見出し画像

怒らない大人になって。

どんなときに、”怒る”のが正しいのだろうか?と、この頃、ふと、そんなふうに思う。大人であるこの私が、思うようなことじゃないけれど、本当にこの頃、よくわからないのだ。

社会に出ると、何かと思うようにゆかないことや、思わず怒鳴ってしまいたいことなんて、山のように私たちにはある。でも、それを気持ちのままに吐き出していいわけがないということを、私たちは痛いほど知っている。特に今、コンプライアンスの波が押し寄せるこのご時世では、なおさら大事なことだろう。

そんな中、嫌になるような経験を、何度くり返しても、次第に”怒らないこと(または我慢すること)”を私たちは覚えてゆくわけだけど・・・。

あるとき、ふと、私は思った。
「あれ?どんなときに、どう怒ればいいんだっけ?」って。

そんな単純なことがわからない。気づけば自分で自分の心を、思いっきり捻じ曲げてきたんだなってあらためて知る思いがする。

正直に言うと、仕事の上では、私はちょっとしたことで、すぐに機嫌を悪くする性格だ。真面目すぎるのがいけないのだろう。だからといって、気が短いと言うわけではない。嫌なことがあっても私は、それまでの経験上、すぐには怒らないことにしている。(だから周りの人は私が”気が長い”と思っているような節がある。)

ためてためて、ある程度我慢して、それで何かのタイミングで一気に出してしまうタイプ。(”隠れ短気”とでもいうべきか。)自分で思わず笑ってしまう。この人間関係において、最もやってはいけないことだ。まったく救いようがない。

だから周りの人たちには「あんなことで、なんで急に機嫌悪くなってんだ?」って感じになって、よどんだ空気に私は動きにくくなる。そのたびに「いや、違うんだ、それまでの」と思うが、それは誰にも通じない。

それでどれだけ人を傷つけたことか。

最近もまた、随分と人を傷つけた。怒り方を忘れてしまった私は、その人の行為を正すつもりが、いつしか、その人自身を攻撃している。信じられないような言葉を使うこの私を、もう一人の私が見つめている。わかっているが止められない。見つめるもう一人の私が、その口を両手で止めようとするが止められない。止めることなど永遠に出来ない。ただ、ことの流れを黙って、私は見つめるしかないのだ。

こんな日記だから書いてしまうが、こんなダメな部分の私を、私は本気で”死んでしまえばいい”と思っている。

でも、これは、これまでの私が作り上げた性格だから、自分でどうにかしなきゃならない。勝手に殺すわけにはいかない。生まれたからには行く末を、自分でちゃんと見つめなきゃならない。その理由はわからないにしても、今はそう思うべきなのだろう。

私はこの自分の嫌な性格に気づいた瞬間と言うものがある。あれは小学6年くらいだったか、私はやたらと機嫌が悪かった。普段はそんなことしないのに、父にひどい態度をとった。父はただ、驚いてひと言、私に、こう言ったのだ。

「お前がそんな子だとは思わなかった」

あんな悲しそうな目をした父を私ははじめて見た気がした。

そして、そのとき、私は知ったのだ。「あぁ、そうか。自分はこんな自分なんだ」って。正直言ってショックだった。父にそんなふうに言われたことと、そんな自分に気づいたことが。

本当はあのときに、その性格を直せたらよかったんだ。けれども、私はそれを直そうとせず、ただ、必死に隠そうとした。ひたすら誰にも気づかれないよう、ひたすら誰にも指摘されないよう、ただ、心の内側に、見せないように隠し続けた。

その結果が、今の大人になった私だ。

いつ、どんなふうに怒ればいいのかがわからなくなってしまい、無駄に笑い、話の流れに調子を合わせ、相手に嫌われない距離を保ちつつ、そつなくこなす・・・なんてことに気を使っている。

そしてあるとき、抑えきれずに吐き出してしまう。空気を読むこともなく、タイミングを計ることもなく・・・この愚かさは、あの私と同じだ。

父はもう、随分昔に死んでしまった。こんな今の私に父は、やはり同じことを思うのだろうか?

「こんなお前だったとは・・・」

あのとき、私は不思議と泣かなかった。ただ、あの言葉を言われたとき、心はいくつも引き裂かれた。それは父が悪いからじゃない。

たぶん、自分で引き裂いたんだ。
こんな自分・・・いなくなれと。

また、もうひとりの自分が、キーを叩くこの指を、必死で止めようとしているのがわかる。けれども私のこの指は、好きなキーを叩いている。

せめて今だけ、想いのままに
今だけは素直な私のままにと。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一