見出し画像

夢見る音楽

「世界の未来は私の手にかかっている」。

統合失調症になった当時のことを振り返り、なぜそのような考えに至ったかの原因についてひとつひとつを思い出すと、自分のバカさ加減にあきれます。

妄想型と診断された私の妄想はまるで空に飛んでいく風船のようでした。風に流されるままあっちへこっちへ、そして上へ上へと進み、上へ向かう程に膨張していきました。そして成層圏にさしかかると、パンパンに膨れ上がった風船はぱちんと破裂してしまいました。

もう絶対二度と同じ目には遭いたくないと思う体験でしたが、あの日々はエキサイティングだったな、としみじみ感じられるぐらいの余裕はでてきたので、「スキな3曲を熱く語る」というハッシュタグも絡めて、いろいろ振り返ってみたいと思います。読みにくい点があったらごめんなさい。


「世界はこんなにも美しい」

世界はこんなにも美しい。

ある夏の日、そんな言葉が胸いっぱいに溢れて、私は泣きながら海岸を歩きました。この歌はその時聞いていた歌です。

見慣れた空や海や雑草がやけに眩しく見える。

この時期に、私は妄想の入り口に立ってしまったと思っています。

今でも聴くと色々な思い出がよみがえる、記念すべき(?)1曲です。

(こちらはその思い出を現す詩のようなもの。)



「その鍵はもうきみのてのひらの上に」

先ほどの「Someplace」もそうですが、ここで紹介する音楽は疾患前からダウンロードしていた音楽で、もともと好きだから聴いていたわけです。

では、疾患中、病識(自覚)がない時に桑田佳祐さんの「明日晴れるかな」を聴くとどうなるのか。(あくまでも私個人の一例です)

奇跡のドアを開けるのは誰?
微笑よ もう一度だけ
君は気付くでしょうか?
その鍵はもう
きみの手のひらの上に

天気もよく穏やかな日でした。人気の少ない電車のドアの隅に立ちながらこの歌を聴いて、私はこう思いました。

「その鍵はもうきみの手のひら」!?

手のひらにはスマホ…!ああ!!そうだったんだ!!!みんなみんな、ここを通じて、私とつながってるんだ!!!!

「みんな」とは、主に有名人のTwitterやマスメディアが届けるニュースのこと。

※やべえ。

当時、私はTwitterでトラブルを抱えてしまい(これは妄想ではない念のため)悩んでいたところ、いろんなタイミングが合わさって、この歌詞全体が語りかけるように聞こえてきて、私個人にあてた特別なメッセージのように受け止めてしまったんですね。※(Repeat)

そして、得体の知れないナニモノか、またはなんらかのソシキが、スマホを持っている全ての人の動向を常に監視していて、実は世界を動かしている。

私はその秘密を知る権利を与えられた「選ばれし人間」だと思ってしまったんでLALALA WOW WOW ※(Repeat)※(Repeat)

この思い込みによって、音楽やメディアだけでなく、目に映るもの全てに対して歪んだ視点を持ち、異常な解釈をするようになってしまいました。

ご興味のある方は明日晴れるかなの歌詞をご検索頂き、あわよくば共感性羞恥心をご堪能頂ければと思います。



2つのラプソディ・イン・ブルー

不思議なもので、これは揺るぎない真実なのだと思えるものをひとつ手に入れると、それを下敷きに普通だったら関連性のないありとあらゆることが次々と結びついて、自分にとっては信憑性を保った大きな物語(妄想)へと変化していきました。

私は秘密を知ってしまった選ばれし人間として、Twitterのつぶやきが自分へのメッセージなのだと思い込むこと以外にも、新聞の見出しやネットのバナー広告、テレビの生放送、ICカードを改札で通した時に表示される残額の数字、疾患前から自分が作っていた音楽のプレイリストの順番さえも、ナニモノかから私に向けられたメッセージなのだと感じるようになりました。

例えば広告だったら「期間限定!お早めに!」とか、「本当にそれで大丈夫?」とか、「出会えてよかった!」とか、「コクがあって美味しい」とか、なんでもいいんですけど、普段だったら気にも留めないありふれたキャッチコピーが、私の一日一日の行動や出来事に対して向けられている言葉のように感じてしまうのです。

ちなみにメッセージ(と勝手に受け止めているもの)に囲まれて常に監視されているような心地で過ごす日々は、完全に妄想にはまりこんでいたかというとそうではなく、ずっと半信半疑でした。

