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短篇小説【やがて滅びる国の民へ】後編

      16
 
トキの耳に届くのは馬の荒い息遣いと、木の車輪が土を削る音だけだった。どれだけの時間が過ぎたのか見当も付かなかった。
後手に縄で縛られ目隠しもされていた。
それでも隣にミミが眠っているのが分る。
その小さな背中の上下の動きだけが、トキの心を何とか落ち着かせていた。頬に微かな風を感じる。目元の布を越す明かりが段々と薄れ、
日が暮れてきているのだろうとトキは思った。
双子の娘2人と役人住居の簡素な部屋で昼食を取っている時だった。
広場の方から大きな爆発音が聞こえ、
近所の住人たちが慌てて表に駆け出ている様子だった。
建物の裏の川岸からも悲鳴が聞こえ、
辺りは騒然とした雰囲気になっていた。
窓から通りを見下ろすと黒いローブを着た男達が小銃を持って走っているのが見えた。
只事では無いと思ったトキは、2人の娘を寝室の寝台の下に隠れる様に言いつけ、自分は部屋の入口を食器棚で塞ごうと考えた。
しかしその時には既に部屋の中に黒いローブの男達の姿があったのだった。目の前で起きている事に、どこか現実感を持てないまま、気が付くとトキは馬車に押し込められ、役人住居を後にしていた。
部屋から連れ出される寸前、
ミミが男達に見つかってしまったのが目に入った。
片時も母親から離れたがらないミミだけが寝室から出て来てしまったのだった。
トキは部屋に残したリリの事を思いながらも、
何としてでもミミの身を守らねばと考えていた。
ヨギは無事だろうか。
近頃の思いつめた様な表情のヨギを思い起こすと、
次々と心に不安ばかりが広がってきてしまう。
赤い隈取の男達は、特に声を荒げるでも無く淡々と事をこなしていく風だった。
何故自分がわざわざ馬車まで用意されて連れ去られるのか、
トキにはいくら考えてもその理由に心当たりが無かったのだった。
自分の目の前に大きく広がる黒い森の姿を見た。それが国の最北に覆い被さる神授の森である事はすぐに分かった。
まだ眠そうなミミと馬に乗せられ、
赤目の男に手綱を引かれ森の中へと入った。
深い森の中は既に陽の届かない薄闇だった。
5人の赤目の男達はそれぞれにオイルランタンを持って辺りを照らしながら獣道を進んだ。
聞き慣れない鳥の鳴き声と、風に揺れる葉の音が響いている。
「ママ、どこに行くの?リリちゃんは?」
さっきから何度も同じ質問をミミがする。
トキはその度幼い娘の背中を優しく摩り、小さく唄を歌って慰めた。
 
月の明かりが消える頃
遠くの森で泣いている
2人の赤子の見た夢が
遠くの町で揺れている
 
トキの生まれ育った地方に古くから伝わる子守歌だった。
双子のミミとリリはこの唄を歌うと、
いくら泣いていても静かに聞き入った。
それをいつも不思議そうにヨギが見ていた。
長い戦争と王宮の圧制で王都では誰もが疲れ切っていた。
いつ頃からか、この状況を打破出来るのは赤目達しかいないと密かに言い交わす者達もいた。
トキが望むのは家族の健康と平和だけだったが、
この国に何か大きな変化が訪れる様な予感が、
王都に渦巻いていたのは肌で感じていた。
「ヨギ、どうか無事で」
トキは小さな娘の体をしっかりと支えながら、
何度も何度も心の中でそう念じていた。
 
      17
 
オシムの村でもすでに王都の異変が多くの村人達の話題に上っていた。
通りに並ぶ僅かながらの商店も、村人達の粗末な住居も堅く戸を閉ざし、
村は静まり返っていた。
この国で起こりつつある大きな変化の兆しに、誰もが不安を覚えていた。
その日は新月で、闇夜に細かい雨が降ってきていた。
村外れの川岸には、3頭の馬に跨った男の姿と3頭の馬に繋がれた馬車があった。
「よし、そろそろ出発しよう」
馭者台で手綱を持つポポイが、隣に座っているリッケに声を掛けた。
リッケが馬上の男達に片手を上げて合図すると、微かな明かりを揺らすオイルランタンが吊り下げられた馬車がゆっくりと動き出した。
粗末な木板で囲われた馬車の室内には、赤目の男と向かい合う形でヨギとリリが座っていた。
「パパ、どこに行くの?ミミちゃんは?」
トキに似た緋色の髪の少女を見ると、ヨギは改めて信じられない気持ちになった。
世界が変わり、自分の知らない時間が流れてしまっている。
混乱した頭の中を落ち着かせる暇もなかったが、ヨギはリリに優しく言った。
「大丈夫だ。ママとミミにもすぐに会えるよ」
長い髪の赤目の青年は堅く目を閉じ黙っていた。
彼が連れてきた3人の仲間達も同じ様な年恰好で、
白いローブの内側には銃を下げていた。
この赤目の青年はグンザンと名乗った。
オシムの旅籠でポポイに短刀を突き付けられても、眉一つ動かさなかった。
彼の言葉少なに語った話に寄れば、王都を襲ったのは赤目の過激派で、
グンザン達も襲撃を受けて散り散りに逃げたという事だった。
王族の圧制に対して武力で抵抗しようと主張する過激派は、
赤目の集落の中でも更に森の奥に位置するアジトで武器をかき集めていたらしい。
ヨギには想像も付かない世界の話だったが、これも世界の変調の兆しなのかも知れないと思った。
「ヨギ、と言ったな。お前はあの石柱の館で何を見た」
グンザンが鋭い視線をヨギに向けて言った。
彼の堅く握った手の甲に星型の入れ墨が見えた。
15歳になるとこの入れ墨を入れる掟のある村が
、湖水地方にあるのをヨギは聞いた事があった。
「君は南方の出身か。俺の勤める学校の同僚にも同じ入れ墨を持つ男がいる。君もやっぱりあの戦争に行ったのか?」
ヨギが静かに言った。
「俺の地方の兵士は湿地を馬車で抜けて国境まで行く。もう随分昔の事の様にも感じるが」
グンザンは顔の白い布を外して大きく息を吐いた。
ヨギの目にその素顔はまだ子供の様に映った。
「あの館には俺の弟のテオがいた。20年前に戦争で死んだと思っていたその弟が、15歳の少年の姿のままであそこにいたんだ。未だに信じられないが、あれはテオに間違いない」
馬車は速度を上げ、暗い畦道を北に向かっていた。
「その少年が赤目の過激派をけしかけたんだ。1年程前に突然姿を現した。誰の案内も無く、森から集落にやってきた。赤目の酋長達はあの少年の不思議な力に操られてしまった。やがて近くの村を襲い武器や食料を奪ってきた。王都では金持ちの商人達を利用して金を蓄えた。全部あの少年が集落に現れてからの事だ」
グンザンはその時初めて表情を崩した。
それは往々にして若い青年が見せるものであった。
ヨギは目の前の赤目の青年に近しい気持ちを感じる様になっていた。
「あいつは長い間、眠りの中で色んな夢を見ていたと俺に話した。あいつが何をしようとしているのかは分からないが、あの森にきっと何か答えがあるんだと思う。世界を変えてしまえる様な、そんな大きな力があの森にはあるのかも知れない」
ヨギは何か確信と言える様なものがある訳では無かったが、
テオを止める事が出来るのは自分だけかも知れないと感じていた。
幼い頃に見たあの不思議な3枚の絵が自分達の運命を少しずつ狂わせていった。
心の奥底に仕舞い込んできたものに、決着をつけなければならない時が来たのだと思った。
その時馭者台の上で手綱を握るポポイの視線の先に、大きな黒い山脈の様な神授の森の姿が見えてきた。
 
