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桜と和歌。日本の先人たちの死生観と和エラマ的な生き方を考える

願わくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃

これは平安時代の末期に活躍した歌人、西行が詠んだ和歌です。有名な歌なので、聞き覚えのある方もいらっしゃるでしょう。

叶うなら、桜の下で、春に死にたいものだ。
二月の満月の頃(2月15日頃)に。

こういう意味の和歌です。

当時の暦では、満月が来るのはその月の15日目。二月と言っていますが、今の暦に直すと3月中旬から4月上旬に当たります。まさに桜の季節ですね。

私はこの歌に惹かれます。
人生の最期に見る光景が、この和歌のようだったらいいなぁと思うのです。

詠み手の西行は73歳まで生き、この和歌に込めた願い通り、2月16日にこの世を去りました。

西行はもともと武士で、23歳で出家をしています。

仏教の祖である釈迦が亡くなった日が2月15日のため、西行は、釈迦と同日に死にたいと詠んだのだと思われます。しかし、私はその日付よりも、桜の下で死にたいという心情に強く共感を覚えます。

願い通り、二月の望月の頃に亡くなった西行。
彼が最期に見た景色は、一体どのようなものだったのでしょう。
和歌に詠んだ通り、桜を見上げながら逝ったのでしょうか。

私の中には、桜吹雪の中で静かに息を引き取る西行の姿が浮かびます。

そして、その桜は、西行の人生そのものであるかのように思えるのです。

桜から死を想う

桜ほど日本人の心を震わせ、惹きつけてやまない花はないでしょう。

平安貴族が愛した花として、よく梅や桜が挙げられますが、中国文化とともに日本に入ってきた梅とは異なり、桜は古くから日本に自生している花です。

日本の長い歴史の中で、桜はずっと我々とともにあり、時代によってそのイメージは変わっていきました。

かつては、その年の豊作を占う、呪術的な存在として。
田んぼの神さまが宿る依り代として。
美しい女性のような存在として。
散るのを惜しみ、愛でられる対象として。

そして、武士の世では、散り際の潔さが一層好まれるようになります。武士ならば、桜のように潔く散るのが良いという思想です。

その思想は、近代の戦争においても引き継がれました。軍歌では、国のために見事に散ろうと歌われ、人間爆弾と呼ばれた特攻兵器に名づけられたのは、「桜花」という名前でした。

そのあまりに美しい名に胸が痛みます。

これらの影響でしょうか、私はどうしても桜というものに死を感じてしまいます。

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

これは明智光秀の娘、細川ガラシャ(ガラシャはキリシタンとしての洗礼名)の辞世の句です。

散るべき時を知っているからこそ、桜は桜であり、人は人なのだ。人はそういう生き方をすべきであり、散り際を心得ているからこそ美しいのだ。

彼女はそんな風に辞世の句を詠んだのでした。

ご存知の通り、明智光秀は主君の織田信長を裏切り、本能寺の変を起こしたことから、謀反人として討ち取られます。その結果、細川家に嫁いでいた娘のガラシャも、波乱の人生を送ることになりました。

幽閉生活や夫との不和などの不遇を経て、最終的には、敵軍の人質となることを拒み、自害したと伝えられています。

そんな彼女の辞世の句で歌われているのも、桜なのです。和歌では「花」となっていますが、これは桜のことだと考えて良いです。

私は、主催企画「詩舞×国語」の講座で、細川ガラシャを取り上げたことがあります。(内容を詳しく知りたい方は、日本吟剣詩舞振興会制作の動画「国語で楽しむ吟剣詩舞」をぜひご覧ください。)

この講座のために、ガラシャについての文献をいくつか読みましたが、ガラシャは決意と覚悟に満ち、武士のような心意気を持った女性だと感じました。

桜は、優美でたおやかなだけの存在ではない。
信念や揺るぎない強さが似合う花だ。

ガラシャの人生や辞世の句を知ることで、私の桜へのイメージは、より逞しく、勇ましく変わっていきました。

冒頭でご紹介した西行の和歌とこの細川ガラシャの和歌。
趣は違いますが、どちらも死を詠んでいます。

桜の下で逝きたいと願った西行、桜のような散り様を美徳としたガラシャ。

あなたはこの2つの和歌から何を感じますか?

人生を桜に重ねる生き方

先ほど私は、桜から死を感じると書きましたが、それは生あっての死です。桜=死ではなく、桜にはいかに生き、いかに死ぬかという生き様が込められているように感じます。

このように桜と人生・生き様を結びつける考えは、多くの方が共感するところではないでしょうか。

エラマプロジェクトでは、フィンランドの文化・習慣を通して、豊かで幸せな生き方を探究していますが、和エラマ的な生き方、つまり日本人に合った豊かで幸せな生き方を考えていく上で、人生や生き様と結びつく桜はかなり重要な要素になってくる予感がしています。

自分の体は衰え、老いていったとしても、一番美しい姿のまま散っていく桜のように、心は人生最期の瞬間に最も輝いていたい。
命が散る時まで、美しく成長を続けたい。

これは上述してきた桜観とは異なる考え方ですが、とてもエラマ的であり、日本人にも合っているように思います。

日本の伝統的な業界では、死ぬまで現役という分野が多々あります。

伝統工芸の職人や伝統芸能の演者などは、一人前と言われるまでに長い時間を要しますが、年老いてから円熟し、深みや凄みが増していきます。

私が考える桜的な生き方とは、このような方々が手本です。

私は、現役時代が短いスポーツ選手や、流行り廃りの激しいアイドルのような職業は、桜という感じがしません。活躍期間の短さや若いうちに引退が来るという意味では、非常に桜的だと言えますが、私は最期の瞬間まで美しくあり続けることこそ、桜のような生き方だと思います。

とは言え、誰もが伝統の継承者のように、自身の道を一筋に追究できるわけではありません。

では私たちにできる桜のような生き方とは何か。
それは、自分の心にどれだけ素直に生きられるか、ではないでしょうか。

自分の想いややりたいことを偽らず、見ないふりをせずに、自分に正直に生きていけたなら、最期の瞬間はとても美しい心で幕を閉じられると思うのです。

理想論すぎるでしょうか?

確かに、現実はそんな綺麗ごとでは生きられないかもしれません。
しかし、

明日ありと 思ふ心の 仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは

これは、浄土真宗の祖である親鸞聖人が詠んだとされる和歌です。

桜は明日もまだ咲いているに違いないと思っていても、夜中に嵐が来て、散ってしまうことがないとは言えない。明日もあるはずだと思っても、そうとは限らないのがこの世だという無常が詠まれています。

人の命もまさにこの歌と同じ。

散ってから後悔しないように生きたいものだと思います。

自分の本心にふたをして、本心と異なる言動をしたり、我慢をしたりすることで、私たちの心は衰え弱っていくように思うのです。

だから私は、自分の心に素直に従っていきたい。

きっと全てをそうすることはとても難しいでしょう。だから、できるところから少しずつ。

最期の瞬間に、美しく散っていくために。

Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)



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