全部ただの気のせいかもしれない。いや本当のことかも知れないそれでもこれは誰にも知られてはいけないことで知られてしまったら大変なことになってしまうし私は何かしなければいけないのかもしれない。そんな思考を繰り返して、少しづつ頭は侵食されていきました。

私の中の物語はどんどん大きくなっていき、今度は私からメッセージをTwitterで送らないといけないんだという思いに駆られる瞬間が訪れました。そのとき選んだのが「ラプソディ・イン・ブルー」を演奏しているある動画でした。

その動画を世界を操るナニモノに見せることで何かが変わる気がしたんです。

もともとは最初にラプソディ・イン・ブルーを好きになったきっかけはその動画ではありませんでした。先にその作品について紹介させてください。

それはディズニーの「ファンタジア2000」という映画です。


ファンタジックな短編作品の数々。音楽と映像だけで魅せる絵本のような世界。その中にひとつだけ現代的な世界を舞台にした作品があります。それがファンタジア2000のラプソディ・イン・ブルーです。

ゆるやかな低音のビブラートから始まるクラリネットの音色に合わせてのびる1本の線。するとたちまち都市が現れ、その一角で寝坊をした男性が飛び起き、そこから同じ都市で暮らすいろいろな立場の人のドラマがコミカルに展開していくのですが、それが見事に音楽にマッチしていて面白い!

この作品は12分程度であっという間に終わってしまうのですが、もし初見で観るならYouTubeなどではない正規ルートでファンタジア2000全体を楽しむことをおすすめします。絵がきれいな方がいいし、他の作品との差で際立ってみえるような気もするので。

そこからラプソディ・イン・ブルー好きになった私は、ある日、YouTubeでもう一つのラプソディ・イン・ブルーを見つけ、思わずクリックしました。21分もありますが、よろしければご覧ください。


私はこの動画が本当に大好きです。私が見ていたチャンネルのものは一度消えてしまったのでそのときDVDを買いましたが、DVDが手元にあることを嬉しく思います。

この動画をTwitterに貼り付けた時、私は何かひとつ成し遂げた気持ちになりました。

そしてその数ヶ月後、風船は弾け飛びました。


幻想という名のガム

私の妄想が紡いだものは「世界はこうあるべき」という主観にまみれた世界でした。それは徐々にほころび、自分の汚い部分を見つめざるを得なくなり、逃げ場を失って、最終的には「自宅に核爆弾が落ちる」というバッドエンドを描くことで幕を閉じることができました(=入院)。

〜入院までのあらすじ〜
自分のせいで自宅に核爆弾が落ちるかもしれない状況になってしまった。また、世界はナニモノによって乗っ取られることになってしまった。自分しか知らないこの事実をどうすればいいのかと焦るなか、家族はいつも通り仕事に出かけようとする。ドアを開けた瞬間にナニモノたちに家族が連れ去られてしまうと思った私は、家から出ちゃだめ、と引き留める。また、テレビをつけたら核爆弾が作動するから、点けてはいけないと家中のリモコンをかき集めて取り締まった。そこで家族が異変に気付き、病院に問い合わせる。私は頭が覚醒状態で眠れなくなり、スマホを握りしめながら徐々に衰弱。心身ともに限界が来たこと、そしてやっぱり自分はどこかおかしいという感覚も残っていたため、朦朧としながら医療保護入院を了承。


私が先ほど紹介した音楽を思い出してみてください。なんてピュアで勇気づけられ、夢のある音楽でしょう。(もちろん人によると思いますが)

皮肉なことに、入院後、正常な脳に戻そうと、学んだり服薬して療養すればするほど、そうやって無邪気に好きと思えていたものたちはすっかり色褪せていきました。

全部全部自分の思い込みだったんだ。

テレビの中の人たちの発言や行動、テロップに不安を感じたことも思い込み。お気に入りだった歌や作品に鼓舞されたのも思い込み。私とぜんぜん関係なかった。あれも、これも、全部。

以前は大好きだったテレビが空々しい。

以前は心をカラフルにさせてくれた音楽が、プログラムのコードみたいに淡々と聴こえてくる。

みんな味のしなくなったガムみたい。

口の中に残った塊は、自分の事を選ばれし人間だと思っていたおぞましさと、この世で何もなし得てなどいなかったイタすぎる自分でした。



怪我の功名とは言われたくないけど

入院してからは、現状を受け入れることで手一杯でした。心も時間も喪失感を感じる日々。病気になったことはとても喜べることではありませんでした。しかし一つ、よかったな、と思っていることがあります。