     18
 
「森の様子が変わってしまっている」
馬から荷車を外し、6頭の馬に分乗した一行の先頭でポポイが小さく呟いた。
ロー族の集落に一旦身を隠す為に、神授の森の入口から暫く進んだのだったが、何度も行き来しているポポイにも道筋が辿れない様だった。
「こんな事は今まで一度も無かった。東の窪地に向かう筈の獣道がかき消されてしまっている」
ポポイは馬から降りて辺りの木々をランタンの明かりで照らし、
森の奥の闇に目を凝らした。僅かな風が葉を揺らす。
目には見えないが森には様々な生き物の気配が満ちていた。
生まれた時からこの森の中で生きてきたポポイにとっては正に目を瞑っても歩ける様な場所のはずだった。
グンザンも馬を降りて辺りをランタンで照らしている。
「おい、どうするよ。ここからじゃあ集落までまだかなりあるんだろう?」
リッケが不安そうに暗い森を見廻して言った。
「これも世界が変わってしまった影響なのかも知れない」
ヨギが馬上でリリの背中を支えながら言った。
ポポイはそっと懐に入れていた小さな石の人形を握りしめた。
手に馴染むその感触は何も変わっていなかった。
その石はただ堅く、己の意思のままに進む事を望んでいる様な気がした。
ポポイは黒い布を目元に巻き、馬の手綱を引いて木々の間を歩き出した。
足の裏に感じる土の感触。風が運ぶ森の匂い。
僅かな勾配と空気の密度。ポポイは全身で森の変化に神経を尖らせていた。
「おい、あいつ大丈夫か?」
リッケが不安そうにポポイの背中を見詰めている。
「とにかく行くしかない。ここにいても何にもならない」
ヨギとその一行は暗闇を進むロー族の青年にその命運を賭ける事となった。
 
       19
 
時を同じくして、森の東の窪地にひっそりと佇むクヌギの丸太小屋の周りに、黒いローブの男達の姿があった。
小屋の中の床に敷かれた座布団にはロー族の賢者と称えられたアスイ導師が背中を丸めて座っていた。
部屋は香が立てる煙がゆっくりと天井付近を旋回し、
卓に置かれ覆いを被された玉が薄く紫色の光を放っていた。
アスイ導師の目の前には黒いローブを頭から被った少年が座っていた。
「これがロー族の「玉相見」で使う玉ですか。導師、これでこの国の未来を占っていただけませんか?」
少年は玉の覆いを無造作に取り、導師に玉を手渡した。
「残念じゃが、この玉には亀裂が入っていて今は何も映さぬ。それに元々未来などというものはこれでは見えん」
目元に黒い布を巻いたアスイ導師が、玉をゆっくりと卓に戻しながら言った。
「でも、ロー族はこの玉の御蔭で天変地異を避け、飢饉に備え、戦争からも遠ざかる事が出来たのですよね?そこにはきっと物凄い力が秘められているのではないですか?」
少年の赤く縁取られた目は、アスイ導師をじっと見つめていた。
「わしらは「兆し」にそっと耳を傾けるだけじゃ。持てるもの以上を望まず、与えられるものに満足し、この森から色んなものを借りながら生きているだけなのじゃ」
導師はそう言うと、ゆっくりと杖を付き立ち上がった。
「なるほど、ロー族の教えには学ばされる所が多いようだ。でも僕らもこの森から色んな事を教えてもらいました。100年戦争の冗談の様な真実や、王族の圧制に対抗し得る力の事も。あなた方の様な知恵のある先住民族が、なぜあんな無能な人間達に屈するのか。僕にはそこが少し理解出来無いのですが」
少年も立ち上がり部屋の中を見廻しながら言った。
「導師はご存知ですか?この森には「最初の人」と呼ばれる不思議な力を持った人間がいた事を。その人は遥か昔にこの森を作った人なんだそうです。」
少年は小屋を歩き回り、壁や天井から下げられている乾燥した植物の束を不思議そうに見ていた。武装した赤目の男達が物々しい雰囲気で小屋の外から監視する中で、この少年だけが楽しそうに笑っていた。
「導師、僕達はこの世界をあるべき姿に変えようとしているだけなんです。くだらない戦争を終わらせて、この森の力で皆を幸せにしようとしているんですよ」
少年は卓の上の玉を再び手にして中を覗き込んでいる。
「大きすぎる力は均衡を崩してしまう。わしらに必要なのはその日一日を照らす分の光だけじゃ。過分な力を一度でも使えば、後戻りは決して出来無くなるのじゃ」
「残念ですね。僕達の考え方は平行線の様だ。偉大な先住民族の知恵をお借りしようとしたのですが、分かりました。諦めます」
少年はそう言うと静かに小屋から出て行った。
小屋の外には松明を掲げた黒いローブの男達が待っていた。
少年は颯爽と馬に跨り男達に向かって首を横に振った。
男達は松明を持ったまま、音も無く森の中に消えて行った。
 
