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起業するなんて思ってなかった人生(自己紹介) | 社会起業家原口瑛子

はじめまして、原口瑛子です!まずはここに辿り着いてくださってありがとうございます!

私は現在、西アフリカにある内陸国ブルキナファソ(以下、ブルキナ)という国で、一人新しいソーシャルビジネスに挑戦しています。

ここブルキナは最貧国のひとつと言われ、さらに近年は過激派のテロが多発、避難民が急増しています。そんなテロの影響を受ける女性たちに仕事を創りたい、そう思いこの地にやってきました。

そんな私は学生時代から「起業しよう」と思っていたわけではありませんでした。タイトル通り、起業するなんて思ってなかった人生。

ではなぜ、一人アフリカに渡り起業するに至ったのか…?せっかくなので幼少期からの自己紹介もあわせこれまでの人生を振り返ってみます。略歴にない "点と点" を感じていただけると幸いです。

<略歴>
2008年 早稲田大学政治経済学経済学科卒業
2009年 英国サセックス大学 開発学研究所 貧困と開発修士課程修了
2010年 国際協力機構(JICA)入構
2015年 ボーダレス・ジャパン ジョイン
2017年 ビジネスレザーファクトリー代表就任
2022年 ビジネスレザーファクトリー代表退任
2022年 ボーダレス・ブルキナファソ代表就任


1. 幼少期〜海外接点ゼロのシャイガール

熊本県出身。海と山に囲まれ静かな田園風景が広がる風光明媚な町で生まれ育ちました。海外との接点はゼロに等しく、世の中で起こる出来事は私にとって、遥か遠い違う世界のことでした。

家族は両親と兄一人の四人家族。社交的な兄の後ろに隠れ、人と話すのが苦手な性格。保育園ではお友達が楽しそうに歌や踊りをするのをすべり台の上から眺めていました。究極のシャイガール。

地元の風景

2. 小学生〜私じゃなくてもいい…でも

小中高ともに地元の公立に行き一貫してバスケ部に所属。ちょうどジャンプでスラムダンクが大流行している頃です。ちなみに家族全員バスケ部なので家の庭にはバスケットゴールがあります。

幼少期、親が心配するほどシャイガールだったのに、なぜか学校という小さな社会生活では、委員長やキャプテンなど、いわゆるリーダー的な役割を担う機会が多くありました。

そんな時はいつも心の中で感じていました。「私じゃなくてもいい」と。そもそも、その役割が好きではないし、得意だとも思っていない。でも、その言葉には "続き" があったように思います。

「私じゃなくてもいい…でも誰もやらないなら私がやる」。自分が好きだとか得意だとかよりも、人にとって必要ならばやる。そして、自分でやると決めれば、責任をもってやる。以上。

でも元来の性格からか、強いリーダーではありませんでした。人のことを考え過ぎていつもご飯が食べられなりました。その頃から心身ともに弱くそれは今でも変わっていないように思います。

3. 中高生〜一枚の写真で志を決める

中高生になると、勉強に部活に忙しく、学生らしい充実した日々を送っていました。でも、将来の夢が描けず、悩んでいました。そんな私の転機となったのは、高校生の時に出会った一枚の写真。

ケビン・カーターの"ハゲワシと少女"という写真。衝撃を受けました。日本人の私は不自由なく未来を選択できる一方で、地球の裏側では貧困や飢餓に苦しみ未来を選択できない人がいる。

同じ地球で同じ時代に生きる同じ人間なのに。言葉にできない憤りを感じました。そして私の志が決まるのです。「世界の貧困をなくしたい」と。

(c) Kevin Carter / Sygma

4. 大学生〜ゴミ山で覚悟を決める

貧困を理解するため開発学を学びたいと大学は経済学部に進みます。しかし未熟な私にとって黒板に並ぶ経済学の数式は無機質で、現実に起こっている貧困問題と繋がらず消化不良になりました。

百聞は一見に如かずとバイト代を一生懸命貯めて現場を見ることに。「ボランティア 海外」と検索して見つけたアジアの孤児院支援をするNGOに参加することにしました。18歳のころのこと。

その時に、スモーキーマウンテン(バレー)と呼ばれるゴミ山を訪ね、そこで出会った少年から「読み書きできないからゴミを拾って生きるしかない」という言葉を聞きました。覚悟が決まりました。

やるからには最短で最大のインパクトを出す。当時の私は国連で働くことがベターな選択だと考えました。そのために開発学の修士課程と職務経験が必要。そうとわかれば、その道を進むだけ。

スモーキーマウンテン(バレー)

5. 大学院生@英国〜開発の修士課程

開発学では世界一と言われていたイギリスのサセックス大学にある開発学研究所(IDS)貧困と開発学修士課程に。留学経験もなく英語が苦手だったのに勢いでよく飛び込んだなぁと振り返ります。

