糧、子供の頃の話 01

最近、人生の苦味の部分を飲み込んだら、
人は成長を得る、という事をコンサル鈴木さんから聞いて、
昔、荒削りだけど、とんでもなくその頃の自分にとっては、苦味だな、と思う事を、
自分の中に取り込んだ事があるな、って。
そして、その変化がとんでもなかったな、と思い出して。

すごーく、暗いし、文字にしたら刺激が強い上に、大変だったね、と言われそうで、
確かに大変ではあったんだけど、それを求めてる訳ではなく、

人生の苦味は、人にすごい変化をもたらすんだよ、糧になる、という体験が、自分を支えている。

自分としては、そこにね、フォーカスをして、自分語りしようと思う。

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●幼少期〜小学校の頃
私の実家は6人家族、時々7人家族でした。
謎の、人数の幅w

鹿児島出身台北育ちの祖母と
岡山出身の祖父が
結婚して関西で暮らし
叔父と父が生まれ
父が修学旅行先の長野の大自然を大層気に入り
長野に就職。

母は新潟の雪深い山林生まれ、
頑固で怒ると超絶怖い祖父と
繊細な祖母と兄と暮らし
中学の頃祖父を亡くし、
そのショックで今でいう鬱になった祖母がいたので
高校は名古屋にある全寮制の、
昼働き夜は夜間高校に通い、
もう、話すと長い紆余曲折を経て長野で就職。

出会う。

なんていうか、みんな全世帯そうなのかもしれないし、分からないけど、
祖父母の代と、親と
私の子供のころの話を書いたら
ドラマが何本できんのよ、
みたいに波瀾万丈なの、我が家。
みんなもそうだよねぇ、きっと。

私というサツマイモひとつ掘り出して
引っこ抜いたら、他のサツマイモもたくさん付いてくる!
みたいになっていて、影響し合っていて
まとまるかわからないけれど、書いてみる。

私が生まれた年は、ギリギリ、
本当にギリギリ平穏で
1歳の誕生日から激動する。

私の1歳の誕生日当日、祖父が倒れた。
脳腫瘍だった。
大手術の結果、右手と左半身付随。
退職したてで、やっとこれから退職金でゆっくり国内旅行でも、というところだった。
そこから、介護がスタートする。

頑固で潔癖な、お堅めの祖父だったので
利き手が封鎖され、歩くのに杖、
上手く扱えない身体にイライラしただろうし
その気持ちを思いやって伝える事が難しかったと思う。
そして、なんだか、お嬢様っぽい育ちの祖母。
終戦後、台湾から本土に帰る時、宝石は全て海に捨てて来た。勿体なかったわぁ、という話を聞くと
私の知る戦時下との乖離がすごかった。
数多くいる兄弟の末っ子だった祖母は
兄弟から甘やかされて育てられたらしく
苦労したことはなかったそうだ。

祖父がイライラして身体の不自由さを上手く伝えられないのを汲んであげられない
イライラにはイライラで返す、
というか、嫌味で返す人だった。

祖母は自分の2人いる子供を贔屓して育てた。
それも致し方ないのかもしれない。
何でも、全て兄や姉たちにやってもらって来て、女学校を出たてで間もなく結婚して
出来た祖母の初めての子供、
つまり私の叔父は癇癪持ちだった。
自分の感情を抑えられない。
人間トラブルを子供の頃から起こし続け、それを受け止められない祖母は
長男の荒ぶる様を見て、親の言いなりに良い子になる事で事を納めようと、子供なりの苦肉の策を編み出した父を猫可愛がりした。

その父と結婚する母は、片親の高卒出。
母方の祖母は精神を病んでいた。

祖母は母に面と向かって言ったそうだ、
出来損ないだと。

叔父は叔父で、結婚し婿に入った先の良家の家とうまく行かず、離婚。
都内にいたけれど、寂しかったんだと思う、親を祖父母のことを求めてなのか、長野に再就職。
我が実家に居候。
なので、叔父の滞在中は7人家族。

父は次男だった。
そして、親へ逆らった事が無い。
母である祖母から怒られたことが無いそうだ。

なので、私の実家の人間模様は
半身不随でめっちゃめちゃイライラしている祖父と
それをケア出来ない、かつ叔父とバチバチしたり、母を昼ドラの様な言動態度で追い詰めていく祖母と
この家やばい、と結婚前の顔合わせから思っていた母と
事なかれ主義な父の元に
私が育っていった。

みんな、私には優しかったと思う。

でも、ひとりひとり見ると、魅力もあり未熟さもある大人達が、不協和音を爆音で奏でていた気がする。

文字通りカオス。

ストレスの牙?
流れ弾?
二次災害?

