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~平泉~【世界遺産を色んな角度で見てみよう⑧】

こんにちは!永高の中学受験部屋です。第8回ですね!

世界遺産記事のマガジン連載はこちらからご覧ください。

今日ご紹介する日本の世界遺産は「平泉ー仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」です。
2011年に文化遺産として登録されています。

なんで登録されたの?

毛越寺

「平泉ー仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」は、岩手県南部の内陸部に位置し、11世紀末から約100年の間、奥州藤原氏の本拠地として栄えたところにあります。奥州藤原氏が築いた中尊寺、浄土庭園がある毛越寺をはじめ、無量光院跡、観自在王院跡、金鶏山などで構成されており、平安末期の百年間に、都の文化を受容しながら独自に発展させた仏教寺院、浄土庭園など、華麗な黄金文化の遺産群です。

11世紀の東北地方は大きな戦乱が続いていました。奥州藤原氏の初代清衡(きよひら)は、この戦乱で亡くなった人たちの魂が仏の住む浄土に導かれるようにと中尊寺を建てたといわれています。この浄土思想は、2代基衡(もとひら)、3代秀衡(ひでひら)にも受け継がれました。

世界遺産登録に当たっては、平泉は浄土思想に基づき、現世に浄土(仏国土)を空間的に表現したものとして評価されました。

中尊寺金色堂

金色堂

中尊寺にある金箔などで飾られた阿弥陀堂で、国法第1号。
同じく極楽浄土を表した阿弥陀堂としては、京都の平等院鳳凰堂が有名です。

知っておきたい歴史知識

平安時代の基本的な知識を確認しておきましょう。

藤原氏の繁栄】
 藤原氏は、娘たちを天皇の后にして、その皇子が皇位につくと、摂政や関白をはじめとする、朝廷での重要な官職を一族で独占しました。また、役人の任命にも影響を及ぼすようになっていきました。藤原氏によるこのような政治を摂関政治といいます。藤原氏は、11世紀初め道長と、その子頼道の時に最も栄えました。
【浄土信仰の広まり】
社会が乱れ、末法思想によって人々が不安を持つようになると、念仏を唱え阿弥陀仏にすがって死後に極楽浄土に生まれ変わるという浄土信仰が広まりました。各地に阿弥陀堂がつくられるようになり、藤原頼道京都宇治に建てた平等院鳳凰堂はその代表例です。
【院政と源平の戦い】
院政期から鎌倉時代までの流れを年表で確認しましょう

11世紀半ば 東北地方前九年の役・後三年の役がおこる
→この後三年の役に東北地方で勢力を伸ばしたのが奥州藤原氏です。
1086 白河上皇院政を始める
1156 保元の乱(天皇と上皇の対立)
1159 平治の乱(保元の乱の勝者・源義朝vs平清盛)
1167 平清盛太政大臣になる
   日宋貿易を行う
1185 平氏滅亡(壇ノ浦の戦い)
   守護・地頭の設置
1192 源頼朝征夷大将軍に任命される

実は、壇ノ浦の戦いで活躍した源義経は、頼朝が挙兵するまでの6年間を平泉で過ごし、戦いの後もこの平泉に戻ってきます。

義経は平泉にいるところを攻められ生涯を終えますが、このとき弁慶という義経の一番の家臣が、立ち往生で全身に矢を受けながら、最期まで義経をかばったという伝説があります。

「弁慶の泣き所」などは、この弁慶にまつわることわざですよ。

終わりに

いかがでしたでしょうか。
平安時代の戦乱などは、苦手に感じている人も多いかもしれません。
そんな時は、歴史マンガもおすすめです。
マンガは、出来事がストーリーとして頭に入るだけでなく、登場人物の関係性や人柄も忠実に再現されていることが多いので、想像以上に情報を得ることができ、身につきやすいです。

気になる方は試してみてください!
歴史が面白いと思えるようになれば、どんどん得意になると思います!


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