めちゃくちゃ部屋を掃除してみた

一億年ぶりに、めちゃくちゃ部屋を掃除してみた。
普段裸眼で生活してるが、仕事から帰ってきてコンタクトのまま掃除を始めた。

きっかけは、会いたいなと思ってる人を家に呼ぼうと思ったから。「〇〇ちゃんの家行ってみたい!」と言われたのが前回別れた時から心残りだった。

しかし、人を家に呼ぶために掃除しよう!と思って過去にできた試しがない。今回もどうせダメだと思った。どうせ、見えるところだけ綺麗にして終わる。埃も髪の毛も水回りも適当にカモフラージュして、一見綺麗なんだけどなんか隅々は汚らしいまま、その人が帰ったらまた汚部屋に戻るだろうなと思ったら嫌になってきてしまった。

私って、パッと見た感じ適当人間らしいのだ。全然間違ってはない。でも部屋まで汚く適当だったら、あまりにもギャップがなく面白くない人間である。

25歳という年齢になって、外見の綺麗さも大事だけど内面の尊敬できるような泥臭くて真面目な部分がないと年々面白くない人間になっていくなと感じていた。自分が自分を嫌いでつまらない人間だと思う理由は、こういう掃除とか意味がなく苦手なことでも地道に努力するような、人として尊敬できるポイントが人間性において皆無なところだと気づいた。

会いたい人に会おうと誘う勇気も出ないのは、単純に部屋が汚いからではなく、見たまんまのつまらない人間だと思われるのが怖いからだ。だらしなく、適当。私がいくら外面が良くても飽きられるのも時間の問題だと思う。

部屋に呼ぶ呼ばないは別として、一旦つまらない人間をやめたくなった。普段気にもしないところまで掃除したら新しい人間に生まれ変われる気がした。誘ってから片付けるのではなく、誘う前に心ゆくまで片付けてみることにした。

まず、散らかったものをひたすら拾って元の場所に戻したり、ゴミを選別して捨てた。
次に掃除機を隅から隅までかけ、棚の埃を全てクイックルワイパーのシートで拭きあげた。

頑張って一気にやるのではなく、その行為自体を楽しんでみた。埃を拭いて、埃の被っていない状態にする。すると自分が頑張って働いて購入したモノ達、家賃を払い続けているこの家の輪郭が初めて鮮明に見えてきて、今まで自分が築いてきた暮らしをこの手でなぞっている感覚になった。

私が生きていて苦しいのって、せっかく築いた生活を蔑ろにすることで、誰よりも自分自身が自分の頑張りを無視してきたからなんだなと思った。とにかく他人に評価されたいから、家の中なんて誰にも見えないところはどうでもいいと思っていた。しかしこの家具も、家電も、服もコスメも全部私の労働の対価で買ったものであり、誰かの膨大な労働が詰まったモノである。頑張って働いたお金でろくに考えずに買い、埃まみれにし、汚れてきたら嫌悪感で目を背け、限界が来たら手入れせず捨て、また新しいものを買い、、、そのサイクルの中で自分を嫌いになっていくのは当たり前だった。

また、細かい部分を無視して体裁だけ整えることは仕事や人間関係で感じる苦しみの全てに繋がっている。違和感を見ないようにして流されて気づけば崖っぷちにいたり、反対に人からの危険信号に気づかず信用を失ったり。全ての苦しみはこの掃除ができない自分と数珠繋ぎであることは間違いない。埃が積もれば拭いてやる、この先どんなにテクノロジーが進化しても、人間は人間でいる限りそんな地道な作業を通して自分自身と向き合い続けなければならないだろう。

仕事をしていて常に時間がないのは事実である。帰宅して22時で、どこの誰が棚の埃を拭く元気なんか出せるもんかと言いたい。今日はたまたま早く帰れただけだ。
しかし生まれて初めて、掃除の意味を実感できたことは大きいかもしれない。掃除が好きになったかもしれない。なってなくてもそう言い聞かせていくことは大事である。

まだ全部終わってないので、明日は水回りをがんばる。この家を私の劣等感の象徴ではなく、清潔な安全基地であると思える日々が来ることを期待したい。

おしまい


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