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短篇小説【閑話休題 目黒不動 丑三つの刻】

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長火鉢の中で炭がこけ、薄い煙が天井に昇っていく。
それを合図に障子の磨りガラスを通して月明りが部屋に射し込み、
畳の上にぽてっと落ちた。
視線を上げると庭木の風に揺れる影が障子に映っている。
ああ、時間がまた伸びる。
樹は目を細め、冷えた指先を火鉢に当ててゆっくりと息を吐いた。
明日の出立の準備は整っている。
まだ暗い内に家を出て駅まで歩かなくてはならない。
中々寝付けず、何を考えると無しに炭を弄りながら夜が更けていった。
遠くで犬の吠える声がする。
静かな夜に風に乗って届くその犬の声は、
幼い時に旅先で聞いた汽笛の様に寂しく響いた。
家の者は皆寝静まっている。
久方振りの米の飯を皆で食べ、父は僅かばかりの酒を飲んだ。
実質は口減らしに嫁ぐのだったが、形ばかりの樹への祝言代わりだった。
明日からは他家の者の世話を焼かねばならない。
何でも要領良くこなさねばならない。
そして見合いの相手を亭主と立てねばならない。
樹は来月十六になる。
長い戦争で、この国の素朴な明るさは徐々に失われていった。
ラジオの歌謡ショーも、地区の運動会も、妹の七五三も。
生きるに余分な贅沢や楽しみは、皆が申し合わせていく様に消えていった。残ったのは果てる事の無い時間だけだった。
樹が部屋の中を振り向くと、
隅に敷いた布団の上に老婆が正座してこちらを見ていた。
驚いたが声は出なかった。
寧ろ樹には好ましい事の様に思えた。
どちらにしても朝まで寝付ける気がしない。
樹は平生から不帰の者をこの家でよく見掛けていた。
特に害も無いので、家の他の者に言った事は無かった。
どこぞのばあちゃんだろうか。
樹は老婆の前に正座して、あちらから口を開くのを根気よく待った。
「眠れんのか?」
老婆は半ば目を閉じたまま、静かにそう言った。
「あなたは誰?」
樹が言葉尻に噛みつく様に老婆に問う。
問えば答えぬ訳にいかぬ事も知っていた。
「おれはあんたの曽祖母だか、あるいは曽孫だかだ。
どっちに三代だかは知らね」
老婆は樹の顔を繁々と眺めた。
皺だらけの手を唐草文様の絣の膝にちょんと乗せている。
「お名前は?」
樹は急に張り切って、髪を後ろに束ね大きく息を付いた。
「おれはのゑだ。あんたは樹だろが?」
老婆は気圧されず、ゆったりと答える。
その丸い背はどこか丘陵を思わせた。
まだ学徒が南洋に駆り出される前の事、
学校の遠足でどこぞの山腹から見た遠い河の蛇行が、
何故かその時樹の頭を過った。
あれはどれ位前の事だったか。
「あんた家を出るのかね?」
老婆が真っ直ぐに樹の目を見て言った。
「明日の朝一番の列車で、浜松の軍医の家に嫁ぎます。
旦那様は戦争で足を駄目にしてしまって、私がその世話をするのです」
そう答えながら、樹は何故か畳の縁の擦り切れた所が妙に気になって、
それをじっと見つめていた。
それが寂しい様子に映ったのか、老婆は俄か相好を崩し、
樹の手をおもむろに握ってきた。
「あんたはおれが怖くないんか?」
老婆の手は意外にほんのりと暖かかった。
樹が不帰の者に触れたのはこれが初めてだった。
大概彼等はこちらがそれと気が付くと煙の様に消えてしまう。
「ほら今、そこに」
などと樹が誰かに言おうものなら、
不帰の者らは気分を害してしまうのかも知れなかった。
だから何時からか樹は彼等の傍でただじっとして、
彼等の方で話し掛けてくるのを待つようになった。
壁の西洋時計が小さく刻を打つ。
いつの間にか丑三つの刻だった。
障子の向こうの庭木が風に枯れ枝を揺らす音がする。
樹は袂を捲り長火鉢に炭を足し、
益々更ける長夜に恰好の話し相手を得たと、
少し嬉しくもなっていたのだった。
 
