見出し画像

【短編小説】 真昼の月

死神かと錯覚する忌まわしき鶏の鳴き声が、今日も独りの私に、残酷な朝の訪れを告げる。夜中濡らした袖はもはや乾きはじめ、ただ私の体に重たい絶望の余韻を残すばかりだった。
もう何度も期待を裏切られてばかりなのに、頭では考えるのをやめるべきだと分かっているのに。こうして憂愁の暁を迎えるのは一体幾晩目だろうか。

あの方とお会いしていない間に、私を優しく抱き寄せる腕の感触も、体中に甘く沁みる柔らかな声も、次第に記憶から薄れて靄をかける。それでも、互いに紡ぎ出した幾首もの甘美な戯れ言の一つ一つを、今でも空んじられるほどにくっきりと記憶している。

そして私は今日も、とめどなくあの方へ思いをこぼし続ける。決して届くことなく浮遊し消えていく思いは、ただ有明の月だけが聞いているようだった。

ーーこうなったのも、全部あなたが自分でそう望んだから。そうでしょう、あの方にとってはそれが一番の選択だったの。仕方がないじゃない。

自分に言い聞かせながら、右頬に一筋の涙が垂れる感触を感じる。
きっと、この曙光が照らす雫の宝玉は、この上なく綺麗に違いないのだろう。


あの方は、元々自分と一緒にいられるような身分の方ではなかったのだ。
帝の跡取りとして宮の中でも尊敬の眼差しを集める方と、自分のような賤しい身の者が逢瀬を果たしただけで、有難いと考えたほうが良いのかもしれない。

私のことを垣間見る好気の視線を感じたときは、よもや相手が皇子などとは予想だにしなかった。所詮私はまだ入ったばかりの青女房、いつも先輩方に詰られつつ雑務をこなす日々であったのだから。

翌日以降、私のもとに手紙が届き始めるようになり、初めてその方がどなたであるかを知った。

「あなたのことをひと目見て走ったときめき。もし幾野を超えて天橋立に踏み入れたときは、きっとこのように思うのでしょうね。このような出会いを果たせたのは、幾世も前からの運命に違いないのです」

あの方の筆さばきの巧みさ、聡明な言葉一つ一つの煌めき、そして私に向けられた胸のはじけるような耽美な愛。

このような奇跡が起こることがあるのだろうか、と私は何度も狐に化かされているのではないかと自らを鞭打った。こんな不釣り合いの恋など成立するわけが無いだろう、と。
だが文のやり取りを重ねるうちに、だんだんとこれが現実であるということを実感するようになった。

「僕はあなたと出会ってから、あなたのいない日常を過ごすのが苦しくて、まるで桜の花が散ってしまった後のように感じられてしまいます」

「あなたは、僕のことをただの浮気者だと思うのでしょう。けれども、私のあなたへの愛は、杉の木が年輪を刻むように、永遠に広がっていくばかりなのです」

私のつれない返事に対しても何度も何度も真っ直ぐに愛を伝える姿勢に、半信半疑だった心はすっかりと溶かされ、いつしかあの方からの手紙を待ちわびるようになっていた。

そして、ついにある晩、あの方は私の部屋に訪れた。
その時の幸福が何たるやは筆舌に尽くしがたい。普段、簾の奥で足音を聞くことしかなかった憧れの方と、こうして今肌を触れ合っている。暗がりで朧げな輪郭の整ったご存顔が、私に微笑んでいるのが分かる。耳元で囁く言葉が私の脳をとろけさせ、そのままあの方の支配下に堕ちていくような悦を感じる。あのまま鶏が私達の間を引き裂かなければ、幾日だって二人だけの濃密な時間を味わい尽くすことが出来たのに。

そして私達の逢瀬は3回目を迎え、私はあの方の妻となった。
けれど、分かり切っていたことではあるが、それは望んでいたような生活とはかけ離れていた。

なぜ、私のような未熟者があの方と付き合うことができるのだ、だったら私の方が。女房たちの嫉妬は私へのいじめを加速させた。
おまけに、あの方のように高貴な身分のものが賤しい人を妻としたなどとなっては、宮全体の不信感に繋がりかねないのだとか。姑をはじめ多くの人々に、正妻を別に取るべきだ、と説得される日々。

私の味方は誰もいなかった。
唯一、あの方だけは、心の中では本当に私といたいと思っていたと信じたい。けれども、もうあの方の迷惑になりたくなかった。疲れたの。私と一緒にいることで、あの方が迷惑を被るのであれば離れてしまってもいい。ただ、私はあの方が素敵に生きている様子を遠くから眺めることができればそれで良い。

私の気持ちを伝えたのが影響したのかどうかは分からないが、その後すぐに、あの方は格式高い家の娘と結婚し、正妻として取ることを決めた。


これが最後の晩になるだろうと悟った私は、暗がりで後ろから私の手を握るあの方に、少し投げやりに言った。

「きっと、あなたは私のことなんて忘れてしまうんでしょうね。なにしろ、あなたは天上の雲よりも高い存在で、私など霞のひと粒に紛れてしまうのですから」

彼は、私のことを深く包容した後、こう言い残した。

「きっと、いつかあなたのもとに戻ってきます。愛する人どうしが最終的に同じ場所に返ってくるのは、太古の常ですから。だからそれまで決して私のことを忘れないでいてください」

この言葉が、私をその後永遠に苦しめ続けるものだとは知らずに。


それを最後に、あの方が私のもとに来ることも、手紙が届くことも一度たりともなかった。
燃え上がるような恋には限界があることは知っている。それが身分違いの無謀な恋であればあるほど、その先の結末は願ったものにはならない。

でも、あの方の幻が私の胸から消えることがない。
もはや呪縛となって私を痛めつける亡霊にそそのかされ、今日も夜を明かしてしまった。いつか、あの方が約束どおりに私のもとに現れるのではないかと願って。夢の中でさえ会うことができればと願っても、暁の光が再び私を醜い現実の中に叩き落とす。

私はこうして、終わりのない待宵を続けているのだ。


気づけば淡く明るい空に、場違いに月が姿見を映し出している。

ああ、私はあの方と別れる時に、決してわがままは言わないと決めたはずなのに。あの方が幸せに生きているのをどこかで信じていればそれだけで良いと思っていたのに。

今はただ、会いたい。
あの私のためだけに織り成された麗しい言葉で、私の干からびた心を潤してほしい。
お願い。もう世界の他の何もいらないから。その後自分がどんなにひどい目に合っても構わないから。
今一度だけ、あの方の横に身をうずめさせて。



ただ徒に紡ぎ出された調べは、真昼の月に吸い込まれて消えていった。


※この小説は、いきものがかりの楽曲『真昼の月』のオマージュです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?