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#長谷川和彦

eigamuro
割引あり
多賀英典、再び

多賀英典、再び

もともと、歌曲と映画とは深い関係があったわけだが、レコード音楽業界と映画業界との関係を考えてみた時、私は多賀英典という人物を思いおこす。

多賀英典はポリドール社員だった。

小椋佳や井上陽水のアルバムをヒットさせていた多賀英典が映画に関わった最初は、1971年の『初めての旅』(森谷司郎監督)で、音楽プロデューサーとして。

翌1982年に独立して、キティミュージックコーポレーションを設立するが、

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長谷川和彦と、

長谷川和彦と、

長谷川和彦という映画監督が、いた。

あえて、「いた」と言ってしまう。
なぜなら、
1976年『青春の殺人者』で初監督、二作めが1979年『太陽を盗んだ男』
で、その後、長谷川和彦監督映画は一つもないから。
これは、まことに不思議だった。

村上龍は、
『限りなく透明に近いブルー』(1979)
を初監督したが、それは
製作費を出した多賀英典が監督をやらせたから、と私は思っている。
村上龍監督映画二

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デイレクターズカンパニー

デイレクターズカンパニー

『ディレクターズ・カンパニーは、かつて存在した映画製作会社。略してディレカンとも表記される。1982年6月設立、1992年5月倒産。』

『旗揚げ作品は、設立年の1982年秋、〈ピンク!朱に染まれ〉と銘打たれた、泉谷しげる監督『ハーレム・バレンタインディ』、宇崎竜童監督『さらば相棒』、高橋伴明監督『狼』の中編三本立て。1984年4月封切りの池田敏春監督『人魚伝説』が、本格的劇映画第一作目となる。』

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相米慎二②

相米慎二②

今回改めて相米慎二を検索してみて。

◆1972年、中央大学中退後、長谷川和彦の口利きで契約助監督としてにっかつ(撮影所)に入所。
↑↑長谷川和彦の口利き」の謂われについてここでは書かれてなかった。
けれど、やっぱり思い直して検索してみたら、note の記事を見つけた。
1968年長谷川和彦、今村プロ入社。長谷川和彦が、今村プロ事務所の管理人との名目でそこに住んでいた時、相米慎二が彼女と共に転がり

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『青春の殺人者』のスタッフたち

『青春の殺人者』のスタッフたち

監督の平山秀幸に関して。

『青春の殺人者』(1976)
長谷川和彦、初監督映画。配給がATG。
詳細はウイキとかを見てもらうとして。
私は、この映画のスタッフに関して書きたい。
この映画は、ATGに関わっていた多賀祥介(この人のことは良くは判らない。殊に多賀英典との関係) が、長谷川和彦に「監督として一本撮ってみないか」と声をかけたところから始まっている様で。
製作に、今村プロとATGともう一

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