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「正しさ」こだわる程、心の豊かさは無くなる

人生でこじれる原因は
自己の正当化、正しさに拘る事です。

人は皆、どこかしらで
「自分は正しい」と
と思っています。

ここであなたに質問です
この世界の皆が「自分が正しい」と
思っているのに、その人なりの正義で生きているのにあなたは
「この人って本当に正しい魅力に溢れてるなぁ」
と、思う人
人生において何人居るでしょうか?。

大して居ないはずです
居ても「成功してるから」とか
その人の一部分を肯定してるか
自分と価値観の一部が
合致しているだけに過ぎないと思います。

確かに金銭的な成功者は
自分を正当化する能力が高かったりしますが
心の豊かさの面からしてみれば
自己の正当化、正義に拘る所は
メンタルのブロックでしかありません。

何故こんなにも僕は、自己の正当化と
正義を否定するのだと思いますか?

それは、叶いもしない
「幻想の世界」を、世界に投影し
わざわざ苦しみながら人も自分も
不快にさせるモノだからです。

悪い事が悪いのなら
命を奪っているので
食事すらしてはいけないという
事になります。

かと言って、ベジタリアンになることを
強要する人が愛に溢れるかと言えば
そんなことは無いと思います
植物にも命はありますし
人に強要するという事に愛は無いと感じませんか?
僕等は、罪を見ればいくらでも罪まみれなのです。

僕はパワハラにあった事があります
その上司は、何かチャンスがあれば
負の感情で人を攻撃してきます。
怒鳴れば問題が解決すると思ってるアホです。

誰も認めて無いのにプライドばかり高く
狡猾で、自分が攻撃されない為には何でもする
人を犠牲にすることに快楽を感じている悪魔にも見えていました。

精神年齢は小学生、いや小学生のほうがマシでしょ
と思える様な
僕にとっては「自我そのもの」な人で
本当に頭がおかしいなと思ってました。

当時は、僕もその人を裁いていましたが
その人を裁いていた僕は
そんな馬鹿にやられっぱなしの自分が許せませんでした、そして劣等感を強めていました
それはとても非生産的です。

今ならわかります
その人は、とても不幸でそうする他なかったのだと
ある意味、頭の悪い馬鹿で居なければならなかった
この世界の被害者なのだと
何かしらの強過ぎるコンプレックスがあるのだと
自分で望んでそんな馬鹿になっているわけでは無いのだと。

流石に僕は、その人に感謝まではしていませんが
誰にだって馬鹿な事をしてしまうときもあります
僕が前世で魂が未熟なとき、同じことをしてきたのかも知れません。

そして、僕はある意味
そんな人になにか言われた程度で
自身の価値が揺らぐような
自己イメージが悪かったとも思います。
(当時はどうしようもありませんでしたが)

今のマインドなら
そもそもイジメられなかったかも知れませんし
イジメるにしても、僕は相手を許しているので
相手もそんなに僕を責めないと思います
そして、裁いていた自分もまた
悪を裁く自我なのだと知れました。

何が言いたいかと言えば
人の罪を見て裁く事は
自分を裁く事になると言うことです。

あなたが顔に出さずとも
嫌な人と言うのは
自分が嫌われることに関しての
センサーが凄く敏感です
そういうの察してしまいます。

話は逸れましたが、自我的に見れば
「相手は明らかに間違っている
だから裁かれるべきと」
何度考えても思ってしまう
状況は誰しもあるでしょう
それはどうしても仕方ないのです。

しかしその
「相手は間違えている」という
自身の正しさを大事にしても、
心の解決の道はなかったりします。

自身の正しさを手放す事は
とても難しいかも知れませんが
その恩恵はとても大きいのです。



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