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いきものがかりの描く"月"の両義性

最近、いきものがかりにハマっている。

これは当然、生物を育てるのに夢中になっているという意味ではなく、吉岡聖恵さんをボーカルとするアーティスト「いきものがかり」の曲をよく聴いているということである。

「気まぐれロマンティック」「じょいふる」のように、ポップな国のちょっぴり我儘なお姫様が無邪気に歌うような愛らしい歌を書いたと思えば、「ありがとう」「帰りたくなったよ」のように、人間誰しも根源的にもつノスタルジーを刺激するハートフルな歌を出し、「秋桜コスモス」「真昼の月」のように、美しい情景と切ない想いを重ね合わせて叙情的に歌い上げる。彼らはいきものがかりという名に恥じぬ、多種多様な「心のいきもの」を歌に閉じ込めた素晴らしいアーティストである。

特に、最後にあげた二つは山下穂尊さんが作詞作曲したものであるのだが、私はこの人の書く歌が好きだ。なんと言っても言葉遣いが美しい。日本語の持つ奥深さと透き通った感性を存分に活かしており、歌詞を読んでいるだけでありありとその状況が、心情が目の前に浮かんでくるようである。

残念なことに、すでに山下穂尊さんはいきものがかりを脱退し芸能界も引退されているが、これからも色褪せずに名曲として多くの人の心を動かしていくのだろう。


さて、私はいきものがかりを聴く中で最近、山下穂尊さんが「月」というものに対して非常に繊細な解釈をされているのではないか、と思いついた。

月は太古より、人々の心を様々な形で動かしてきた。日本においても、多くの和歌で月が題材とされているを思い浮かべられるだろう。「お月見」という言葉もある通り、人間にとって最も身近な天体は私たちに様々な感情を与えてくれる。

そんな月を描いた「月とあたしと冷蔵庫」「真昼の月」という2曲。どちらも本当に大好きな曲だ。だが、この2曲に現れている月は私たちに全く違った面を見せる。


優しさ––––「月とあたしと冷蔵庫」

「月とあたしと冷蔵庫」。夜中に起き出してしまい、ひとりぼっちで自分や将来に悩み鬱屈とする「あたし」。窓の隙間からふと見えた満月が、なんだか自分のことを受け入れてくれたように感じられて、自分の中の弱い部分(=冷蔵庫)も全部ひっくるめて、等身大のあたしを受け入れて行こう、と前向きにさせてくれる優しい歌だ。

(本旨に関係ないのでさらっと流す程度にしておくが、この曲の素晴らしい点は、なんと言っても「月と冷蔵庫」ではなくて「月とあたしと冷蔵庫」なところである。情景的に美しいだけでなく、この中間に挟まれている「あたし」には、自分自身をメタ認知して受け入れようとする姿と、どちら側にも揺れ動く繊細な心を的確に表していると思うのである。)

暗い夜を優しく照らす光は、人々に安心感を与える。かつて街灯がなかった頃は、月の光が出ていると、これで夜も安全に歩ける、と安堵したようである。

「秋風にたなびく雲の絶えまより もれ出づる月の影のさやけさ」(左京大夫顕輔)

十五夜。うさぎの餅つき。
月は私たちに、確かに寄り添う存在感を与えてくれるのだ。

(ただ、その存在感は時に人に奇妙な印象を与えることもある。狼男が満月の夜にその本性を表すように。)

窓の隙間に見上げた黄色い満月は
あたしに気付かないフリして雲に隠れた
君がそこに居るんならあたしは歩けるわ
「か細く漏れる光、あたしを照らしてくれ…」って

月とあたしと冷蔵庫

語りかけた三日月は一段と澄んでて
当たり前のように今日も笑ってくれた
閉じかけた窓から覗いた光の粒が
少しだけ躊躇したあたしを包んでくれる


儚さ––––「真昼の月」

後者「真昼の月」について、あまり知名度は高くないのだが、個人的にはいきものがかりの中でも1、2を争うお気に入りの曲である。まず歌詞の美しさが尋常ではない。


例えば、この一説を見て欲しい。

「巡る四季の中誰を恋ふて 一人夕凪に指を這わす」

真昼の月

何と情緒深い趣のある言葉なんだろう!
この一文を見るだけで、ゾクゾクと鳥肌が立つ。

ずっと恋焦がれ気持ちが一向に進まないのと裏腹に、四季は忙しく巡っていく。こんなに自分が苦しんみながら待ち望んでいるのは、他でもないあの人のため。

あの人がかつて来ていた夕凪の時間帯。絶対にそんなことは起こりえないと分かっていても、あの人がまた私のところに来るのではないかと錯覚し、つい虚空に向かって手を伸ばす。その力ない手は、まるで夕凪––––止まったままの自分の思い––––を這わせてなぞっているかのようだ。


自分もこんな風に美しい情景を形どってみたい。一つ一つの言葉が生き生きと躍動して、次から次へと情緒を生み出す文を自分も生み出してみたい。そう思わせる卓越した筆運びである。

もちろんこの部分以外にも素敵な歌詞はたくさんあるので、ぜひ全部に一度目を通してみて欲しい。
https://www.uta-net.com/movie/88308/



さて話が逸れてしまったが、この曲において月は儚さの象徴である。
月の光はか細い。そこに確かに存在しているはずなのに決して手は届かず、雲に隠れると消えてしまう。

空と同化した昼間の月は、透き通っていてまるで夜から飛び出した亡霊を見ているかのように感じる。

有明の月。待宵の寂しさや別れの辛さの象徴。
阿倍仲麻呂は、月を見て故郷を思い出し涙する。

「月見ればちぢにものこそ悲しけれ わが身一つの秋にはあらねど」大江千里

日本人は、散り際の桜のように、儚いものに美しさを見出してきた。月もまた同様である。


実は以前に、Noteでこの曲をオマージュした小説を書いているので、そちらを読んでいただければ、ある程度個人的な解釈を分かっていただけるのではないかと思う。

真昼の月の光を浴びても
言の葉の如く消えてく幻
伝う涙は今宵も綺麗で
とめどなく溢れては消える調べ

真昼の月

(↑個人的に割と気に入っているので、まだ読んでいない人はぜひ読んでもらえると嬉しいです…!)



人間を古くから魅了してやまない月。
その月の両面性を見抜き、かくも鮮やかな言葉で飾ったいきものがかり。

ふと、窓の外を眺めてみる。
雲ひとつない空で独り笑う、腹の出た下弦の月。

それを見た私は、皆は一体何を思うのだろうか。


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