       20
 
トキとミミを乗せた馬が赤目の集落に辿り着いたのは真夜中の頃だった。
静まり返った集落の至る所には、黒いローブを着た男達が歩哨に立っていた。
静かに寝息を立てているミミを抱いたトキが案内されたのは、集落の奥に位置する大きな石柱に囲まれた館だった。
館には白い羽織りを着た老婆が待っていて、2人は2階の小さな部屋に通され外から鍵を掛けられた。
トキは部屋の小さな食卓に用意されていたパンとスープには手を付けず、
ミミを寝台に寝かせ、その傍らでじっとランタンの灯りを見つめ夜を過ごした。
「彼等はなぜ私達を連れてきたのだろう」
トキは何度も頭の中でその日起こった事を思い返していた。
ヨギの留守を守る事が出来ずに申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。
1人王都に残したリリの事を思うと胸が張り裂けそうであった。
部屋に唯一の小さな窓から、僅かばかりの頼りない朝日が注いできた頃、
館の外から馬の蹄の音が聞こえてきた。
トキのいる部屋の窓からは外の様子は分からなかったが、
耳をそばだてると館の中を頻りに移動する足音が微かに聞こえた。
「ママ?ここどこ?リリちゃんは?」
寝台のミミが目元を擦りながら半身を起こした。
「ミミ、まだ夜が明けたばかりよ。もう少し眠っていなさい。リリはもうすぐここへ来るわ」
トキは寝台に静かに横たわり、ミミに寄り添っていつもの唄を小さな声で歌った。
そうしている内に、疲れ切っていたトキもまた眠ってしまっていた。
どれ位の時間が経ったのかは分からなかったが、
窓の外がすっかり明るくなった頃、小さな部屋の鍵が外された。
寝台でトキが目覚めると、食卓の椅子に黒いローブを着た少年が座っているのが見えた。
「初めまして。僕はヨギの弟のテオです」
少年はゆったりとした口調でトキに言った。
「ヨギの・・・弟?あなたが?」
トキは素早く起き上がり、緋色の髪を整えながら言った。
「急にお呼び立てして申し訳ありませんでした。王都は暫く危険なので安全な所にご案内しようと思いまして」
少年は赤く隈取られた目で屈託も無く笑い掛けてきていた。
このまだあどけなさの残る少年がヨギの弟であるとは、
トキにはまるで信じられなかった。
「ついこの前、この館でヨギに会いました。僕が長い眠りについている間に、ヨギも随分苦労したみたいだ。僕らの父親にそっくりになっていた。僕は母親似でこの髪の色も母親に似ているらしいです。小さい頃に死んでしまったので僕は覚えていないのですが」
少年は頭のローブを取り静かに立ち上がった。耳に掛かる程の長さの赤毛が微かに揺れた。
少年は窓の外に一瞥を投げ、大きく欠伸をしている。
「あなたは赤目なの?ここは彼等の集落?ヨギは今どこにいるの?」
トキの声でミミが目を覚まし、ゆっくりと起き上がろうとしていた。
「心配はいりません。ここはこの国のどこよりも安全ですし、ヨギとリリも直にここへ来る事でしょう。少しの間不便を掛けるかもしれませんが、暫くしたら王都にお送りしますので」
少年がミミに笑い掛けながら言った。
ミミはじっと少年の赤い目を見つめていた。
「ヨギの弟は20年以上前に戦争で死んでしまったと聞いているわ。あなた本当は誰なの?」
トキがしっかりとミミを自分の胸元に抱き上げて言った。
「僕はヨギの弟のテオです。僕も戦争で死んでしまったと思っていたのですが、この世界を変える手伝いをする為に呼ばれて来たのです。「最初の人」のメッセージを受けて目覚めました」
少年は懐から小さな石の人形を取り出した。
それはロー族に伝わるお守りの人形だった。
「これをミミに。この世界で迷子にならないようにしてくれるお守りです」
少年は食卓に石の人形を静かに置いた。
「あなた達はこの国を滅ぼすの?王都はどうなってしまったの?」
トキの目に涙が溢れそうになっていた。
「いえ、僕等はこのやがて滅びる国の民を未来へと導こうとしているのです。その未来に王宮政府は邪魔になってしまうので排除しました」
少年が真っ直ぐトキの目を見て言った。
「邪魔者はみんな排除していくのね」
トキの頬を大粒の涙が流れ落ちた。窓から差し込む暖かい日差しとは裏腹に、トキは背筋の凍る様な寒さを覚えていた。目の前の少年に対する言いようの無い不安と恐怖が、トキの心を締め付けていた。
「僕は真実から目を背けたくないだけなのです。ヨギが見て見ぬ振りをした世界の秘密を。僕はこの嘘の世界から真実を解き放つ為に存在しているのです」
少年が両手を合わせ祈る様な仕草をした。
「その為だったら人を傷付けても構わないの?あなたがやろうとしている事は本当に正しい事なの?」
トキは精一杯の勇気を持って少年に言い寄った。
怖くて震える肩を必死に怒らせた。
しかし赤い目の少年は少し困った様な笑顔をトキに見せ、
赤毛を揺らしながら黙って部屋から出て行ってしまったのだった。
 
