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私たちは誰からも何からも強制なんかされていない

こんにちは!いけかよです。

改めましてご紹介しますと、本メディアの運営主体であるエラマプロジェクトは、幸福度の高いフィンランドの「自分の生き方」と向き合う文化をベースに、「わたし」の「豊かで幸せな生き方」をデザインする文化をつくるプロジェクトです。
ワークショップやイベント、そしてこのメディアなどを通じてさまざまな発信をしているわけなのですが、当然ながらフィンランドという国は切っても切れない位置づけにあるわけなので、しばしば日本との「比較」というものはあったりします。

もちろん、どちらかが優れていてどちらかが劣っているというわけではありませんし、わたしたちとてそういった優劣の意図を持ってフィンランドと日本を机上に載せているわけではありません。わたしはフィンランドってすごく好きですが、やっぱり日本だって素晴らしいって思います。

しかし、やはりフィンランドって、すごく素敵に見えて、逆に日本ってすごくダメに見えてしまう点が多い。
これって国民性もあるのかもしれないけど、実際エラマプロジェクトのイベントを通じて知るフィンランドというのは、「幸福度No.1」というパワーワードとともに輝いて見えてしまいます。フィンランドにも当然ながら課題は山積しているわけで、実際に住んでみなければわからない生きづらさや苦しさもあるだろうことは想像できるのですが、フィンランドと比較したときに「だから日本はダメなんだ」という思考が少しも脳裏をよぎらないかというと嘘になります。

でも、これって何がそうさせているんだろうって考えたときに、そこには国の政策だとか文化だとかとは関係なしに、わたしたちが「人間として」囚われている思想をいけかよは見つけたのです。

ほんとうにそうなんだろうか

たとえば、フィンランドの学校の職員室というのは、生徒の入室を禁じているのだそう。職員室は、先生のための部屋だからです。先生は、そうやって生徒ときちんと境界線を引き、本来の自分の役割をまっとうするために職員室では自分のことに集中するわけです。

一方、日本の学校の職員室はそういうわけではありませんよね。現在の小学校、中学校、高校の職員室事情を私は知らないですが、自分が学生だったとき、職員室はむしろ生徒に向けて開かれていた部屋でした。入るときにはもちろん緊張しましたけど…。

そんな比較があって、たとえば先生である当事者の人だと、フィンランドのように生徒から少し離れて自分のための時間をつくれることを「いいな…!」と思ったり、はたまたそれについて罪悪感を感じる人もいるかもしれません。「教師たるものつねに生徒のことを考えておらねば」という、使命感のようなものを抱いている先生も多くいらっしゃるでしょうし。

でも、それってほんとうにそうなのでしょうか?

ここで言いたいのは「教師たるものつねに生徒のことを考えておらねばならない」ということの是非というよりも、その「〜ねばならない」って、どこから来るんでしょうね?ということです。

わたしたちは、日頃から「●●しなきゃいけない」とか「●●じゃなきゃいけない」とかいったことを頻繁に口にしています。
「今日中に仕上げないとヤバイ」とか「急いで帰ってごはん作らないといけない」とか。

つまり、「予定」って基本的に「しなきゃいけない」のカタマリですね。仕事は言わずもがなですが、家事育児から「壊れた洗濯機を買い換えなきゃ」みたいな細かいことまで、ついわたしたちは「●●しなきゃ」と言ってしまうんです。

でも、ふと思ったんです。この「●●しなきゃ」って、どこからくるんだろう、と。
そして目の前の「●●しなきゃ」のうち、どれぐらいが本当に「しなきゃいけない」ものなんだろうと。

わたしたちの「マトモさ」で成り立っている世界

例えば、仕事。絶対に抜けられない会議って、果たしてどれくらいあるのでしょうか。絶対に守らなければいけない締切って、果たしてどれくらいあるのでしょうか。
そんなの全部が大事に決まってる!と思われるでしょうか。

ええ、そのとおりです。仕事なんて自分ひとりで成り立っているものなんてほぼないわけで、それぞれがみんな「役割」があり、「約束」があり、全員がそれをまっとうすることで完成します。そして、そういう「マトモな」意識をもった大人が集まっているのが、「会社」であり「社会」です。

しかしですよ。ここ3年ほどわたしたちの生活を大きく変えてしまった流行病。それに罹ったとなれば、どうでしょう?むしろ「来るな」となるのではないでしょうか。
もちろんすごく嫌な仕事を休みたくてあえて罹る人なんていませんよね。でも、もし罹ったとなれば、いとも簡単にキャンセルできるのが、わたしたちが抱える「●●しなきゃ」の大部分だということ。

そうなんです。別に、穴をあけてもいいわけです。

あなたがいなくても会議は進行します。
あなたがいなくても制作は進みます。
あなたがいなくても会社は存続します。
あなたがいなくても(きっと)子どもは成長します。

残酷なことだと思うでしょうか。
はたまた、ほななんでもかんでもドタキャンしたれ!と思うでしょうか。

もちろん、そういうわけではありません。

キャンセルしたらしたで、「人に迷惑をかける」「誰かにしわ寄せがいく」という現象がおき、その罪悪感を背負うとか信頼をなくすというリスクはあります。

だからわたしたちは、その罪悪感から逃れたくてきちんと「●●しなきゃ」を全うしますし、それが「社会人」としての仕事です。

でもいけかよがいいたいのは「これは絶対に絶対にやらなければいけない」と思い込みながらやることと、「必ずしもそうではないけれども自分に充てがわれた役割だからやる」という意識でやるのとでは、けっこうちがうんじゃないかということなんです。