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樹の家から歩いて直ぐに、目黒のお不動様がある。
天台宗の古い寺で霊験あらたかなる所、
全国から祈願者が絶えず集まる都下随一の名所であった。
樹は幼い頃から毎日の様にこの不動様を詣で、
境内を庭の様に駆け回っていた。
季節の花々を眺め、茂る雑木林で蟲、獣と戯れる内に、
どうやら樹にしか見えない者や聞こえない音がある事に気が付いた。
人に言えば気味悪がられ、時には叱られもしたので何時の日からか、
樹はその不可解な事を全て自分だけの秘め事にしてきた。
やがて国が長い戦争に入ると、世間は互いを監視する様に、
一致団結からはみ出る者を厳しく弾劾し始めた。
下町ののんびりとした風味は失われ、
特に外来文化の廃絶は日に日に厳しさを増していった。
樹はハイカラだった父親の影響で幼い頃から世界名作翻訳全集を読み漁っていた。
コレットやブロンテなどに夢中になり、
その物語の中で空想に耽る事を何よりの喜びにしていた。
戦争は樹から生きる喜びの一切を奪っていったと言える。
四つ年長の兄が兵隊に取られた事も、
不動信仰や外国文学に生き甲斐を感じていた少女にとっては、
国家神道と西洋との戦争は正に二重苦の様相であった。
「のゑさん、あなたは戦争を知ってる?」
樹は炭の中で呼吸する様に明滅する明るい火をじっと見つめ、
そっと呟いた。
「ああ、知っとる。おれが小せえ頃にはまだ丁髷のお侍さんがおってな。上野の御山で仰山の人が死んだよ。あらぁ酷ぇ戦じゃった」
老婆は両の手を火鉢の前で擦り合わせ、目を瞬かせていた。
その仕草は生きている人間と何ら変わらないと樹は思った。
「のゑさんは私の曾ばあ様だわ。お侍はずっと昔の話だもの」
樹は何だか妙に嬉しい心持ちになっていた。
火鉢に照らされた皺の刻まれた老婆の顔に、
自分のまだ知らぬ世界の片鱗を見付けた様な気がしていたのだった。
「ねぇ、のゑさん。あなたは何で私の名前を知っていたの?さっき名を呼んだでしょ?」
樹はもうすっかりこの老婆に親身な心持ちを持っていた。
幼い頃から樹は同年代の子供等よりも年寄り達と進んで交わっていた。
自分の知らない物事を、惜し気も無く諭してくれる年寄り達の老婆心が、
樹には何よりも好奇心を刺激される事だったのだ。
「ここらでおれ達の様な半端者の声を聞けるんはあんたしかおらんでな。あんたのばあ様も、母親も、兄弟も、皆おれ達の事は見えんのよ。だからあんたの事をここでずっと見ていたのさ」
老婆はやや照れてでもいる様に、
口元をもごもごさせて頻りに樹の事を指差しながら言った。
樹は益々この老婆の事が好きになっていた。
「のゑさんはこの家で暮らしていたの?私のおばあ様の母親って事?おじい様が婿だっていうのは私知っているの」
樹はこの時すっかり童心の様な心持ちになっていた。
気難しい父や、気分屋の母と相対する時の常である構えた所は、
この眠れぬ長夜の中には見当たらない様であった。
「そうさ、あんたのじい様は上野の呉服問屋の次男坊だったかの。大人しい面してようけ遊びに銭捨てる道楽もんじゃった。ほうけ言われて思い出した。おれは元より反対してたんだ、あん時は」
老婆はにやにやと顔に笑みを含ませて語り出した。
不帰の者にも思い出し笑いというものはある様だった。
「その二人の子供が私の父ね。おじい様に似ず実に堅物よ。毎朝新聞は隅から隅まで二度読むの。二度よ。そうしないと厠にも立たないのよ」
樹は炭の立てるじりじりとした音に耳をそばだて、
遠い日の家の風景を思い浮かべていた。
まだ戦争の気配の無い、平和で安寧とした日常。
四つ上の兄は尋常小学校の絵画展で金賞を取って父に珍しく褒められた。
あの頃の自分はまさか十六で遠く離れた地に嫁に行くとは夢にも思っていなかった。
何だか冗談の様な、この口を挟む余地の無い変化に今更ながら樹は驚いてしまう。
「この家はなぁ、その呉服問屋の次男坊が建てなさったのよ。道楽好きの大酒飲みだが、人付き合いが良かったのさ。そんで何かと頼まれたりする内に事業を起こしてなぁ。この家は江戸一の棟梁の普請で。震災にもびくともせなんだった」
老婆の話は樹にとって外国の物語の様に遠い出来事に聞こえた。
しかしそれが今の自分と繋がっているという事も片方では理解出来た。
それがとても不思議な事に思えるのだ。
国体主義の時勢であっても当然人の心内は様々で、
樹の様な年端も行かぬ娘であってもそれは膨張し続ける宇宙の様な思索があって当たり前なのであった。
「ねぇ、のゑさん。父は外国の物語が好きで、私にも翻訳全集を買ってくれたの。今は時節柄人前で読めるものじゃないけど、私には外国の人達も私達と何も変わらない人間だって思えるの。それっておかしい考えかしら」
静まり返った部屋にいやに明るい月の光が障子を通して差し込んでくる。
いつの間にか風は止み、しんとした凍てつく外の空気が部屋の中にまで伝わってくる。
樹は何時に無く饒舌で上機嫌な自分に気が付いてはっとした。
眠れぬ長夜を不帰の者と語らう事が、明日早く嫁ぎに家を出る身の自分には相応しくない様に急に感じられたのだ。
「のゑさん、ひとつ聞いてもいい?」
樹はそれでもやはり誰かに胸の内を話しておきたかった。
平生煙の様に消えてしまう不帰の者相手に手前勝手を省みる気持ちもあったのだが、十六の娘としての勢いは抑えるべくも無かった。
「何で?何でも聞いてくれ。おれに分る事だったら教えてあげるよ」
老婆は優しい声で言った。
樹は知らずの内に頬に涙が流れていた事にその時初めて気が付いた。
「私はどこに帰ればいいんだと思う?いつかのゑさんみたいになったら、この家に帰って来られるのかな?」
 