       21
 
木々の間から微かに陽の光が注いできた頃、夜通し馬上で移動を続けたヨギ達はようやくロー族の集落に辿り着いた。
黒い布で両眼を隠し、微かな印しを全身で感じながら森を分け入ってきたポポイはかつてない程の疲れを感じていた。
集落の様子はいつもと変わりない様に見えた。
朝餉の支度に早くから立ち働く集落の女達が、通りの水場で早くも仕事に取り掛かっていた。
昨夜からの細かい雨は止んでいて、朝露と雨粒が木々の葉から水滴を落としていた。
馬から降りて集落の様子を眺めるヨギの目に、
王都の混乱など信じられない様な平和な光景が和やかに映った。
「さあ、私の家に案内する」
ポポイが黒い布を顔から外しながら言った。
集落は強固に築き上げられた要塞の様だった。
太い丸太の柵で集落は取り囲まれ、高い木の上には監視小屋がいくつもあった。
馬小屋には立派に手入れされた馬が何頭も並び、
用水路の脇の通りには食料の備蓄小屋がいくつも立ち並んでいた。
神授の森にいくつか点在する先住民族の集落の中でもここは最も大きく、
また最も長い歴史を持っていたのであった。
リリを抱いて歩くヨギも、袖で汗を拭うリッケも、
この堂々たるロー族の集落の様子に感心しながら歩いていた。
グンザンと赤目の男達はローブを目深に被り、
その目元の隈取をロー族の民に見られない様に気を配っていた。
「ここだ。入ってくれ」
やがて一軒の大きな丸太作りの館に辿り着き、一行は漸く一晩続いた長い移動から解放されたのだった。
森の民として、ロー族がこの地に集落を開いたのはまだ国が東の大国との戦争を始める前の事だった。
それより以前は更に森の奥深くで暮らしていたのだが、王都との通商を開く為に森の縁に移ってきたのだった。
近頃では森の民の伝統も薄れ始め、王都の便利な暮らしに影響を受けつつある状況だった。
幾つかの小部屋に分かれて仮眠を取った後に、一行は館の居間に集まった。
「とにかくトキとミミを探すのが先決だ。こいつらに赤目の集落まで案内してもらおう」
口火を切ったのはリッケだった。
「赤目の過激派というのはどれ位の人数がいるんだ?」
居間の隅で固まって座っている赤目の青年達に向かってヨギが問い掛けた。
「多分150人程だ。集落の奥地に彼等のアジトがあって、北の国境を越えて入ってきた他国の兵士も含まれている。東の戦場から逃げてきた者、先住民族出身の者、我々の様に王都から森に入った者もいる」
グンザンが答えた。
「そもそも赤目は何の集団なんだ?王宮政府を倒すのが目的だったのか?」
今度はリッケがグンザンに言った。
「我々が赤目の集落に入ったのは3年前だが、その頃は政府の干渉から離れた自治を目指す共同体という雰囲気だった。武器を大量に買い入れ、集落の奥地にアジトを作り出したのはほんのつい最近、あの少年が現れてからだ」
グンザンはヨギの方を見て答えた。
「それがテオだってのか。ヨギ、お前はテオに集落で会ったんだろう?本当にテオだったのか?何か不思議な術でこう誰かが成り済ましてるとか、そんなんじゃないのか?」
リッケは居間をウロウロと歩き周りながら落ち着かない様子だった。
「多分・・いや、あれは間違いなくテオだった。20年前と姿形が変わっていなかったのは不思議だが・・・テオは世界を変えると言っていた。それがどんな方法で何を意味するのかは俺にも分からない・・」
ヨギは赤目の集落の石柱の館で見たテオの顔を思い出していた。
15歳の少年のままで変わらない、赤い髪を耳元まで伸ばした姿は、
幼い頃に亡くした本当の母親を思い起こさせた。
すべては故郷の村の沼に沈めた3枚の絵が根源にある様な気がした。
長い時を経て、運命が全てをいたずらに繋ぎ合わせているかの様に感じた。ヨギは王都で憲兵の監視にビクビクしながら暮らしてきた時代を思い返していた。
今こうして暴力的に世界が変えられようとしている事が、
全て見て見ぬ振りをしてきた自分達に責任があるのではないかと感じていた。
そして何よりもトキの事が心配で仕方が無かった。
まだ見ぬもう一人の娘のミミの事も。
「ヨギ、おそらくトキとミミはその赤目の集落にいるはずだ。ロー族の戦士達にも協力を仰ぐ、準備を整えて今夜にもここを発とう」
ずっと黙っていたポポイが口を開いた。
 
       22
 
果てしなく広がる神授の森のその奥深く、遥か400万年の昔に1本の木が植えられ森は大きく広がっていった。
大地は干上がり、大気は淀み、あらゆる国々の衝突で世界は困窮の極みにあった。
人間が築き上げた科学と技術の繁栄がもたらしたものは、
皮肉にも彼等自身を滅亡へと誘った。
終わる事の無い争いと、富の奪い合いは徹底的に資源を腐られてしまった。その時1人の細菌学者が、人間のあらゆる叡智の遺伝子を封じ込めた菌を培養した樹木の種を、地中奥深くに植えたのだった。
彼は「最初の人」と名付けられたバイオテクノロジー企業の研究者だった。深い地中で根を張り巡らせた「知恵の木」は、
人間達の核戦争の為に生き物が住めなくなった地表が浄化されるまでの気が遠くなるような年月をじっと地下深くで耐えしのいだ。
人間の種の存続は、そうして一つの植物の種を介して成された。
神授の森の奥深く、「知恵の木」が400万年前に植えられた場所には太古の植物が群生する菌類の胞子のベットが存在した。
誰も知らない、誰も辿り着く事の出来ないその場所から、もう1度あらゆる生き物が誕生し世界中に繁栄していった。
人間もその一つだった。
そこは時の流れさえも淀み、あらゆる可能性を持った世界と地続きで繋がっていた。
400万年前の学者がプログラムした遺伝子が、偶然にも1人の少年の意識を「知恵の木」と繋いだ。
それは仮にこの世に神の存在が認められるのであれば奇跡と呼ばれるべき出来事だった。
少年はあらゆる知恵と、400万年前の人間の奢りと過ちを知り、
その生涯で為すべき事を考え抜いた。
国境に続く砂漠の列車が行き付く先は、遠からぬ未来にある人類の破滅。
長い眠りの中で、「知恵の木」の胞子が見せる幻覚によって悟りを開いた少年テオは、かつての人類の過ちを繰り返さない為の戦いを決意した。
森の縁に集まった反体制の集落の人間達を掌握するのにそれ程の時間は必要では無かった。
彼等の本質は別種の権力に従いたいというだけの本能が支配していた。
彼等にはほんの少しの幻覚を見せるだけで事足りた。
権力の頭を挿げ替えただけの革命。
一時の夢の実現がもたらす充実感。
少年テオは大いなる力に目覚め、「最初の人」の残した遺伝子による世界再構築に動き出していた。
それは創造主のデザインを人間が作り変える、越権的行為に違いなかった。
 
