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親父(オヤジ)へ


今日7月21日は、親父(オヤジ)の祥月命日。

もうあれから11年も経ったんだね。

最後は認知症が進行してたから、自分のことを理解していたかどうかもわからないけれど。

親父は昭和5年生まれ、当時の日本の植民地である中国・大連で生まれ育った。
予科練(旧海軍飛行予科練習生)としてグライダーに搭乗していた頃にに終戦を向かえた。
戦争が長引いていたら、自分もこの世にはいなかったかもしれない。

敗戦し、中国から日本へ引き揚げ後、様々な職を転々としたようだった。
その中のひとつに、写真関係の仕事があり、若い頃の父親のモノクロ写真はかなり沢山残されている。

カメラも自宅にあったので、自分も小さいころからの写真がかなり多く残っている。

自分が今、このように写真に関わっているのも、父親の影響が大きいと思ってる。

11年前の今日、土曜日で仕事が休みの朝に、父親が入院してる病院から電話があり、
「お父様の状態で至急お伝えしたいことがあるので直ぐに来てください」と。
どんなことだ?容態でも急変したかな?と病院に車を走らせた。

病室に入ると、既に父親の顔には布がかけられていて、状況はすぐに理解できた。

主治医が形式的にだけれど、ペンライトみたいなのを当てて死亡宣告。

先生の話を聞くと、朝の回診時には起きていて意識もあったようだが、なにか安心したかのように眠るように息を引き取ったとのこと。

嚥下機能が低下して、最後はものが食べられず、入院して点滴だけの生活が続いていたが、何かの病気でもなく、いわゆる「老衰」という診断だった。


あんぱんが好きだった親父

コーラが好きだった親父

とんかつが好きだった親父

なにより晩酌の酒が好きだった親父

入院中、ずっと食べたいと言ってたね

いま、好きなものを好きなだけ食べられてるかな?

お酒も飲んでるかな


色々大変な人生だったと思うけど、最後はご近所からも慕われた、人が良く優しい親父

母親の末期ガンが進行し、父親の認知症も進み、ときにイライラしてしまい、手をあげてしまったこと、今でも後悔している。

結局は親孝行らしいことはほとんどできなかったけれど、自分が撮影した親父の写真が、遺影として、今でも額に入れられて残っている。


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