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東の空が少し白んできた。
老婆は相変わらず長火鉢の前で小さく座っていた。
向かい合わせで炭の世話をしながら、樹は黙って暫く考え事をしていた。
自分の行く末の事も勿論案じていたが、
それ以上にこの家に残す家族の事が心配であった。
戦況が日増しに悪化する中、
何時東京にアメリカの爆撃機が飛んでくるかも知れない。
つい先日も隣組の防火訓練と防空壕への避難訓練があった。
まだ幼い妹の事を考えると、
自分だけこうして田舎に疎開するのは心が痛む様でもあった。
戦争はあらゆる事を変えていったが、一番身に応えるのは家族の間でも互いの本心に建前が先付く様な事が増えた事だった。
すべてが言わずもがなであり、また言ってもどうする事も出来ず、
仕方ないという雰囲気が何もかもを支配していた。
それが樹には本当に辛かったのだった。
「あんたが行きたくないのなら、行かん方がええよ。それもまた人生だ。どちらにしてもその先には辛れぇ事も楽な事もあるでな。結局分からんのよ。皆どうすればいいのかなんてな」
老婆が突然口を開いたので、樹は肩をびくっとさせて驚いてしまった。
考えれば変な話だが、樹は目の前でじっと動かない老婆がもう眠ってしまったのだと思っていたのだった。
「のゑさんにも分からないよね。この先の事なんて」
樹は深く息を吐きながら言った。
「おれは随分長い間、暗い所にじっとしてたんだ。暑くも寒くも無く、時間も日もよう分らんかった。そしたらな、気がつくとうっすらとこの部屋が見えるのよ。最初はぼんやりとしてたんだけども、暗い押し入れの中から外を見ている様に、ぼんやりとこの部屋が見えたんだ」
老婆が急に目を見開いて立ち上がった。
音を立てずに畳を進み、そっと障子を引き開ける。
庭に面した硝子戸が明るく浮かび上がっているのが見えた。
樹も立ち上がって障子の隙間から外を見た。
道理で冷える。
雪が降ってきていた。
庭には既にうっすらと積もり、
月の灯りを反射して白く光っている様に見えた。
「こりゃ積もるねぇ。汽車は動かんかも知れんで」
老婆は何だか少し嬉しそうに言った。
「今日動かなくても、明日、それで駄目なら明後日。いずれ雪は溶けて汽車は走り出すわ」
樹は薄暗い夜空を見上げ、音も無く振り落ちてくる雪粒を茫然と眺めた。
考え事の中にいると時間が伸びる。
時間が伸びるとあらゆる事象の動きが緩慢に見えた。
炭の熱でぼーとした頭が外気で冷やされ心地良い。
吐く息が硝子戸を曇らせる。
今日という日が、もう二度と帰らぬ昨日を押し流していく。
「わしがこの家に嫁いできたんのもこんな雪の日だった。おれも見合いでな。ほんで生意気に心に決めた人が田舎におったのよ。んだからここに来んのは心底嫌だったんだ」
老婆の吐く息は硝子戸を曇らせなかった。
その顔を見ると悪戯をする子供の様に笑っていた。
「先の事なんか何も知らんかった。考えんのはいっつも昔の事ばっか。ああすれば良かったとか、こうしたからああなったとかな。皆そうよ」
老婆は静かに障子を閉め、また静かに部屋に戻り火鉢の前にゆっくりと腰を下ろした。
「のゑさんは後悔してないの?その好きだった人と一緒にならなかった事」
樹もまた老婆に合い向かい、炭に手をかざす。
「どうすれば良かったのかは、やっぱり分かんねぇのよ。でもこうなったからあんたのばあ様が生まれて、あんたの父親が生まれて、あんたが生まれた。それがやっぱりそう決まってたのかも知んねぇな」
老婆は何度か小さく頷き、目を閉じて独り言の様にそう呟いた。
その丸い背中をやっぱりお山の様だと樹は思い少し頬を緩ませた。
不帰の者と語らう長夜は、不思議な事ながらも少し滑稽でもあり、
それが樹に今夜がこの家で過ごす最後の夜であるという事を、
何故か強く意識させていた。
幼い頃から心に迷いや不安があると、
必ず唱えたお不動様の真言を樹は心の中で唱えた。
 