       23
 
「やがてこの国は滅びる」
薄暗い王都の役人病院の寝台で、タンネは何度も口から泡を吹きながらそう叫んでいた。
美しい緋色の髪を持った女を娶り、「運命の世代」という名の庇護を得て、ヨギは王都で用心深く毎日を過ごしていた。
砂漠を越えた丘の上の学校で子供達に教えているのは、
役に立つかも分からない読み書きと計算と歴史。
その歴史も戦争が始まる前の事は政府の検閲で機密になっている。
ヨギは何の為に生きているのか、日に日にその実感が薄らいでいく様な気がしていた。
王都の外れの役人住居の部屋では、肺の持病を患う妻のトキが待っている。今日も手伝いの老婆が拵えたミルク粥が食卓に寂しく置かれているはずだ。
養母のタンネが口から泡を吹いて死んだ時、
直ぐに遺骸を回収に着た憲兵達を見て、ヨギは本当にこんな国は滅んでしまえばいいと思ってしまった。
その頃からヨギは毎晩同じ様な夢を見ていた。
目覚めるとハッキリとは覚えていられなかったので断片的な記憶だったが、深い森の中で小さな女の子を抱いて馬に乗っていた事はいつも覚えていた。そしてもう1つ、20年前に戦争で死んでしまったはずの弟のテオが、
必ずその少年のままの姿でヨギの前に現れるのだった。
不思議な夢だったが、ヨギはそのまま夢の中にいられたらいいと少なからず思ってもいた。
その時のヨギには、砂漠の列車が行き付く先に何の希望も持てなかったのだった。
ヨギは狭い役人住居の食卓に座り、目の前のミルク粥に視線を落としていた。
薄い壁が微かに揺れている様に感じる。
床も軋んで音を立てている。
通りに面した小さな窓の木枠がガタガタと唸り出した。
ヨギは頭を抱え、食卓に突っ伏した。何も見たくなかった。
何も考えたくなかった。
全て滅んで、全て消えてしまえばいいと強く思った。
そして唐突に目を開くと、見覚えの無い天井を見つめ小さな寝台に横になっていた。
すぐ傍らには幼い娘のリリが寝息を立てていた。
「夢を見ていたのか」
ヨギにはどちらの世界が夢で、どちらが現実なのか分からない様な気持ちだった。
自分の記憶すらも、誰かに見せられた夢の様だと思った。
いくつもの夢の世界が螺旋の様に連なって戻って来られない深みにまで潜ってしまった様だった。
「ミミは君に似ているのか?」
ヨギは眠っているリリに小さく問い掛けた。
部屋の小さな窓からは森の薄闇が見えた。
もうすっかり陽が暮れた様だった。
 
       24
 
深い闇に紛れ、ヨギ達はポポイとグンザンの導きで足早に森を駆けていた。ロー族の黒馬は信じられない程に機敏で、
僅かな木々の隙間も音も無く駆ける事が出来た。
一行は森の縁を大きく旋回して、北の方角から赤目の集落の裏手に出るルートを取っていた。
ヨギとリッケ、ポポイとグンザン、そして赤目の青年が3人。
数の上で赤目の過激派達に対抗する事は出来ないが、
少数精鋭で隙を付いてトキとミミを助け出すつもりだった。
森の闇夜は昼よりも様々な生き物の気配に満ちていた。
月の光も届かない深い森の足元を、濃い霧が覆い尽くしていた。
ヨギは馬上でこの時も、これが夢なのか現実なのか分からない様な気持ちになっていた。
余りにここ数日の間に世界が変わってしまって、
感覚がまだ追い付いていない様だった。
「ヨギ、大丈夫か?もう頭の痛みは無いのか?」
ポポイがヨギを振り返って聞いた。
「ああ、もう大丈夫だ。随分休ませてもらったしな。ポポイ、赤目の集落はもう近いのか?」
ヨギは現実に引き戻された様な気がしていた。
「ああ、もうすぐだ。ここで馬を降りるぞ」
一行は馬を茂みに繋ぎ、ゆっくりと歩き出した。
道にいくつも石が埋められ、集落が近い事が分かった。
やがて一行はグンザンを先頭に集落の裏手から闇に紛れて侵入した。
辺りに人影は無く、静まり返っていて逆に薄気味悪かった。
いざという時の武器は赤目の青年達の持つ散弾銃とポポイの持つ両刃の剣のみ。警備が厚い筈の石柱の館から、トキとミミを奪還するのは至難の業に思えた。
やがて集落の際を進むと大きな館の影が現れた。
巨大な樹木に半分覆われた2階建ての館は、
どこからも灯りが漏れず静まり返っていた。
「おい、見張りも何もいねぇぞ。もう誰もいねえんじゃねえのか?」
リッケが小声で言った。
「確かにおかしい。いくら夜中と言えど静か過ぎる。罠かも知れない」
グンザンが館の様子を見ながら言った。
「ここまで来たら行くしかないだろう。俺とヨギとリッケで中に入る。グンザン達はここで表を見張っていてくれ。何かあったらこれで知らせろ」
ポポイが動物の骨の様な棒をグンザンに手渡した。
「はぐれたら裏手の森の馬まで一目散に走れ。ロー族の馬なら誰にも追い付かれない」
ポポイはそう言うと館を覆う巨木の枝に縄を投げた。
縄の先端の金具が枝をしっかりと噛んだ事を確認すると、
いとも容易く枝に登っていく。
ヨギはオシムの旅籠の部屋で完全に気配を消して闇と同化していたポポイを思い出した。
「すげえな」
リッケがポポイを見上げながら言った。
ヨギとリッケも縄で枝に引き上げて貰い、石柱の縁を伝って館の2階部分の壁に飛び移った。
大きな窓からはヨギがテオの肩を掴もうとした回廊が見えた。
ポポイが錐の様な小さな金具で窓のガラスと木枠の間を固定し、
蝶番を壊して大きな窓ごと外してしまった。
「おい、お前一流の泥棒になれるな」
リッケが目を丸くして感心している。
3人は音を立てない様にゆっくりと回廊に降り立った。
同じ様な扉が片側にいくつも並ぶ。
一番奥の大きな扉はヨギがテオと会った鏡のある部屋だった。
ついこの間の出来事が何年も前の事の様に感じる。
ヨギはまた少し頭の痛みを感じていた。
館の中に微かに薫る香の様な匂いもヨギには気になっていた。
「どの部屋だ、トキがいるのは?」
リッケが警棒を構えながら回廊を見廻して言った。
扉と扉の間の壁に灯されたオイルランタンの火が、
窓からの僅かな風を受けて大きく影を揺らしていた。
ポポイはゆっくりと回廊の奥へと進んでいく。
「テオがいたのはあの一番奥の部屋だ。俺はこの廊下であいつの肩に手を伸ばして・・・・そしたら廊下が波打って激しく揺れ始めたんだ。俺は意識を失って・・・・・」
ヨギがそう言って後を振り向くと、そこにリッケとポポイの姿は無く、
静まり返った回廊の床一面に枯葉が敷き詰められていた。
真夜中のはずが、回廊の窓からは明るい陽の光が注いできている。
ヨギは鋭い頭の痛みを感じてその場に膝を突いてしまった。
「リッケ!どこだ!ポポイ!」
館の中は物音一つせず、相変わらず人の気配の一切が無かった。
ヨギは何とか立ち上がり、回廊の一番奥の部屋の扉の前まで歩いた。
それは前にも見た、美しい花や動物の彫刻が施された大きな扉だった。
ヨギはゆっくりとその扉を押し開き部屋に入った。
そこにも人の気配は無く、大きな鏡だけが部屋の中央でヨギを待っていた。
その部屋の窓からは、微かな月明りが森の木々の鬱蒼とした姿を辛うじて浮かび上がらせているのが見えた。
その時、ヨギは鏡の表面が動いた様に感じた。
耳が痛い程の静けさの中、ヨギは恐ろしく感じているのに、どうしてもその鏡面に目が向いてしまう。
鏡は水面の様な波紋を浮き上がらせ、青白い光を放っている。
ヨギは一歩ずつ、ゆっくりと鏡に近付いていった。
いつの間にか足元には薄い霧が立ち込めている。
森の獣道の様に、足を地に下ろす度に枯葉を踏む様な感触がした。
ヨギは鏡の正面に立ち、目を閉じた。
瞼の裏に強烈な光を感じる。
細かい振動が目の前から伝わってくる。
水の音が聞こえた。
何か水の中に物を投げ入れて飛沫が上がる音。
鳥も鳴いている。
頬に風も感じる。
ヨギはゆっくりと目を開いていった。
眩しい光の向こうに、あの沼の畔で秘密を共有した日の、幼いテオがいた。
 