いつも何かを決める時は、目的を先に考え、手段は後から。たとえ手段に対して足りない力があっても、努力すればなんとかなる。これまでずっとそういう選択をしてきました。

世界中から集まったクラスメイトと

大学院では、世界中から集まったクラスメイトと貧困や不平等などについて学ぶ日々。そこでは、印象に残っていることが二つあります。

一つ目は、アフリカ出身の友人からの「他者や他国に依存せず自分たちの力で貧困を解決したい」という言葉。援助に対する学術的な賛否を理解した上で、当時の私の琴線に触れました。

二つ目は、アフリカ内陸国に訪問した際に視察した援助機関が支援する雇用創出のプロジェクト。貧困解決の可能性を感じた一方で、持続的な収益化という観点で疑問が残りました。

その経験が最終的には "ソーシャルビジネス" に繋がっていくのですが…当時の私は知る由もなく。この頃はまだ国連で働くことが目標だったので、その目標に向かって歩み続けることになります。

6. JICA時代@日本〜開発の職務経験

大学院卒業後は、日本の援助機関である国際協力機構(JICA)に入構しました。中南米地域の国際機関との連携事業や円借款事などを担当させていただきました。

どんな仕事にもやりがいを見つける性分で、365日24時間、夢中で働きました。でもそれは、組織のためでも自分のためでもなく、純粋に「貧しい人の役に立ちたかった」だけ。

でも新卒の私にはまだまだ実力がなく、毎日悔しい思いをしていたことを覚えています。だから誰にも負けない努力をして、一日でも早く成長して、社会にインパクトを残す人になりたい。

なのに、少しずつ仕事が面白くなってきた頃に、私は突然体調を崩しました。そんな現実を受け入れられず、苦しさを紛らわすため、自分のこともも周りの人もたくさん傷つけてしまいました。

結果、志半ばで仕事を辞めることに。そして、大学時代から慣れ親しんだ東京を離れ、実家のある熊本に戻りました。悔しさや情けなさを通り過ぎて、完全なる戦意喪失でした。

月一出張に行った中米地域の風景

7. 引きこもり時代〜絶望から希望を掴む

この時期は人生の中で最も苦しい時間。今でも思い出すだけで息ができなくなるほどです。泣いても泣いても流れる涙。日に日に離れていく社会。生きている意味がわからない…絶望でした。

でも家族のおかげで少しずつ体調がよくなって未来を考えられるようになりました。どん底を味わった私は人生が一度リセットされ残りの人生はおまけのようなものだと思えるようになりました。

シンプルにやりたいことをやろう。いつか西アフリカで働きたいという素直な気持ちを思い出し、仏語を勉強し始めました。そして、雀の涙ほどの貯金を握りしめ、片道切符でフランスに。

貯金残高との戦いは不安定でしたが、フランスでの生活は私に 自由を教えてくれました。一人の人間として人生を選んでいい。これまでをすべて忘れてどんな人生を選んだっていいはずだ、と。

毎日眺めていたニースの海岸

でも、考えても考えても高校生の頃に描いた「貧困をなくしたい」という思いは消えてはくれません。むしろ強くなる一方でした。やはりそれが私の生きる理由、"使命"だと感じたのです。

では、どんな方法で貧困解決に取り組んでいきたいのか?貧困に苦しむ人々はなぜ貧困の罠から抜け出せないのか?これまで出会ってきた子ども達の顔をずっと思い浮かべていました。

理由の一つは、親に仕事がないから、という結論に至りました。親に仕事がないと子どもが働く必要があり就学できない。安定的な仕事に就けず、そしてその子ども達もまた、貧困に陥る。

同時に思い出したのは大学院の頃に視察したアフリカの雇用創出の事業です。そんな事業だけをやる会社があれば就職しよう。でも見つかりませんでした。…ないなら作るしかないか。

この時に初めて、起業を考えたのです。起業が何かも知らぬまま。少し難しいかもしれないけど挑戦する価値はあると思いました。だって今の私には失うものなど何もないのだから。

でも冷静に考えると、公的機関で働いたのでビジネスの経験がない。貯金も底をつきビジネスを始める資金もない。そして社会から断絶した生活で仲間もいない。“ない・ない・ない”の三拍子。

そんなある日「ソーシャルビジネス 起業」と検索してみることにしました。そこで “ボーダレス・ジャパン” を見つけました。ん?聞いたことないな…社会起業家のプラットフォーム…?

そこには「ソーシャルビジネスで世界を変える」とありました。まだ1カ国2事業しかない頃です。半信半疑で読み進めると私が持っていない "ノウハウ・資金・人材" を共有する、という言葉が。

当時の私には、企業の規模や知名度などは関係なく、貧困解決のソーシャルビジネスを起業する、その最短距離であれば使えるものは使いたい、と考えていました。シンプルな選択でした。

当時のボーダレス・ジャパンのYoutube

起業をしたいから、まずは企業に就職して力をつけてから、という考え方もありますが、個人的には、起業する最短距離は、起業。あるいは、起業家がいる環境で学ぶこと、でした。

すぐに連絡してフランスからオンライン面接を受けることに。頼まれてもいないのにビジネスプランを提出。面接まで48時間しかなかったので徹夜して、しかもiPadで長文のプランを書きました。

