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すべて捨ててゆくために。

少し遅きた朝。

仕事が休みであることを思い出し、特別な急ぎの用事もない中、「めざましテレビ」をぼんやり見ながら、私はある考え事をしていた。

まるでつるりと殻の取れた、ゆでたての卵のように、私は簡単にそれを思いついてしまい、不安になってしまったのだった。

「もしも今日が、人生の最後の日だったら・・・」

・・・なんてことを考えていたら、私がしてきたこれまでの、いろんな出来事や後悔が、波のように押し寄せて来るばかりだった。

そんな余計な心配をしなくても、私の先にあるこの未来は、まだ、続くと思っているけど、いつこの命が尽きてしまうかは、神のみぞ知るところだろう。

私は記憶をたどりながら、丁寧に昔を思い出す努力をしていた。そうしているうちに、不思議にもジグソーパズルを仕上げるように、記憶は鮮明になってゆくのだった。

あの時、まだ小学生で、つまらぬことでケンカして、泣かしてしまったあの友達は、あの後、どんな想いでいたんだろう?または逆に、私がつい泣いてしまって、意地を張ったままのあの子は、私がいなくなったあと、何を考えていたんだろう?

そんなふうに私の辛い出来事や、哀しいことの後に起きた私の知り得ぬ多くのものたち。私はそれを知らないままに、そのまま死んでしまうのかと思うとたまらなく不安になってしまった。

知りたい・・・と思った。そんな出来もしないことを・・・と、少し苦笑いしながらも、少しの間、本気で考えていた。

あの子と口を聞かないままで、いつしか離れてしまったけど、本当はどう、思っていたんだろう?すでに許してくれてたのかな?それとも私の知らないところで、泣いていたりしたのかなぁ?

もしも、本当にドラえもんがいて、タイムマシンに乗せてくれたら、私はその時に戻って、私の知らないその子を見たい。私の知らないその人を見てみたい。

もしも許してくれてたなら、私は泣いて抱きしめてあげたい。もしも、憎んだままだったなら、私は泣いて謝りたい。そうして私は、すべてのいろんな出来事を、中途半端な結果たちを、きちんと清算してゆきたい。

もしも、そんなことが出来たなら、私にいつ最後が来ても、何のためらいも言葉もなく、家族への感謝の気持ちを残しつつ、私は目を閉じられるのだと思う。けれども時は、そうはさせてくれない。

私が残したものたちは、いつも、海辺を転がる空き缶のように、波に打たれ続けるのだろう。誰が拾うこともなく、あるべき場所に戻されることもなく、朽ちるまで漂い続けるだろう。

生きるとは覚悟のいることだ。
今更ながら、そう思う。

どんなに後悔をし続けたとしても、もう、そこへは戻れない。たとえ戻って何か出来ても、すべてはその人のためというよりも、単なる自己満足にすぎないだろう。

現実には、もしも抱きしめられたとしても、迷惑そうな瞳が私を、打ちのめすだけかもしれないけれど。

この今を生きてゆくことは、たぶん、すべてを抱えゆくことだ。

いつしか重さに耐えられなくて、人は誰かを求めたがるのだろう。そう思うと、人は何て寂しい生き物なのだろうかと思う。ひとりですら生きてゆけないなんて・・・。

こんなこと、考えたって仕方ない。今日も私は、昨日のように、同じ未来を生きてゆくだけだ。今はそれで、いいかもしれない。たぶん、それしかないのかもしれない。

けれども私は考える。

やはり私は泣いていたいと。過去に戻って、抱きしめていたいと。

たとえそれが自己満足でも、人に愚かと笑われようとも、私は転がる空き缶を、今度はちゃんと外すことなく、自らすべて捨ててゆきたいのだ。

そんなふうにして、この歩いてきた道が・・・たとえ叶わぬ夢と知っていても・・・後に続く誰かのために、つまずかない道であって欲しいと、私は心からただ、そう願う・・・。

少し遅く起きた朝。
どれだけ時間が過ぎたのだろうか?

気づけばテレビは、いつしか「特ダネ」に
変わっていて、変わらず悲惨なニュースを告げてた。


最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一