       25
 
「私はもう少しこの辺りを探していく。リッケは2人を連れて先に集落に戻っていてくれ」
ポポイが石柱の館を振り返って言った。
結局館の中はもぬけの殻で、2階の回廊の外側から鍵を掛けられた小さな部屋で、リッケがトキとミミを見付けたのだった。
回廊で忽然と姿を消してしまったヨギは、館の中を隈無く探しても見付けられなかった。一瞬目を離した隙に、ヨギは消えてしまった。
回廊の一番奥の大きな扉の部屋も、人の姿は無く古ぼけた鏡が置かれているだけだった。
集落は石柱の館だけでは無く、どこにも人の気配が無かった。
グンザン達が異変に気付き、辺りを探ったがどの家にも人影がまるで無かった。
王都の襲撃以来、赤目の過激派が各地を荒らして回っているのは知っていたが、赤目の集落全体が打ち捨てられる事はあり得ないとグンザンは言った。
ポポイは懐の小さな石の人形を握り絞めた。
その手に伝わる感触に、僅かだが違和感の様なものを感じた。
「いつの間にか世界が変わっているのか?一体いつから?」
ポポイはこの時初めて恐怖に似た胸騒ぎを覚えていた。
突然大勢の男達に囲まれたミミは驚いて目を見開いている。
トキの胸元に必死でしがみ付き辺りを頻りに見廻していた。
「私もヨギを探します。この子を先に連れて行って下さい」
トキがリッケに言った。
「いや、ここは何が起こるか分からねぇ。一旦安全な所に行った方がいい」
リッケがそう言うと、背後の森の木々が風で大きく揺れた。
人のいない集落は時が止まったかの様な異様な光景であった。
「私はヨギを残して行く事は出来ません。今見付けなければ、永遠に彼を失ってしまう様な気がするのです」
トキはここの所のヨギの思いつめた様な顔を思い出していた。
「彼は何か大きなものを独りで抱え続けていました。それはまるで世界中の不幸に責任を感じているかの様に。私はそれを理解してあげる事が出来なかった。今彼を残してここを立ち去れば、私は生涯後悔する事になります」
トキの頬を静かに涙が流れていった。
その時、地面が振動し始めた。次第に揺れが大きくなり、
木々や建物が軋む音が激しくなっていく。
皆地面に伏せて必死に耐えた。
森の奥が昼間の様に明るくなっているのが見えた。
「みんなここで待っていてくれ!」
ポポイは頭を低くして再び石柱の館に駆け込んだ。
「おい!ポポイ!」
リッケは激しい土埃の中必死に目を凝らしたが、
もうそこにポポイの姿は無かった。
 