により、
傷が出来たり、
被弾したり、
巻き込まれたりしていた。

3歳頃には、お家怖いから帰りたくない
と隣のおばちゃんにい言っていて

6歳の頃には2歳の弟に、この家に味方はいない。なので出ていきたいと思っている、と話して弟を大泣きさせていた。
泣いて引き留める弟を見て、大人の味方は居ないけど、この子はなんて無害なのだろう、と眺めていたのを覚えてる。

7歳の頃には、TVで地球の環境問題を知って
人間がいなくなれば環境問題が解決するとビートたけしと大竹誠が話していたのを見て
近所の友達に、私は自然が好きだから滅びを選ぶ、と言っていた。

きっと普通に生活する瞬間も沢山沢山あっただろうけど
なんか、色々くらったんだろうなぁ、と思う。

大きな音が嫌いだ。
大人が怒鳴ってるシーン。
食器が割れる音。
ドアがバタンと閉まる音。
喧嘩。
怒っている人がそばにいると、自分が怒られているかのように錯覚する。
失敗が怖い、怒られるのに恐怖がある。

小学校2年の時、この生活が変化する。
いろいろあって、祖父母と別居。

同じ地域のアパートに4人で引っ越した。
近所の友達となんで離れるだろう、と悲しくもあったけど、
学校に行けば変わらないから普通に生活していたと思う。

でも、夜たまに起きると、ものすごい恐怖感と共に周りの音が同じリズムで聞こえて来たりする事があった。
しばらく、怖いのを我慢してると、ふっとそれが消えて、あー怖かった、と再び眠る。
そんなことがあったり、

父と母が喧嘩すると、口の中がカラカラになり、頭のてっぺんから血の気がサーーーっと引いて
動悸と、吐き気がしてくる。
顔面蒼白になる。

怒られる、という事が死ぬほど怖かったし
ごめんなさいという言葉も
ありがとうという言葉も詰まってしまって
うんともすんとも出てこない、そんな子供だった。

10歳の頃、ついに限界をむかえる。
次の日、いとこ達とスキーに行く予定だった
年明けすぐ、1月4日…夜中、突然に吐いた。

予定のスキーには行けず、病院に行った。
その日からだった。
ご飯を食べると吐き気がするようになったのは。

元々細かったのに、みるみる痩せて
10歳で17キロしか体重がなくなった。

病院に行ったら、栄養失調です、と言われ
精神科の受診を薦められた。

丸病棟。

地元の総合病院の精神科は隔離されていて、丸い筒のような形の建物を地元の人はそう呼んでいた。
窓には鉄格子。

子供でも、そこにいる人は、おかしな人で
普通の人は来ないところという認識があった。
私は、そこにいくんだなぁ、とぼんやりと思った。

この飽食の時代に、栄養失調なんて…
と母が言う。
そう言われても、そのひと口が口に入っていかない。飲みくだせない。


ジブリの映画の火垂るの墓を見て怖かった。
その頃の私は、背筋を伸ばしていても、背骨の骨が浮いてしまって本当節子みたいで
節子が栄養失調で死んでいくのを見て、
私の死因も節子と同じなんだな、と恐怖だった。
その頃、死は恐ろしいもので、自分もそうなる気がして、それがすごく怖かった。

だから、結構大人になるまで、火垂るの墓を観るのが苦手になった。

気持ち悪くて夜寝られなくなる事が増えてきた。
拒食症とか、自律神経失調症と診断されていた。

その頃の担任の先生は、子供のころ拒食症を経験していて、
死なずに大人になる人もいるんだ、というのは救いだった。

困るのが、治す方法がない、という事だった。
規則正しい生活をして、と言われる。
でも、気持ち悪いし、食べられないし、寝られないし、
規則正しい生活からどんどん離れていく。

母は何かないのか、方法を探した。
鉱物の成分が混ざったミネラルと言われる1万円くらいする液体をオススメされれば買って飲ませてみたり
どこぞの有難いお札を貰いに行ったり
プロテイン、思えばアムウェイのプロテインかもしれない。
それを親戚が扱ってるから買って栄養補給で飲んだり。

その頃、気持ち悪くなって来たら、頓服薬として吐き気止めに正露丸をよく飲むようになっていた。
あの凄まじい、強烈な臭いが、吐き気を吹き飛ばしてくれていた。
子供ながらに自ら正露丸を常備するようになった。

でも、遠方に家族旅行に行った時、
外食をして、いつも通り気持ち悪くなり、
トイレで正露丸を飲んだ時、効かない、という事が起こり始めた。

もう、パニックになりそうだった。
薬が効かない、そうなった時、薬に依存している自分に気がついて、とんでもなく怖くなり、そこから断薬を決意した。
薬って効かなくなるんだ、薬に依存していたら効かなくなった時パニックになる、と。

