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自己嫌悪は「祭り」、不機嫌は「パレード」

自分の機嫌が悪いときとか、とっても気分が落ち込むとき。
そんな時こそ、ささやかなユーモアを持っていたいの。




ここ数年、どうにも自己肯定感が低い。

最初に気分が落ちていった頃は、一時的なものだと思っていた。
だけどどうしたものか、低い自己肯定感はすっかり慢性化した。


自己肯定感という資産が底を尽きると、自己嫌悪に蝕まれて自分が内部から浸食されていくような孤独の時間が、不定期で訪れるようになる。

一度自己嫌悪に溺れてしまうと、しばらく何にも集中できない。
やらなきゃいけないことも手につかないし、好きなはずのことをやっても楽しくない。

全てやめたくなる。
ところが、何もしていなくたって、心身の内側から巻き起こる負の洪水のせいで、じっとしていられない。


はっきり言って地獄だ。
自己嫌悪で何もできなくなる夜とか昼とか朝とか。

そんな状態を、私は「祭り」と呼ぶことにした。


別に、「祭り」という呼び名に深い理由はない。
そう呼ぶようになった経緯といっても、「ああ、また自己嫌悪だあ」「自己嫌悪祭りだー、うわあああ(自暴自棄)」程度のこと。
たまたま思いついた「自己嫌悪祭り」というフレーズから、縮めて「祭り」と呼ぶことにした。

まったく、何と愉快な単語ですこと。
言葉から溢れ出る雰囲気が、一瞬で優しくて楽しい方向へ少しだけ傾いた。
実際、その中身はただの自己嫌悪なのだけれど。

ただ、最悪の精神状態を「言い換え」で少しでも滑稽にできないかという、私なりの小さな工夫。



さて、こうして私は自己嫌悪のことを「祭り」と呼ぶようになったのだが、嫌な気持ちになるのって、自己嫌悪に限った話ではない。

自分は悪くないとき。誰かの悪意に触れたとき。何かしらのとばっちりを受けたとき。やたらとついてないとき。どういうわけかもうなんもうまくいかんとき。
そういう、自分を責めるわけではなくても、ただただ機嫌が悪くなっちゃうことだってある。

私の場合、その頻度は自己嫌悪と比べるととても少ないのだけれど、こちらもやはり良い状態ではない。
「こんなことでずっと腹を立てていたって、何にもならないだろうな」
そんなときは、また言い換えの術の出番。


私はただ不機嫌な状態を、こちらは「パレード」と呼ぶことにした。


別に、「パレード」という呼び名に必然的な理由はない。
自己嫌悪が「祭り」なんだから、じゃあこちらは「パレード」にしよう。
たったそれだけ。



本当は、日々の暮らしに全力を出して成果を出せていれば、自己嫌悪になんて陥らないのかもしれない。
不機嫌にならないように、他人の悪意には鈍感かつ、自分の危機には敏感でいられたらいいのかもしれない。

ただ、そんなのははっきり言って無理がある。


結局、嫌なものや精神衛生の良くない状態を避け続けることなんて不可能だし、蓋をして抑えつけることだってできない。
だったら、別の愉快な名前を与えて、威圧感をなくして、からかってやるくらいがちょうどいい。

立派に牙剥いて私の心に襲い掛かってくるけれど、所詮はそういうものなんだよ、おまえらは。
「祭り」とか「パレード」とか、呼ばれてるのがお似合いだわ。
柄でもないかわいいお花の髪飾りとかリボンとかつけられて膨れっ面してろ、心の闇。




私の価値観では、考え方や表し方の変換が、かなり信頼できる技術ということになっている。
それこそ「ものは言いよう」を座右の銘にしたいくらいだ。

そして中でも、嫌な経験や気持ちをポジティブな方向に変換して、ギャグっぽくするということ。
これは自分自身にしかできないことだと思っている。

だって、誰か他人に茶化されたら余裕で不快になるもの。
私のつらさを実際に経験したわけではない人にそんなん言われても、さすがに受け入れられない。

だから、これはその人自身だけができること。

真剣に相談に乗ってくれる人だったり、穏やかに慰めてくれる人だったり、冷静にアドバイスをくれるような人はいるかもしれない。
けれど、他人の痛みを勝手に楽しく脚色できる人間なんて、「味方」にはいない。

悲しさや苦しさを映す喜劇は、描ける人を選ぶ。
それだけ、とても貴重でパワフルなものだと思うんだ。


本当にしんどい局面で、「気楽に行こうよ」みたいなメッセージを含む言葉は、他人よりも自分にかけてあげるものであってほしい。
自分相手なら、その言葉が相手の真剣さを踏み倒してしまう暴行になってしまうことはないのだから。


だから、自己嫌悪は「祭り」、不機嫌は「パレード」。
どうしようもない負の力をもつものを、言い方だけでも面白可笑しく言い換える、私の小さな抵抗。


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