ノウマク サンマンダ バザラダン カン
 
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いつの間にか樹はうたた寝をしていた様で、
気が付くと火鉢の炭は冷え切っていて、
障子の磨りガラスから白い靄が漏れ入ってきていた。
はっと目を凝らすと火鉢の向こうの老婆は居なくなっていた。
布団の端の僅かな凹みが、不帰の者がそこにいた確かな証拠の様に樹には感じられた。
家はまだ静まり返っていて人の動く気配は無かった。
樹は静かに縁側に出て硝子戸を開けた。
雪は既に止んでいて、東の空が薄っすらと明るくなってきている。
遠くから貨物列車の通り過ぎる音が響いてきた。
息の続く限り肺に冷たい空気を吸い込む。
頭がすっきりしていく。
迷いの中にも進むべき道がある事が、何だか頼もしい事の様に思えた。
樹は素早く洗面し、余所行きの着物に着替えた。
玄関で真新しい草履に足袋を差し入れると、
自分の呼吸が何だか妙に逞しく感じた。
かじかむ両の掌にも、湿った庭の敷石を踏む両の足にも、
十六年分の月日が培った頼もしさを感じた。
曾祖母はこの日を選んで私に会いに来てくれたのだ。
何て事の無い顔をして随分と楽しそうでもあった。
樹はまた1つ忘れ難い物語を胸中に仕舞えたのを嬉しく思っていた。
 
「いつかまた帰ってくるからね」
樹はそう声に出して、静かにその家を後にした。

           完

illustration by chisa

          あとがき

こんにちは。ころっぷです。
この度は【閑話休題 目黒不動 丑三つの刻】を読んで頂き、
ありがとうございます。

今回の作品にはセンテンスの短い描写で、
スッキリと場面が伝わる様に描きたいという目標がありました。
習作を重ねる中で、一つ一つの作品の中に一応のテーマを
設けて少しでも成長していきたいと思っています。
物語は描写を重ねていく中で、それ自体が自然の動きを持って
作られていくものだと思っています。
結末も展開も用意せず、とりあえずの設定のみで
とにかく頭に浮かんだ景色を描写していく。
そうしている内にこれはこういう物語なのだと、
登場人物達に教えられたりします。
それが今の所、小説を書く事の一番の醍醐味の様です。

また次回作でお会い出来るのを楽しみに。

2023・11・30 ころっぷ






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