精神科に行くと、薬出そうか?
と聞かれる。
要りません、と断った。

普通に小学生をやりながら、そんな綱渡生活。
普通に楽しく遊んでいたと思う。
でも、病気は治ってはくれなかった。

子供なりに試行錯誤した。
食べた後、気持ち悪くなりにくい食べる順序ってあるかなぁ?と。
給食で、パンが苦手なので、コッペパンを潰してミチミチに固くしてから食べる、とか
牛乳も、お腹に入れた後のイメージが嫌で、真っ先に飲み干してから、牛乳はお腹で吸収された!とイメージしてから、食べ出す、とか
友達と何かあって腹を立てて食べた日は気持ち悪くならなかったから、
怒りながら食べてみよう、としてみたり。

小学校の頃、私の目標は
幸せ探しをする、だった。
本気で、幸せ探しをしていたと思う。
幸せを探してないと、もう、やってられない。

●中学生
なんとか1-2年が過ぎて、中学生になり、部活に入った。
本当は新体操をやってみたかったけど、前年の説明会の時に存在していた女子部が廃部になっていた。
覚えてないけど、考えた末に吹奏楽部に入部して、楽器の希望はフルートにした。
人数が多すぎる、誰かオーボエに行ってほしい、と言われ、ジャンケンしたら負けてしまい
1人だけオーボエに。

でも、その頃も具合が悪い事が増えていき、
綱渡生活、夜寝付ける時間が2時過ぎで
吹奏楽部の朝練に出られない事がどんどん増え
登校中にも気持ち悪くなる事が増えて、
学校にたどり着けず
7月には顧問の先生に話して退部した。
唯一のオーボエの一年生だった。
先輩にもものすごく申し訳なかった。

一年生の夏に、帰宅部の生徒って、
ほとんど居なくって。
ああ、自分はできない事が多いなぁ、と
悲しかった。

朝や要所要所である、全校集会。
体育館に整列して生徒全員が集まると思うんだけど、小さい私は最前列、後ろに生徒が埋まっていて
あ、どうしよう、気持ち悪くなりそうかも、と
考えが後頭部をかすめた瞬間から、もう止まらない。

気持ち悪い。

列を抜けて先生に話して、後方の隅に離脱する。
人が多いところも無理になった。

全校集会は、そこから、体育館を見下ろす柔道場にポツンと座って眺めるのがお決まりになった。

1年に1回はあるクラスの写真撮影、
並び始めて、ざわざわして列の調整をしてる時にはもうダメだった。

先生、気持ち悪いです。
もうね、涙が出た。
写真撮る短い時間すら、並んでいられない。

食後の授業も、参加は厳しかった。

クラスの仲が良い方で、キャンプを企画したりすることもあったりして、そういう時も工夫するんだけど、どうしても具合悪くならずに無事に過ごすことは難しかった。

その頃には偏頭痛も始まっていて、
吐き気と偏頭痛のコンボに週3-4日夜苦しんでいた。

普通に楽しめてる時間も沢山ある。
でも、1日3食、食事の時間の不安と緊張状態、必ず来る夜を無事に過ごせるかが怖くて、それが日々に暗さを作り出していたと思う。

いろんな解決方法を探す中で、面白い経験もした。
父の同僚のパーキンソン病を患っている人からの紹介で、なんていうのかな、ハンドパワーのある外国人の治療家さんを訪ねた事がある。
来日した時会いに行き、国内での治療行為が法に触れるため、
その方のお国、フィリピンまで治療を受けに母と2人で治療ツアーの旅に出た事があった。
ツアーは30人ほどで、中学生なのは私だけ。
あとは、みんな末期がんの患者さんとその家族なので50-70代のおじーちゃんおばーちゃんに囲まれたツアーだった。
本人がそれを知っている人もいれば、本人には告知せず、家族が連れて来ている方もいた。

マニラのホテル滞在中、ほぼ毎日治療を受ける。
治療とは、素手で、身体の「中」に手を入れて
悪いものを出す!というもの。

もう、目の前で、
世界丸見えテレビ特捜部みたい!!
という興奮があった。

年配の、がん患者さんの身体からは沢山出るけれど、
私の体からは少なかった。

私も母も、ほんとかな、本当に出てくるのかな?
仕込みではないのかな!!?
手品では?!
と、フィリピンくんだりまで来ているのに疑ってガン見していたけれど、
どんどん取り出されるので、不思議だなぁ!!と治療を受けた。

ある時、旅行中に母が生理が近く、そろそろ来るな、という時、その治療家の先生が
取り出しといたから、今月は来ないよ、
と言い、えー嘘だぁーと半信半疑でいたが、
本当に生理が来なかった。
母はそういうのがものすごくキッチリ来る人なので、こ、これは、本当かもしれない…!
と言っていた。
私は本当かどうか証明が出来ないけど、
世界は広く、色んな事象が存在しているのかもしれないなぁ、と思った。
世界は広い!未知!面白い!と。

以降、未知なる物事には触れてみよう、参加してみよう、
出会った事がない人に遭遇したら、触れてみよう、友人になってみよう、一時の旅の道連れになってみよう、と行動する様になり、私の人生を面白くさせてると思う。

さて、なかなかに長いので
続きはまた。

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