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ヨギは不思議と何のためらいも感じずに、
鏡の木枠を踏み越え鏡面の中に入っていった。
暖かい光に身を浸す様な心地良さを覚え、
振り返る事無く一歩ずつ沼の畔に近付いていく。
テオは大きなブナの木の傍らで、くすくすと笑いながらヨギを見ていた。
辺りには心地良い風が吹いていて、春の陽の光の温もりが肌に気持ち良かった。
「テオ、ここはどこなんだ?」
ヨギは自分もまた幼い子供の姿になっているのを感じた。
草を踏み締める自分の足が、頼りない位に細く見えた。
「ここはもう1つの世界だよ。ここだけじゃない。世界は数え切れないくらいあるんだ。普通の人は入れないんだけどね。ヨギはあの鏡を通ってきただろ?選ばれた人しか通れないんだよ」
テオは子供が得意になって説明する様に、ヨギに楽しそうに話し掛けた。
ヨギは自分の両手を眺め、皺の無い小さな掌にあの3枚の絵があるのを見た。
「これは「最初の人」が作った機械なんだ。凄いでしょ?400万年前の人達はとてつもない技術と知恵を持っていたんだよ。僕はここで沢山の事を知ったんだ。ヨギもきっとここが気に入ると思うよ。その絵の街にだって行ける。そこには地面の下に列車が走っているんだよ!」
テオが大きく両手を振り上げると、
その後ろにキラキラと眩しく光る街の景色が現れた。
見上げる程の巨大な建物が立ち並び、数え切れない人間達が行き交っている。四角い箱がその横を大きな音を出しながら頻りに走り回っている。
鏡の様に景色を反射する建物のガラスにテオと自分の姿が映っているのが見えた。見慣れぬ服を着て、その姿はまるで老人の様だった。
「テオ、世界はどうなってしまうんだ?」
ヨギが目の前で杖を付いて立っている老人に言った。
「世界はまた400万年前の様に滅びようとしている。過ちを繰り返さずには人間は生きていられない生物の様じゃ。王宮は無くなった。体制が滅びれば反体制もいなくなる。赤目も塵の様に消え去った。もう愚かな争いも無い世界になるのじゃ」
老人がまた手を広げると、
そこは耐え難い熱気と湿気が充満した列車の中だった。
4人掛けの席の窓の外には砂漠が広がっていた。
斜向かいの席に軍服姿の若いテオが座っていた。
「100年の間に10万人の若い兵士が死んだ。隣の国の兵士も同じだけ死んだ。「最初の人」が作った植物の菌類に封じ込めた遺伝子には、人間本来の欠点も残らず入っていた。種は残すだけじゃなく、変えなければ駄目なんだ。僕がもう一度世界を作り直すんだ」
テオはそう言うと窓の外を指さした。
ヨギがそちらを見ると列車が小さな乗降場にゆっくりと止まった。
テオが小銃を肩に担いで列車を降りるので、ヨギもそれに付いて行った。
誰の姿も無い乗降場にあの大きな鏡が置かれていた。
鏡面は波紋で揺れ動き、青白い光を放っていた。
「ヨギ、君はこの20年間ずっと死んだ様に生きていたね。この国など滅んでしまえばいいと思っていた。違うかい?」
テオが黒いローブに身を包み、赤く隈取られた目でじっとヨギを見詰めながら言った。
ヨギには自分が何を考えて生きていたのか思い出せなかった。
「ヨギ、ここで一緒に世界を作り直さないか?「最初の人」が全て教えてくれたんだ。神すら出来なかった完璧な世界を今度こそ作るんだ」
テオは少し悲しそうに笑っていた。
ヨギはその時思い出した。
自分の弟は誰よりも優しく、自分の事以上に人の事を考える人間であった事を。
テオはいつも笑ってヨギの後を付いて回っていた。
ヨギはその幼い日々の中で、常に守られていたのは自分の方であったと感じた。
戦争と貧困は一歩ずつ近付いてきた。
年を重ねる度に心の不安は大きくなっていった。
世界の理不尽を呪っていた。
「俺が戦争に行く年、先王が死んだのは偶然なのか?」
ヨギは呟く様に言った。
「この世に偶然なんか無いんだよ。僕は何度でも世界を変えられる」
テオは鏡の様に澄み切って明るい空を一面に映した丸池の上に立っていた。
その姿はまるで書物にある神の姿の様だとヨギは思った。
 
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館の奥の部屋で、ポポイが大きな鏡の前に立ち尽くしているのが見えた。
トキには何故だかそこにヨギがいる様な気がした。
辺りにはまだ揺れが残っていた。
「ヨギはこの部屋で弟と会ったと言っていた。その声が途切れたと思ったら、次の瞬間にはもう姿が消えていたんだ」
ポポイがトキに気付いて言った。
部屋の窓は開け放たれ、風が強く吹き込んできていた。
「ヨギは世界が変わってしまったと言っていた。森の丸池の縁に倒れていたんだ。ここで何かを見たに違いないんだが」
トキはテオの困った様な笑顔を思い出していた。
あの少年は世界を変えてこの国を未来に導くと言っていた。
「ポポイ!」
その時、ミミを抱いたリッケが部屋に入ってきた。
「リッケ!どうしてここに来たんだ。その子を連れて集落に戻るんだ」
ポポイが声を荒げて言った。
「森が燃えている!北の方角から熱風が吹いてきているんだ!この集落も巻き込まれるぞ!取り敢えず南に逃れよう!」
リッケが更に声を荒げて言った。
その時、リッケに抱えられていたミミが鏡を真っ直ぐに指差して言った。
「ママ、パパがその中にいるよ。リリちゃんもいる。わたしも行く」
ミミは体を激しくくねらせ、リッケの腕から擦り抜けた。
「ミミ!待って!」
トキが慌てて駆け寄ったが、小さな体が目の前で鏡の中に消えて行った。
「そんな・・」
ポポイもリッケも何が起きたのか分からずに立ち尽くした。
トキは鏡の木枠を握り締めて膝を付いていた。
その鏡面にじっと目を凝らすと、自分の顔の揺らぎ微かな青白い光が奥の方から湧き出てくる様に見えた。
次の瞬間、その部屋の中からトキの姿も消えていた。
 
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故郷の家の食卓に父と母が並んで座っている。
ヨギはまだ幼い赤子で、少し離れた小さな寝台からそれを見ていた。
まだ弟のテオは母のお腹の中だった。
何の不安も無く、穏やかな気持ちがヨギを安心させていた。
突然、家の玄関の扉が開いて2人の幼い女の子が入ってきた。
ヨギはそれをただぼんやりと眺めていた。
寝台の木の柵に手を掛けて、2人はヨギをじっと見ている。
2人の顔は良く似ていて見分けが付かなかった。
やがて若い母が、赤毛を揺らしながら寝台のヨギを抱きかかえた。
優しくヨギに笑い掛け、窓辺に立ってゆったりと体を揺らす。
外には小さな庭があり、そこには幼いテオとヨギが泥だらけになって駆け回っていた。
その幼いヨギが庭から家の窓の方を見ると、部屋の中にトキが立っていた。
トキはヨギに向かって何か言っている様だった。
庭にいるヨギにその声が届かない。
空は高く、薄い雲が大きく広がっていた。
「ヨギ、森に火が放たれたみたいだ。ここから早く逃げて」
隣で泥の玉を手に持ったテオが、悲しそうな目をしてヨギに言った。
「テオ、君も一緒なんだろ?」
ヨギがもう一度窓の方を見ると、トキの姿は消えていてランタンの灯りが漏れてきていた。
いつの間にかすっかり日が暮れていて庭は薄闇に包まれていた。
「僕はここから出る事は出来ない。ヨギの世界では僕はもう死んでしまっているんだ」
テオは細い腕で赤毛の髪をクシャクシャにして泣きそうな顔で言った。
「でも、森の館で会ったじゃないか?あれは君だったじゃないか」
ヨギは幼いテオの腕を掴もうと手を伸ばした。
しかしその腕に触れる事はどうしても出来なかった。
「さあ、鏡の向こうに帰るんだ。ヨギ、君はこの世界の人間じゃない。この通路は塞がなくてはいけないんだ。僕は君たちの世界に大きな変化を起こした。沢山の人間が傷付いてしまった。でもこうするしか無かったんだ。やがて滅びる国の民へ、僕がすべき事はこれで終わったんだ。森の胞子がみんな火に包まれている。もう長くもたない」
次の瞬間、ヨギは森の中に独り立ち尽くしていた。
目の前に先端が見えない程の巨大な老木がそびえ立ち、
その傍らにあの鏡があった。
「ヨギ、僅かな間だったけど楽しかったよ。君は何も恥じるべき人間じゃない。胸を張って生きるべきだ」
テオの姿はどこにもなかったが、その声はヨギの耳にはっきりと届いていた。
「テオ!どこにいるんだ!俺はどうすればいいんだ!」
ヨギの叫び声が暗い森の中に響き渡った。
 
