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あの頃のパワハラと大切なもの。

昔あった小さな事件を思い出す。電器売場の店員だった頃のことだ。

あるアルバイトのA君が、仕事の中で私が注意したその理由が、どうにも納得できないままに、キレてしまっていた。

「オレが憎いなら、はっきり言ったらどうだ!」と彼は叫んでいた。「やる気がないなら帰ってくれ!」と私は彼を罵倒した。こんな事を言う相手に、何を言っても時間の無駄にしか思えず、どうでもよかった。

忙しかったのだ。

そう、忙しかったのだと私は自分に言い聞かせていた。でも、本当はそうじゃなかったのかもしれない。正直に言えば、私はA君のことが、どうしても気に入らなかった。その点、彼の言ってることは、たぶん、当たっている。自分の価値観を主張するばかりの彼に、私は疲れるばかりだった。彼も私のこの気持ちに、気付き始めていたのだろう。

「あなたはいつも、オレにしか、そんな大口がいえないくせに!」

店内のうるさすぎる雑音の中、彼のその言葉だけが、私の耳の奥まで響いていた。

「お前は何もわからないくせに何を言うか!」

そんなふうに意味ありげに、私は彼に叱るように言ったが、若すぎる彼の投げ捨てた言葉に、私のその態度とは裏腹に心は傷つくだけ傷ついていた。

私は彼を無視したまま、動揺も見せず大人を演じ続けながら、目の前の仕事を器用に片付けるだけだった。彼は不機嫌な態度のまま、しばらく接客を続けていたが、やがていなくなっていた。

私より年上の販売員のTさんが、後で私にそっと言ってくれた。

「彼のことは、さっき僕が十分に注意しておきましたから・・・」

その言葉に、私は胸が熱くなった。そのTさんの”注意しておきましたから”の”から”のあとに続く言葉の意味が、私をどこまでも哀しくさせた。

僕から十分に注意しておきましたから・・・
”だから、もう、彼のことを許してやってください”

Tさんはそう、言いたかったのだろう。笑顔で接客を続けながらも、私の心は深い場所で泣きつづけていた。

”パワーハラスメント”

昔、この言葉を新聞ではじめて見たとき、私は息が止まる思いだった。今はもうその意味はわかりきったことだが、職権によるいじめや嫌がらせなど、強制による圧力のことを言う。私の彼に対する態度は、単なる”いじめ”にしか思えなかった。

どんなに努力しても売上は伸びず、結果しか見ない会社にしてみれば、そんな努力はまったく無意味で、業績が悪化しつづければ辞めるしかない雰囲気の中、残業で心身ともに疲れ果て、そんな時、目の前の若いアルバイトが自分の思ったような仕事をしてくれない。

私のそれまでのストレスは、何も知らない彼に自然と集中する。アルバイトの彼は、私に逆らう事は出来ない。それを私は知っている。だから私は激しく罵る。私の行為は、パワーハラスメントに違いないのだ。

やがて、しばらくして彼は売場に戻って、また、仕事をしていたが、目が少しだけ赤かったような気がした。どこかで泣いていたのだろうか。

あれから彼に対して、私は何も出来ないでいた。目の前の仕事を片付けるのが、ただ精一杯だったから。Tさんのフォローに頼るしかない私だった。なんて情けない自分だろう。今はもう昔のこと、あの頃、私はいつも、そう思っていたような気がする。

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遅く目覚めた朝の中、誰もいない部屋の中で、こんな私は世界中から見放されてココにひとり、残されてしまったような気がした。たとえそれが彼のせいであっても、私はそれでいいような気がした。あの頃、いつしか大切なものを、私は失くしてしまっていたのだ。

「ただいまぁ!」

やがて奥さんが明るい声と共に、大きな買物袋を抱えて帰ってきた。「あ、起きた?昨日は随分とお疲れだったのね」と私に笑顔でそう言った。彼女の微笑むようなやさしい言葉が、いつも、私の不安を和らげてくれた。

職場での私の姿を、家族はみんな誰も知らないでいる。こんな私は、家族のやさしさを裏切っているような気がして、彼女の言葉にうまく言葉が返せないでいた。

”あのとき、彼に言うべき言葉は
なんだったのだろう?”

なぜか、あの頃の
彼の笑顔が思い浮かんだ。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一