
ぶれないこと?
メンタルが鋼なこと?

「自分を信じる」と書きますから、文字通りの意味なのだろうかと思いきや、この「自分を信じる」というのも、ただキラキラしていてなんだかよくわからなくないですか?

どういうことなのでしょう、「自分を信じる」ということは……。

今回は、そんな「自信」について考えてみたいと思います。


「自信」は必要なのか問題

そもそも、生きていく上で自信って必要なんだろうか、と思うことがあります。
自信があるなし問題でいえば、圧倒的にあったほうがいいですよね。
自信がないと、なにをするのもなんだか不安で息苦しそうです。

「自信がなくて●●できない」と言う人がいますね。もちろん、いけかよも自信がなくてできないことってあります。バンジージャンプとか、こわいし。

でも、じゃあ、なんでもかんでも自信がないとできないのかっていうと、そうではないと思うんです。

皆さん、日々、自信がなくてもやっていることってあるはずです。
たとえば日々の食事づくり。
お料理に「自信がある!」からごはんを作っている人もいるかもしれないけど、多くの場合は自信のあるなしなんて関係無しで「やらなきゃいけないから作ってる」んじゃないでしょうか。

はたまたコミュニケーションにおいても、「自分はコミュ力自信あるっす」っていう人って若干信頼できない気も。

そしてお仕事はわかりやすいでしょう。
絶対にこれは大丈夫、っていう100%の自信が持てる仕事をどれだけの人がしているでしょうか。
ていうか、少なくとも、いけかよは100%自信がある仕事なんて1つもありません。

まあまあの自信があるやつはあるけど、そんなに多いわけではありません。

でも、いけかよはわりと「堂々としてる」とか「落ち着いてる」とか、ときには「自信に満ちあふれている」と言われることも。人前でしゃべるときなんかは特に言われます。

まあ、場数をこなしていればそれなりに落ち着いてできるもんですが、でもなんかそれって「自信がある」とは違うんだよな、と思うことはままあります。
だからお仕事については「自信があるからやってる」ということばかりではありません。

だから、いけかよは、単純に「自信がありそうに見える」だけ。

だから、なにがいいたいかと言うと、「自信があること」と「自信があるように見える」ことは別だということです。

そして、往々にして自信がなさそうに見えて得することはない、ということ。


自信は自分のために持つものじゃない

お仕事でもその他の人間関係でも、基本的には同じことが言えます。
自信は、あるかどうかじゃなくて、あるように「見せる」ことが大事だといけかよは思うのです。

もちろん、そういった表面的なものは、持って生まれた雰囲気や個性や服装や喋り方なんかにも依拠するでしょうし、だからってはったりかませとか虚勢を張れと言いたいわけではありません。

でも、少なくともあからさまにビクビクオドオドしている人よりは得なはず。
なぜなら、いけかよは自信は「自分のために持つものでもない」と思うからです。

もちろん、本当に自信があって、なにごとにも動じることがなくって成功続きならば最高です。でも、わたしたちがそんな「最高の状態」を目指そうとしたらその途中できっと人生が終わってしまいます。

だからこそ、目指すべきは「自信がある」状態ではなく「自信があるように見える」状態。
なぜ自信は「自分のために持つものでもない」と思うかというと、「自信があるように見える」状態とは、相手に対する配慮だからです。

ちょっと嫌味な言い方になるかもしれないですけど誤解を恐れずに言っちゃいますと、堂々と「自信がない」と言える人って、逆に自信があるんじゃないかと思うんです。
だって、そんなこと言ったら相手は不安になりませんか?
相手が不安になったら自分は敬遠されてしまいませんか?
それが平気だから「自信がない」って言える。だから「自信がない」って言えるのはむしろ強いメンタリティなんじゃないかと。

まあ、この場合は限定された状況について言えることかもしれませんが、いけかよがなぜこんなふうに思うかと言うと、いけかよにとって自信とは「相手を安心させるためのもの」だからなんです。

目の前の相手が、自信に満ちあふれていなくとも、少なくとも落ち着いているならばきっとあなたは安心しませんか?

人間関係を紡ぐことってそんなに容易いことじゃないけれど、やっぱりだれかと対面しているとき、相手の「なにか」は伝わってきますよね。
それが「緊張」でも「リラックス」でも「安心」でも。
目に見えない「なにか」が伝わってくる。

これをわたしたちは「コミュニケーション」と言います。

否応無しに伝わってしまうそれらを、だからなるべくポジティブなものにしたいと思うとき、いけかよにとって「自信」は「相手のためにあるもの」になるのです。

相手を安心させるためになら、いけかよは「自信のある人」に変身することができます。

だから、自信がないって思う人は、自分以外の誰かに目を向けてみたらよいかもしれません。

自分が期待に応えたいと思う人とか、自分が大切にしたいと思う人とか。
あ、でも、けっして自己犠牲的になったり無理したりはしないでくださいね。

「自信」に代わる「光」はたくさんある

とはいえ、いくら「フリ」とはいえ、急に自信を持つのなんて難しいし、結局「フリ」は「フリ」なわけだから、本質的な自信のなさを拭うことはできません。

だからこそ必要なのは「積み重ね」なのかなって思うのです。
ざっくり言っちゃうと「場数」ですね。

お仕事の経験値は言わずもがなだけど、努力したことや泥臭くがんばったこと、新しく誰かに出会うこととか、だれかを愛することとか、失敗することとか傷つくことすらも、すべての経験が積み重ねられて、わたしたちは形作られていきます。
その「積み重ね」こそが、少しづつ自信のようなものをわたしたちの中に構築していくような気がします。

これってあくまで自信の「ようなもの」であって、必ずしも本格的な「自信」に直結するわけではないのだけれど、冒頭でも書いたように、本当に自信があるかどうかってあんまり重要ではないといけかよは思っています。
なので、いけかよ的には「自信」があるかどうかよりも人としての「積み重ね」があるかどうかが、大事やなって思うのです。

その積み重ねって「自信」にはならずとも、「おおらかさ」とか「優しさ」とか「安心感」とか「愛」とか、ときには「天真爛漫さ」とか「心からの笑顔」とか、いろんななんらかを必ず形づくるはずなのです。
これらのものって「自信」に負けず劣らず尊くて大切で、わたしたちにとっても必要なものだと思いませんか?

そして逆説的だけど、「自信」じゃないこれらのものを纏うことができたとき、他者はあなたを「自信のある人」だと認識するはずなのです。

あなたが発する光は1つじゃない。
でもどんな色でも、それは光であることに違いはないと、いけかよは思うのです。

では、また!

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)


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