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私たちは「正義中毒」になってない?正しさに基づく攻撃の奥にあるもの

こんにちは、どさんこ大学生RUNAです!

コロナ禍の生活が始まって2年が経ちました。

当初、未知の感染症に恐怖感が高まり、マスクをしていない人を激しく非難するなどの「自粛警察」「感染者バッシング」が相次ぎました。

ニュースではそれらを「正義感に基づく」行為だと報道していました。

最近では、「ワクチンを打った/打ってない」で世間が二極化し、「ワクチンを打てない/打たない」人がまるで悪者かのように議論の的になっているように感じます。

今回は、「正しさ」に基づいた「攻撃」や議論が世の中で大きな話題になる理由について考えてみました。

正当化される怒り

「これってどう思う?」

そう言って友達が、私にあるTikTokの動画を紹介してくれたことがあります。

その動画は、「某有名遊園地のアトラクションで長時間待ったが、乗ると大泣きする子供がいたため、楽しめなかった」ということを指摘したものです。

アトラクションに乗りながら撮影されているその動画では、周りの様子と共に子供の泣き声が記録されていました。(現在は削除されています。)

発信者の怒りは2つのことに向けられていました。1つ目は、せっかく長時間待ったのにも関わらず、子供の泣き声が原因で楽しめなかったことです。
2つ目は、子供を静かにさせることができないことに加え、まだおとなしく乗れない子供を乗せた親に対してでした。

コメント欄には、
「我慢していたけど、実は、同じ怒りを感じたことがある」
「その子供と親が配慮すべき」
などの共感の言葉と同時に、
「全員が子供であった時があったのだから、しょうがない」
「親と子供の責任ではない」
という反対の意見が挙げられ、コメント欄での対立もみられました。

「またか…」

そう思うほど今、このような個々が思う「正しさ」を主張する攻撃的な動画が多いように感じます。

私は、この動画がアトラクション内で撮影されていることがまず、危険だと感じました。しかし、それは重要視されず、それぞれが自分の正義のもと意見を交わしていることに違和感を持ちました。

「正しさ」を主張するための怒りや攻撃ならば、それが危ない行為だとしても正当化されることを表しているようでした。

攻撃・怒り

なぜ、人は正しさを主張する時に攻撃を用いるのでしょう?

脳科学者・著者として活躍する中野信子氏は、正義とはいえ過剰に相手に攻撃的な言葉を浴びせ、叩き潰そうとする社会問題のことを「正義中毒」と呼んでいます。

人間の脳は、自分の考えに反する人を攻撃すると、快楽物質であるドーパミンが放出されます。このように正義を過激に貫き通す攻撃には、中毒性があるのです。

また、「正しさ」を主張し、誰かを攻撃する行為は自分を守るためという指摘もあります。

例えば、幼少期から「怖がるな」「泣くな」と言われて育つと、感じることや感情を素直に出すことを我慢しなければならないと思うようになります。

こうして固定された考えにより、大人になっても「寂しい・悲しい・怖い」という気持ちを表現できず、その代わりに自分の正しさを用いて相手を攻撃する。そうすることで自分の弱さに向き合わなくても良くなります。

ただでさえ不安が広がる現代では、その気持ちを表せないことで、更に正しさを用いた怒りや攻撃が過激になっているのではないでしょうか?

正義の勝敗フィルター

「正しさ」とは何かを調べると…
ある本では「平等、自由、宗教」を推し進める行為が「正義」だと定義できると書いてありました。

この3種の正義があるとしても、人それぞれの価値観によって少しずつ違う解釈があるとすれば、正しさは人の数だけあるといえますよね。

その無数にある正しさですが、人はそれをひとつの強固なものだと信じがちです。

心理学の体系を創り出したアドラーは、「対人関係の中で『わたしは正しいのだ』と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れている」と話しました。

「正しいか、間違っているか」という主張を多くの人が勝ち負けとつなげてしまう。そのため、自分の誤りを認めることが「負け」になり、それを避けるために相手を論破しようとするという悪循環が生まれてしまいます。

冒頭で紹介したTikTokの動画も、発信者の主張が正しいか間違っているかがコメント欄で言い争われていました。見た人たちの目先には、「勝ち負けのフィルター」が色濃くかかっているようです。

もしも、私が出来事の当事者や関係者であったなら、この動画に対してどのような考えを持つのでしょうか?

私自身も動画を見た時、すぐに自分の中にある「正義のフィルター」で自分の意見が生まれました。
アトラクション乗車中の撮影自体が他者の命の危険につながるのではないか?また、当事者に伝え・意見せずに、なぜ不特定多数に発信するのだろうか?と。

しかし、思い入れがあればあるほど、自分の正義を押し通そうとし、「勝ち負けのフィルター」が最優先になってしまうかもしれません。

私は、思い返すと「正義感が強い」と言われてきました。そんな小さい頃から気をつけていたことがあります。

それは、私の正義は誰かを傷つけるかもしれないということです。

小学校の時、学校で1番の暴れん坊として有名な男の子がいました。その子と行動を共にするようにとクラス替えの時に先生に言われた私は、今までの行動ではなく、何が好きでどんなことが楽しくて何を思っているのかを聞いてその人を知ろうとしました。

すると、その子はこんなにも話を聞いてくれるのは初めてだと言ったんです。先生が思う正義と違うことをすれば怒られ、問題児という言葉でまとめられていくうちに、気持ちや思いを誰も聞いてくれなくなったと教えてくれました。
正しくないことをしたら怒られ、良いことをしても「問題児」として変わらない対応をされるのは、その子にとってある種の攻撃だったのだと思います。

今まで見てきたヒーローと悪役、それぞれにイイところ・悪いところがあり、ヒーローだからイイことでもないし、悪役だから全部が悪い訳でもないのだと気づいたんです。それから、何か起きた際には、必ず、どちらの意見も聞いて、どちらもが納得することに力を入れるようになりました。

子供の時に素直に感じたその思いは、今も続いています。

正義は、誰かを良い方向に成長させることもできれば、誰かを傷つけ、時代や人によって変化するもろいモノだということです。

これは、いいふりこき(北海道弁:いい人ぶる人)だと思われるかもしれません。

しかし、私は自分だけの正義に溺れないように、知らない間に誰かを傷つけないために、こう考えたいです。
正義は争いのためにあるのではないし、自分ひとりの「正義のフィルター」だけで全てを判断するのはもったいないと。正しさの違いで衝突した時こそ、人の数だけある正義・考えを聞けて、自分の「正義のフィルター」を鮮やかにしてくれるチャンスだと思いたいのです。

このように思うことで、いろいろな人の思いを受け取ることができ、お互いにとっての良いカタチを思い描くことにつなげたいと思うのです。

正しさについて考え、調べるほど、複雑でさまざまな事柄と結びついてることが分かりました。

今、よく目にする正義に基づく攻撃は、勝ち負けにこだわりすぎているのかもしれません。

ほとんどの人がSNSを使っている時代、状況が変われば誰もが正義という名目で終わりのない攻撃を発信する当事者になるかもしれません。

だからこそ、自分の正義のフィルターを持つのはイイことで相手が相手なりの正義のフィルターを持つこともイイことだと思い合ってみるのはどうでしょう?

それぞれが感じる・考える正しさを意見し合い、双方が分かり合えなくても、受け止めることができたら、私たちが持つ勝ち負けのフィルターを使った攻撃や怒りの連鎖を少しでも減らせるのではないかと思うのです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

Text by どさんこ大学生RUNA


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