書いてみるとわかるのですが書けないところが明確に分かりました。面接ではそれを素直に伝えました。だからこそ、ボーダレスという環境で最速で力をつけて最大のインパクトを出したい、と。

そして、ボーダレスにジョインすることになりました。ちなみにその時に提出したプランが、実はブルキナファソのプランでした。"点と点" が少しずつ繋がっていきます。

8. ボーダレス(修行期)〜起業を学ぶ

最初は修行のために、Corva(現サンデーモーニングファクトリー)という創業期のアパレル事業に所属。ボーダレス初の新卒中村さんのもとで働きました。担当は、店舗開発。営業も初めてです。

どベンチャーの営業は後ろ盾も一切ない、熱量一本でやるしかありませんでした。お金がなくて店舗に視察に行きたい時は両親に「買い物にでも行く?」と誘って店舗まで送ってもらいました笑。

振り返ると、修行期間にはそもそもプレーヤーとしての力が圧倒的に足りず、事業に何の貢献もできませんでした。毎月の赤字を見つめて、手も足も出ない、そんな感覚でした。

一方で、創業期の起業家の姿勢や行動は中村さんに学びました。苦しくても一番努力してたのは中村さんで、一番楽しそうだったのは中村さんでした。起業の苦楽を背中で教えてくれました。

代官山の店舗にいつも立ってた

その後、創業期のビジネスレザーファクトリー(以下、ビジレザ)に。ビジレザはバングラデシュの貧困層の雇用を創出するソーシャルビジネスで、革製品を製造・販売する事業です。

この時にボーダレス社長たぐっさんや副社長すーさんとも働きました。事業構想や人材育成の思想は全部、ボーダレスを創業した二人の起業家に学びました。人として心から尊敬できる二人です。
(ここも改めて記事を書きたいと思います)

たぐっさん、すーさん、はなみち

ビジレザでの最初の仕事はバングラ工場での生産品質管理。何も整っていない自社工場でバングラの仲間たちと侃侃諤諤。現場の喜びも苦しみも知りました。しかしテロが起き、緊急帰国に。

帰国後は、ECリーダーを経験し、ビジレザの代表取締役社長になることを選びました。アフリカの貧困をなくしたい、という自分の志をビジレザにのせたい、と考えて出した私の答えでした。

バングラの仲間たちと

9. ビジレザ(社長期)〜経営を学ぶ

当時のビジレザはまだ小さい組織でしたが、社長になると景色は一気に変わりました。リーダーとプレーヤーは優劣ではなく完全なる別物でした。

事業構想、戦略・戦術、自分の決断に毎日迷いました。当時は120%で考えたことも振り返ると明らかに違う判断もしたように思います。成功や失敗、いや…失敗や失敗から、経営を学びました。

でも経営者として一つ誇れることができました。それは素晴らしい仲間に出会えたこと。成長期にかけ仲間が増え、バングラでは700人以上、日本では150人以上の仲間ができました。

バングラと日本の仲間たちと

「事業は人なり」と先人は言いますが、それは真実だと私は思います。事業には波があり、いい時もあれば悪い時もある。悪い時には「人生終わった」と思えるハードシングスもあるわけです。

でも「早く行きたければ一人でいけ、遠くに行きたければみんなで行け」と言うように、仲間がいれば乗り越えられる。そのことを経営者として理解できたことは、私にとって大きな財産でした。

社長になって5年ほど経ち、改めて "アフリカの貧困解決" に挑戦することを決めました。その背景は少し長くなりそうなので、ご関心がある方はこちらの記事を読んでいただければ、と思います。

ビジレザ代表としてソーシャルコンセプトやビジネスモデルの有効性を理解するからこそ、新たに芽生えた志に向き合う場合、新たなビジネスを起業した方がいい、そう考えて出した答えです。

起業は目的を達成するための手段。目的ではありません。起業も私じゃなくたってよかったかもしれない。でも、誰もやらないなら、私がやる。それで社会が少しだけよくなれば、それでいい。

10. 現在〜アフリカで起業する

そんなわけで、一人アフリカに来て、起業することにしました。

ブルキナは西アフリカにある内陸国、地政学上、政治経済的にも不安定な国。GDPやGNIランキングは下から数えた方が早く、国民の40%以上が貧困ライン以下で暮らす、最貧国のひとつです。

冒頭お伝えしたように、2019年以降に過激派によるテロが多発、難民が200万人以上に急増しています。そんなテロの影響を受けた女性たちに仕事を創りたい、そう思いこの地にやってきました。

国際機関をはじめとした支援や援助は多くありますが「ソーシャルビジネス」がどこまでできるのかは未知数です。日本人駐在の日系企業は、2022年11月現在、私一人です。大きな挑戦です。

今年7月から会社設立の手続きを始め、本日めでたく会社が設立。会社名は「ボーダレス・ブルキナファソ」。人々にとってソーシャルビジネスのプラットフォームになるといいなと願っています。

会社も設立できたのでこれから少しずつアフリカでのソーシャルビジネスについて発信をしていきたいと考えています。そんな"はなみちのアフリカ起業日記"をどうぞよろしくお願いします。


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