「ヨギ!」
声の方を振り向くと、トキが立っていた。
「トキ・・・・どうしてここに・・」
ヨギは力なく打ちひしがれた様によろめいた。
「あなたを探しに来たの。リリとミミも一緒にいるわ。この子達があの鏡の道を開けてくれたの。だからこの世界に来られた。この子達はこちら側の人間だったのね。いくつも存在する世界の一つであなたと私が授かった命。あなたは鏡の向こうの世界で私と生きていくのよ。あなたはあっちの世界で必要な人間なの。みんなあなたを待ってるわ」
トキの隣で2人の幼い女の子がヨギを見詰めていた。
2人共、しっかりとトキの手を握ってよく似た笑顔を見せていた。
ヨギは鏡の波紋を見た。
あの向こうには何度も過ちを繰り返す、滅びゆく国の民達がいる。
自分に一体何が出来るのか。戦争が終わりどんな世の中になっていくのか。
鏡面から眩しい程の光が溢れ出てきていた。
ヨギはトキの手を握ろうと手を伸ばし掛けたが思い留まり、
ゆっくりと一歩ずつ鏡に近付いていった。
波打つ鏡面は触れると暖かく、ヨギを光で包み込んだ。
「トキ、ありがとう。テオ、さようなら」
ヨギは最期に鏡の中で目を閉じて、振り返らずに小さく呟いた。
 
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ヨギが目を覚ましたのはオシムの村の旅籠の部屋だった。
窓辺にはポポイが立っていて、
小さな食卓にリッケとグンザンの姿も見えた。
「帰ってきたのか・・・?」
ヨギがゆっくりと体を起こそうとした時、
部屋の扉が開いてトキが入ってきた。
「ヨギ?気が付いたの!?」
トキが持っていた洗面器が床に落ちる音で、部屋にいた全員の視線がヨギに集まった。
トキが寝台に駆け寄ってヨギの体を支えた。
「皆無事なのか?森は?館の鏡は?」
ヨギが皆の顔を順番に眺めながら言った。
「火の勢いは大分収まったが、まだ燃え続けているみたいだ。赤目の集落は全て焼け落ちた。ロー族も他の集落の民も皆王都に非難している」
リッケがゆっくりと立ち上がって言った。
「そうか。あれからどれ位の時間が経ったんだ?王都の様子は?」
寝台の縁に腰を掛けヨギが言った。
「お前は3日間眠っていたんだ。王都は大混乱だよ。王宮の人間も赤目達もみんな消えちまったんだ。憲兵と警官隊が小競り合いをしているらしいが、あれは暫く落ち着きそうもねぇな」
リッケはまた椅子に座って持っていた巻たばこに火を点けた。
「ヨギ、テオはどうしたんだ?鏡の中で会ったのか?」
ポポイがヨギに言った。
「ああ、あの森の力がテオをこの世界に蘇らせたんだ。色々と不思議な物を見たけど、結局俺はあいつに何も返せなかった。何も出来なかったんだ」
ヨギは大きく息を吐いて、両手で顔を覆った。
「皆さん申し訳ないけれど、少しヨギと2人にしてもらってもいいですか?」
トキがヨギの目を見詰めながら言った。
「ああ、勿論」
リッケとポポイとグンザンが部屋から出て行った。
トキは小さく息を吐き、呼吸を整えてから口を開いた。
「ヨギ、私も長い夢を見ていた様な気持ちなの。あの館でテオにも会えた。彼はとても悲しそうな目で笑っていた。世界は余りに残酷に多くの代償を求める。あなたの辛い気持ちは私にも分かるわ。そしてどれだけの人や物が失われてしまった事か。あの双子の女の子は、今もどこかの世界で笑っているわ。私もこの世界であなたとあんな風に笑って生きていきたいと思う」
トキは肩を震わせ、流れる涙をそのままにヨギにゆっくりと語り掛けた。
その緋色の長い髪が、窓からの光を受けて美しく輝いていた。
「トキ、家に帰ろう。新しい生活を始めるんだ。俺達は沢山の命の上に立っている。信じる事さえ出来れば、世界は変えられると学んだんだ。テオやリリやミミも、鏡の中から俺達を見ているはずだ。笑って生きて行こう」
ヨギはトキの肩をしっかりと抱き、強く目を閉じた。
その時、微かにテオの声が聞こえた気がした。
「ああ、分かってるよ。テオ」
ヨギは笑顔でその声に心の中で答えた。


         完

illustration by chisa


         あとがき

こんにちは。ころっぷです。
この度は【やがて滅びる国の民へ】後編を読んで頂きありがとうございます。
初めてのSFファンタジーに挑戦し、その難しさに悶絶した3か月間でした。物語はいつもながらに長大になってしまい、
遂には前編・中編・後編に分かれてしまいました。
キャラクター設定や物語の展開にも苦労し、
やりたい事の半分も表現出来なかった様に感じます。

しかし、作品のクオリティ以上にこの経験は小説を書く上での、
良い経験になったと思っています。

皆さんの心に何かしらの変化があったらとても嬉しいです。

また次回作でお会い出来るのを楽しみに。

2023・8・30  ころっぷ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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