どれだけ人に与えたか。
人生で何をしたかは、どんな仕事をして、どんなものをつくったかでは決まりません。大切なのは、どれだけ人に与えたかということ。与えるといっても、ものではないと思います。生きてゆくための知恵、心やすらぐ方法、新しいものの見方、こういったことをたくさん見つけ、たくさんの人に分け与えることができたら、自分も幸せになれると思うのです。
松浦弥太郎「今日もていねいに」より。
私は今、どれだけ人に与えることが出来るのか?をこの人生の大きな問いかけにしている。例えばその一つがこのエッセイだ。約10年以上前までは、私はずっとネット上に日記を書いていた。ほぼ毎日、約5年間も続けていた。そのうち、仕事が忙しくなったり、転勤や環境の変化があったりと、いろんなことで更新が徐々に困難になり、いつしか自然と途絶えてしまった。
ホームページはそのままにしていたのだけど、プロバイダーのサービスの変更だったりで、そのページさえも消えてしまった。救済措置もあったはずなのに、いつまでもそのままというのも良くないような気がした。わかってはいたけれど、ほぼ手作りのようなサイトだったせいか、思い入れも強く、消えたその事実に、しばらくは茫然とした。
時の流れとは、そういうものかもしれない。いつまでも同じ場所にはいさせてはくれない。時代も常に変化を求められる。
そんな中、仕事だけの毎日に自分の人生を見つめ直すようになった。ぼんやりと思うような日々が増えていった。ある日、とてもよく晴れた午後。どこまで突き抜けるような青い空を見ていたとき、ふと、思った。
また、書いてみたいと。
そうしてまた、エッセイを書くようになり、次第に私に懐かしい感覚が蘇るようになった。それは”与える”というそのこと。ネットに文章を書くということは、いわばそれは”人に与える”行為そのものだ。
与えるためには何かを吸収しなければならない。自然と私はまた、たくさんの本を読むようになり、他人の文章を読むようになった。それは枯れ果てた大地に雨が降り注ぐように、私はたくさんの誰かの与えてくれるものを吸収していった。そして私はそれを栄養にして、誰かに与えてゆく。まるで雨によって伸びた芽が、いつしか実をつけたとき、その実を誰かに与えてゆくように。
決してその実は、自分のためじゃない。
そうすることで、このサイクルは成り立ってゆく。
そう思うと、この何気ない日々の中で、たくさんの見えないものが、知らずに与えられていることに気が付く。そうだ、みんな誰もが誰かに与えているんだ。そうして私は誰かに与えることが出来る。そんな当たり前のことに、私はずっと気づかないでいた。そうしてまた、文章を書くようになって、やっとまた、気付くことができた。
それは私の大きな成果だ。
人によっては、それは詩だったり写真だったり音楽だったりするのだろう。与える形は様々だけど、受け取る形はみんな、一緒だ。
そしてそれは、生きてる喜びなんだ。
この頃、空がただの空ではなく、ちゃんと季節の空として私の目に映る。風も雨も星空も、すべてが美しく特別に見える。それはなんて素敵なことだろう。
あの日と同じ空が広がっている。今日も誰かが、ペンを、カメラを、キャンバスを、様々な何かを手にして夢を形にしてゆく。
たとえ今は叶わなくても、与えられた夢たちは
いつかどこかで叶ってゆくはず。
そのために、僕らがすべきことは、ただ、ひとつ。
続けること。
それだけだ。
最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一