だって、その「●●しなきゃ」をたとえこなせなかったとしても、大抵の場合は人生に大きな影響はないからです。
そして、「必ずしもそうではないけれども自分に充てがわれた役割だからやる」という意識で生きることで、少し自分の価値観や生き方に風穴が開いて、生きるのが楽になると思うのです。
逆に言えば「これは絶対に絶対にやらなければいけない」と思い込んでいるというのは、ある意味での思考停止とも言えるのです。

それは少し自分を苦しめることになると思うのです。

「わたし」に強制をするのはいつも「わたし」

そもそも、「●●しなきゃ」の大部分は「強制」ではありません。日本では、法にふれない限りは大概のことは無罪放免です。

だからいけかよが言いたいのは「わたしたちは誰からもなにからも強制なんかされていない」ということ。
そして、皮肉なことに自分に強制するのはいつも自分です。「●●しなきゃ」とか、「●●しないと信用を失ってしまう」とか「●●しないと大変なことになる」とか、そんな言葉をわたしたちは自分のなかでいつもリフレインしているのです。

そこで、フィンランドとの比較論に戻ると、あなたが先生だとしてフィンランドの職員室が生徒入室禁止で、それが「いいな」と思うなら、あなたもそうすればいいんです。学校をあげてそういったルールを設けることは難しいでしょうが、あなたが個人として「職員室にいるときは生徒の相手をしない」というルールをつくることはできるんじゃないでしょうか。

そんなわけないやろ!無責任なこと言うな!とお思いでしょうか。それはなぜなんでしょう?来るなと言っても生徒は来るし、そもそも他の先生の目が気になるし?

じゃあこう考えてみてはどうでしょう。
生徒から離れて自分ひとりの時間をもちたいと思うなら、あなたが職員室を出たらよいのではないでしょうか。
屋上でも、体育館裏でも、喫煙所(古い?そもそも今あるのかな?(笑))でも、絶対に先生は職員室にいなければいけないという決まりこそないでしょうから、あなたの「生徒から離れて自分ひとりの時間をもちたい」という願望は、いろんな観点からものごとを見てみれば答えは導き出されると思うのです。しかもいくつも。

「授業の時間以外はつねに職員室にいて生徒が来たら対応しろ」なんて、だれもあなたに強制していません。していると感じるとすれば、日本人が大得意の「同調圧力」というやつでしょうか。

でもそれも、「幻想」だということに多くの人は気づいているはずです。

だから、もっと自分を解放しましょう。
「●●しなきゃ」と思い込んでいる自分に、もっと自覚的になりましょう。

そう、わたしたちはいつでも自分自身の「役割」を降りることができます。
ライターとかデザイナーとか先生とか講師とか経営者とか、お仕事における役割はいわずもがな、母とか父とか妻とか夫とか。総理大臣だって交代するのに、一個人が社会的なその「役割」から降りられないはずがない。だって、基本的には誰からもなにからも強制はされていないのですから。

でも多くの場合、それは前述のように多かれ少なかれ罪悪感とか信頼を失うとかのリスクが伴うでしょう。だからって、それがなんなのでしょう。「●●しなきゃ」におしつぶされて、イライラしてまわりに当たり散らすくらいなら、いったん降りておだやかに過ごすほうが周りのためになるかもしれないし、冷静に考えてみれば、何よりも「わたし」のためになることは疑いようがありません。

なるべくゆずりたくない予定だけでカレンダーを埋めたい

とても極端なことを言っているかもしれないな〜とも思いますし、それはいけかよがフリーランスというとてもお気楽な立場だからこそ言える部分もあると思います。
でも、今回思ったのは、流行病が教えてくれたことの1つでもあります。あの人もこの人もなっちゃってお休みの人だらけ!っていう状況を経験した人は多いはずで、そのためのリカバーに奔走したという人も多いと思うのですが、でも、それって結局どうにかなってるんじゃないでしょうか。

仕事じゃなくても、家事や育児においてもそうです。
ごはんはUberが運んでくれるしコンビニでもスーパーでも出来上がったものが売られているし、家事も代わりの人がやってくれます。洗濯機が壊れたならばコインランドリーか手洗いなんかもたまにはいいんじゃないでしょうか。

でも当然ぜったいに代わってもらえないことはあるし、代わりたくないこともあるはず。
だからこそ、そういうことをわたしたちは大切にして生きるべきです。誰からもなにからも強制されていないけれども、絶対に自分が譲りたくない「役割」があるとしたら、それはそれで幸せなことです。
興味のあることをとことん追求して勉強するとか、大好きなアーティストのライブとか、休みの日に自分を甘やかすとか、大好きな友達と飲みにいくとか、愛する人を愛するとか。

なるべく、そういう役割でカレンダーをうめることができたら、それこそが「豊か」な人生なんじゃないかと思うのです。

「誰からもなにからも強制なんかされていない」って自覚しながら生きることは、すなわち自分の人生の舵を自分で握るということです。逆に「●●しなければ」がたくさんあるということは、自分の人生の舵を誰かやなにかに奪われていると言えるかもしれません。

でも、もうそういう生き方からはすこしずつ卒業したい。

だってもうすぐ新しい2023年がやってくるのですから。

では皆さん、良いお年を!

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)


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