実はバッドエンドを迎えたとき、あまりのストレスで妄想だけでなく現実の世界の私の感情も一緒に爆発することになったんですよね。

それは、私が疲れ切って寝込んでいたそばで、家族がこんなことになったのはあれが原因だったんじゃないかと、ああだこうだとヒソヒソ話しているのが聞こえてきた時です。

その内容がすごい見当違いで。私が今まで隠していたんだからわかるわけないのに、何かいろいろと言っていたのですが、それがとても耳障りで、朦朧とした意識の中でも、いえ、だからこそなのか。次第に腹の奥底に溜まったマグマがボコボコと活性化し、止められなくなり、つい、ぐおーっと起き上がって、ふざけるな、私はこれのせいでこんなことになったんだー!!!と、デスボイスのような声で叫んでしまいました。

それは、私個人が家族に対して今まで我慢していたことでした。

言った直後に母に泣きながら「ごめんね」と言われました。私は今度こそ本当に燃え尽きて、ふたたび朦朧としながらベッドに入り、そして、ついに言ってしまったあの言葉が招く結果は、この程度で済むことだったんだな。そう感じながら眠りました。

1年かけて育てた妄想と、30年近く我慢してきた感情が、一緒に弾け飛んだ日、前者は自分自身への不信を与え、後者は家族に対してひっそりと、しかし着実に積み重ねてきていた不信を解放するきっかけになりました。

家族に対する不信の解放は、退院して社会復帰した今も、じわじわと現実の私の世界を変えてくれています。

解放されたことによって、無意識に積み上げていたさまざまなこだわりに気付ける視点が生まれ、そのひとつひとつに対して自分自身で疑問が持てるようになりました。

どうせなら病気にはなりたくなかった。これは今でも思っています。

でも、病気によって我慢していた言葉を想定外に「言わせてもらった」ことは、自分にとってとても重要な経験になったと思っています。

もし病気になっていなければ、我慢していたことは我慢していていること自体自覚できないまま生活していたと思うし、それは現実の世界で別のバッドエンドを招いていたと思います。今気付けていることには気付けていなかったと思います。

風船は割れたけど、殻は破れた。そんなかんじです。


思い込みだと切り捨てずに納得を大切にしたい

病気になったことで、自分は思い込みが強い性質があったことを知りました。また病気が再発しないためには、この事実を事実として捉え、常に意識することが必要です。

でも、なんというか、そのことを意識しすぎると、考え方がシニカルになりがちなんですよね。全部思い込みなんだから、自分ごときが今更何をしたってなにも変わりはしないとか、全てを疑え、といったような。

実際に、私はそういう気持ちに時々苛まれる時があります。だけど、そういう時、先ほど紹介したラプソディ・イン・ブルーの動画を観ると元気がもらえるんです。

病気になる前の自分の考え方って、すごくお花畑だったなって思うんです。退院してしばらく、自分が夢見ることは間違いだったんだと否定された気がしました。でも、あの動画を観ると、夢見ること自体は、別に悪いことじゃないんだって、また思わせてくれるんです。

観るたびに新たな発見があって、全てが見どころなのですが、最近はピアノを演奏している男性が、自分の手元や周りの景色が見えていないのに、集まった人を魅了する演奏がなぜできるのかについて考えると、すごく穏やかな気持ちになるんです。

そして、ファンタジア2000のラプソディ・イン・ブルーとも、なんか妙にリンクしている気がするんですよね。あっちは想像だけど、こっちは実際にあったことだよ、みたいな。

「妙にリンクしている気がする」という感想って、めちゃめちゃ主観ですよね。また私の思い込みかもしれません。でも、思い込みかもしれないという事を怖がって、咀嚼しないでぺっと吐き出す前に、しっかり味わったっていいですよね。

なぜそう思うのか、ちゃんと味わって、これはガムだった。スルメだった。と、納得するまで噛めば、消化不良にはならないんじゃないでしょうか。また、さまざまな出会いで、一度結論づいたものが、ちがう味わいに捉えなおすこともあるでしょう。

とにかく、怖がらなくていいんだと思いたいです。

また、好きなことを楽しめる方へ、それはとてつもなく素晴らしいことだと言いたいです。


私の振り返りを交えて、紹介した音楽が気に入って頂けたら幸いです。

ここまで読んで頂き、ありがとうございました。





この記事が参加している募集

#思い出の曲

11,278件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?