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言葉にできなくてもきっとある。子どもたちが「今の自分を超えていこうとする力」

こんにちは、あいすかです。

みなさんお元気にお過ごしでしょうか。
かあちゃんは寝違えて首が回らなくなったり、はりきってテニスをしすぎて右手が回らなくなったり、空回りの多い1か月でした。
身体メンテナンスをきちんとしなければいけないお歳頃です。そんなズタボロの身体に鞭打って、2月はちいさな子どもたちを連れて、山に登ってきました。
今日はその時のエピソードもふまえながら、子どもへのまなざし、そこから学んだ気づきについてお手紙を書いてみたいと思います。

崖の中心で「だっこーー!」と叫ぶ

少し肌寒く、雲がうっすらとかかったある日のこと、保育士さんと保護者引率代表かあちゃん(キラーン☆)は、3歳児の子どもたち数名を連れて、近所の山へ遠足に行きました。
ゆっくりと子どもたちの歩幅にあわせながら、かあちゃんの頭のなかは自然と触れ合うワクワク感と子どもを見守るという責任感でいっぱいでした。

子どもたちとの時間はいろんなことが新鮮でした。
大人の足ならひょいっと登れる岩山でも、子どもたちはカブトムシのように這いつくばって、「ウンショ、コラショ」って一生懸命。子どもたちを先に行かせて、下からお尻をさりげなく、そっと押してあげると「やったー!!」って得意顔。

落ち葉が山のように重なっているところでは、ベッドに寝っ転がるように気持ちよさそうにゴロンゴロン。じゃれ合ったり、落ち葉をかけあったり、そんなことをずっとやっています。結構な斜面や崖のそばでも、小さな子は急に暴走しちゃったりします。実は見守る方はスリリング、そういう意味での危険地帯はたくさんありました。

そして、想定内の事件は起こりました。

急斜面の崖の中心で「かあか~、だっこぉ~」と叫ぶ我が息子。こんなところで抱っこしたら、崖下へ共落ちです。

「〇〇くん、あなたはカブトムシだから、大丈夫!できる。恐れることはないよ」と励ましていたら、「ちゃう、あやく!(ちがうよ、早く行きたいんだよ)」と。

あ、怖いんじゃなくて抱っこしてもらって早く先へ進みたい、ということだったのね(汗)。かあちゃんは体育会系なので、ひたすらカブトムシになるように言って一人で登らせようとしました。

そんなこんながしばらく続いていた時、先を歩いていた女の子2人が、息子くんがいないことを察知し、「はやくおいで!だいじょぉぶ?」と、崖上から降りてきてくれました。
すると息子くん、それまでのグズグズはどこへやら、満面の笑みで差し出してくれた女の子の手を握り、ひょいっと身軽に崖を登っていくではありませんか。
後ろを一度も振り返らず、楽しそうに山道の先へ走って行ってしまいました。崖にはカブトムシのように這いつくばった大人がひとり(かあちゃん)取り残されておりました……。

今の自分を超えていこうとする力

女の子どんぐりひろい

それから2時間くらいかけて、みんなで山を登り切りました。途中、落ち葉や木の棒を使っておままごとをする子、切り株に頭をくっつけて瞑想をする子、木によじ登ろうとダイナミックに身体を動かす子。かあちゃんも何人かの子どもたちと一緒に泥んこになりながら遊びました。

山の中で、子どもたちとたっぷり「静」と「動」の時間を感じ、疲れるどころかパワーをもらったかあちゃん。
どんなに小さな子であっても、ひとりひとり自分のまなざしを持ってこの世界をみています。「発見」や「不思議」に出会った子どもたちは自分が守られている温かい腕から自ら離れ、自ら這い、土を踏みしめ、じっと見つめ、手を伸ばし、何かを確かめていこうとしています。

自分の「まなざしの先へ」歩んでいこうとする背中は、どんなに小さくても、ひとりの人間としての存在の大きさを、かあちゃんに知らしめてくれました。

今回の山登りと山あそびに参加して気づいたこと

子どもって、黙って見ていると本当に思いがけない反応をしてくれるし、自らすごい答えを出してくれる。
崖の上で「だっこぉ〜」と叫んだ息子くんも、けっして崖を怖がっていたわけではなく、むしろ崖登りは上手なほうだった。
だけど、かあちゃんは「小さな子どもは崖が怖い=抱っこしてほしい」と思い込み、叱咤激励してしまいました。息子くんの「お友達の姿がみえなくなったから、みんなのところへ早く行きたい」という気持ちには寄り添えていなかった。

その日の夜、かあちゃんは旦那さんとお酒を飲みながら、一連の出来事や子育てについて語ってみました(ほぼひとり語り、旦那聞き役)。その時に話した内容を要約すると、こんな感じ。

「子どもを立派に育てなきゃとか頑張りすぎるな。あたりまえだけど子どもは親の分身じゃない。そして、私たちだけの子どもじゃない。同じ人間、大切ないのち。今こうして子どもを育てさせてもらっていて、何がその子にとって良かったのかなんて、今すぐは解らないけど、その解らなさも含めて全部をおもしろがった方が、きっと得るものが多いだろうな。」

子育てだけでなく、なんでもそう。じっくり時間をかけて醸成していこう。
「早く答えがほしい」という感覚が、ものや概念、周りの人たちに対する思い込みに変わってしまわないように。

言葉にならない豊かさもある

わたしたち大人は「言語」にあふれた情報社会で生きています。
「ちゃんと言葉で伝えなければならない」という『言語主義』的な発想が、私たちを日々縛りつけているように感じることもあります。
たとえば、アートを鑑賞したとき、自分が感動したことを言葉にして周りの人に説明したけど、うまく相手に伝えられなかった(伝わらなかった)ってことありませんか?
「ちゃんと」言葉で伝えなければならない、と考えてしまうんですよね。それはもちろん間違いではないけど、かあちゃんは言葉に囚われすぎて、苦しくなったことありましたもん。

わたしたち大人は、子どもが早い段階で言語ができればできるほど(日本語であろうが英語であろうが)、早く成長したように考えてしまいがちです。でも、その反面、言葉で言えなかったり、言葉にならなかったりすることの豊かさって確実にあります。

言葉にする手前にある、いろんなことを感じ、積み重ねていく体験こそ、子どもにとっては必要なんだと思います。自然体験はそのひとつです。

じゃあ大人に必要なことは?
「子どもっておもしろい」と感じる心、特に子どもの中の「人間性」そのものへ強い関心があることが、いま大人としてとても大事なことなのかなとも思います。
大事な芽が出たばかりの人たちに、これからどのような環境を手渡していくのか、もう一度私たちみんなで確認できるといいですね。

今回はすごく偉そうなことをいってしまいました。ごめんなさい。
これはあくまでもかあちゃんの意見、みなさんの想いも大切にしてくださいね。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回のお手紙まで、みなさん、お身体にお気をつけて、こころ穏やかにおすごしくださいませ。

かあちゃんより

Text by Äiskä あいすか(Cheer up girls★かあちゃんライター)


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