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わずかな記録

これからどんな明日、一年後、五年後、十年後になっているのかわからないけど、今の自分の正直な感覚を遺しておきたいと思った。

必死にもがいて、それはどうすることもできない赤ん坊が泣きわめくように必死にもがいて、ようやく明日が手にできるとすれば。
ようやく平穏な明日が迎えられるとすれば。
きっと僕は、その「必死」になるまでの感度が鈍感なのだと思うし、どこかで楽観的とも思えるように、なにかに甘えて、なにかを信じて生きているのだと思う。
焦っているようで、せわしなくはない。心は相変わらずザワザワするけど、今日で終わったとしても惜しむことはない。そんな感覚。
安定はしていないけど、なにかがどこがで支えとなって、成り立っている状態。

なにかを計算したり、計算することを投げ出したり。深呼吸をしようにも、二回、三回と出し入れをしないと、深い呼吸は入ってこない。
窮屈なのを人のせいにしようとでもいうのか。なすりつけられる人がいるだけまだ恵まれているではないか。

すずしい季節がやってくる。
手足の感覚を、もっとミクロに、繊細に。
あの時のように感じてみようじゃないか。

必死にもがいて、がむしゃらにあがいて、それでダメでも飛び込んで。
聞こえはいい。言うのは簡単。そしてそんなに遠い話でもない。
決してスーパーマンではなくとも、意地でも生き抜いている人を身近に知っている。尊敬はいつもそこからやってくる。

必死になるまでが遅い。人から見ても自分から見てもそうだと思う。
叫ぼうにも息苦しい、などといいわけしてしまう。
これまでの選択を愛し、これからの選択を信じるには、まだまだ。
立ち止まってる場合じゃないと頭を抱えながら
それでも来てしまう明日にどんな顔をすればいいのだろう。

自分がわからなくなるってのは、なかなかつらいものだ。
大きく、大きく、数年先をみようとすると、どうしてもうつむいてしまう。人生の視野も結局は明日という指針と歩み重ねなんだけど、いつからか、僕は今日を生きることに貪欲になりすぎたのかもしれない。

僕の人生は、究極的には目の前の、足元だけ見て、今日を生きれば問題ない。数年後の叶うやもしれない夢や像に躍りおどらされて、今の感情を失うくらいなら。と今を生きることに特に専念してきたここ6年ほど。
その都度いろんな不安に揉まれて押しつぶされて、いろんな感情を味わってきた。爽快な感情も混沌とした感情も。一日として同じものはない天気のような記録。
そう、近いかもしれない。五年後のおおよその気候を知れても、五年後の何日の天気を知ろうとしたところで、ただ苦労するだけという感覚に近い。
週間天気予報は役に立つ。でもどれだけ予報しても、結局は今日この時の空を見上げて、今をしのぎ、今を感じるしかない。

でも、全ては続いているのもたしかだ。厳密には天気自体に今日と明日という区別はなくて、空気は流れ気圧は動き昼夜は巡っている。数ヶ月先の天気を知ろうと思ったら、専門家はまず遠くの海の温度や動きを確認するらしい。すべてはつながっているようだ。

人生もおなじだろうか。今日と明日という境目は厳密にはなく、寝れば途切れるような感覚はあれど、結局僕は生まれてこの方ずっと僕であり続けてきているんだ。

明日は変えられる。明日にでも人生は変えられる。
そう感じたことがいままで幾度となくあった。
変えてきたのは自分。変わったと感じたのも自分。
きっと地続きな今日と明日。きっと地続きな僕という存在。
今を生きることはやっぱり、わるいことじゃない。
でも、もうすこしひろく、とおくを見渡せるといいのかな。

こうして話すと、ザワザワもすこしはおさまってくるんだな。

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