シベリア鉄道に乗って
ロシアを横断して、9,297㎞もの長距離を走るシベリア鉄道。その乗車を夢見て、ロシアを旅した三週間を振り返る。
ウランウデ バスで砂漠を抜けて
今回の旅では、まずモンゴルのウランバートルから入国し、ロシアの東にある都市ウランウデへ陸路で抜けようと考えていた。ウランバートル以西は砂漠が広がっているが、Google Mapsで見ると細い道路が確認できる。ネットで有力な情報は見つからなかったが、この地域に住む人々が使う公共バスがあるはずだと賭けに出て、とりあえず大陸に渡ってきたのである。この予想が当たっていた。泊まったドミトリーの受付のお姉さんが手ほどきしてくれて、なんとかロシア行きの長距離移動バスを予約することができた。
早朝からバスに揺られて一時間ほど走ると砂漠に出た。時おりぽつぽつと、ゲルや羊の群れが見える。はじめて目にする砂漠の、そのあまりの広さにくらくらした。
異国に来たなあと感慨にふけっていると、乗客のうちの一人が私に声をかけてきた。長い髪を一本の三つ編みに結わえた、きりっとした風情の若い女性である。暇だからお話しませんかと、私を隣の席に招いてくれたのである。普段はウランバートルで大学教授として社会学などの研究をしているが、息抜きがしたくなって長期の旅行を決めたのだという。私は英語が話せないので、会話はなかなか通じなかったが、彼女が「一緒のドミトリーに泊まろうよ」と誘ってくれたので、その晩は同じ宿に泊まることにした。
ウラン・ウデに到着したのは二十時くらいだった。驚いたのは、モンゴル的な顔立ちの人とロシア的な顔立ちの人がちょうど半々の比率で町で暮らしていたことだった。一緒に行動した彼女はさまざまな言語を使いこなせるようで、ある人にはモンゴル語、ある人にはロシア語で話しかけドミトリーまでの道を尋ねて回ってくれた。恐らくこの地域の人もロシア語、モンゴル語どちらも話せるのだろう。
彼女に金魚のふんのようについていき、予約したドミトリーがようやく見つかった。夜ご飯は近所の小さな売店で買って、ドミトリーのキッチンで食べることにした。塩漬けの青魚を手でちぎってパンに挟んだ即席料理を彼女が作ってくれたのだが、この地域をよく知る人の勧めとは言え、塩漬けのよく知らない魚を食べるのはすこし緊張した。塩辛い生ハムのような味わいで意外と美味だった。
イルクーツク 凍った湖にて
トルコに向かうという彼女と別れ、乗り合いタクシーに揺られること七時間。シベリア鉄道の停車地であるイルクーツクに降り立った頃には日が暮れかけていた。予約しておいたドミトリーを探すため、まずは町の中心地に出なければならない。バスを待っているおばあちゃんに声をかけ、スマホで地図を見せながら道を尋ねると、「教えてあげるから一緒のバスに乗ろう」という手ぶりで、道案内を快く引き受けてくれた。
バスに乗ると、おばあちゃんは運転手に何か申し伝えて乗車券を買った。後から気づいたのだが、私の分まで運賃を払ってくれていたらしい。「ここだよ」と教えてくれたので、笑顔で挨拶してバスを降りたのだが、改めて地図で場所を調べると、ドミトリーとまったく逆方向に来てしまったようだった。途方に暮れていたところ、銀行から英語が話せそうな男性が出てきたのですかさず道を尋ねた。すると親切にもアプリでタクシーを手配してくれた。発車の直前、「これは餞別です、よい旅を」と言われ、彼がこのタクシー代をすでに払ってくれたことにそこで気づいた。親切な二人のおかげで無事に宿に着くことができた。正直なところ、ロシアの地方都市に旅行に行く日本人はめったにいないと聞いていたので、アジア人差別に関して身構えていたが杞憂であった。それよりロシア語をもっと覚えてくるべきだったかもしれない。
さて、イルクーツクといえばロシア有数の湖、バイカル湖だ。三月でもまだ湖は凍っていて、その上を歩けるらしい。急な坂道をバスでいくつも越えて向かったが、運転がジェットコースター並みに荒いので、坂道を下るたびにお尻が浮く。
バイカル湖は想像したよりもずっと広く、その果てを確認することができない。茫洋と真っ白い氷の景色が続くのを眺めていると、大げさなようだけど、自分がどこで生まれ育ったどういう人間なのか、ということも分からなくなるようだった。どれくらいぼーっと立ち尽くしていただろうか。気づくと野良のハスキー犬が、人懐っこそうに寄ってきて、私の真横でおしっこをし始めた。黄色く染まった氷を見てようやく我に返ったのだった。
ドミトリーに戻る前に、スーパーで買い物をすることにした。私には海外旅行で必ずすると決めていることがある。一つは、スーパー内を隈なく撮影すること。もう一つは、その土地ならではの食材を買い自炊してみるということである。ドミトリーのキッチンで、アジア人がはじめて調理する野菜を手におろおろする姿は、地元の人によくウケる。料理がきっかけで、食材の調理法やその土地にまつわるこぼれ話を聞かせてもらえることも多い。
スーパー内でまず圧倒的に売り場の面積が割かれていたのが酒コーナーだった。それもウイスキーなど度数が強そうな大瓶の酒ばかり。次に目につくのが、チーズやバターの大きな塊を売っている乳製品のコーナーとビスケットのコーナー。ロシアではハード系ビスケットが、雑なビニール袋に大量に詰められたものが至る所で売られている。反対に、葉物野菜は種類が乏しく、どれもしおしおの状態で売られていた。じゃがいもだけは手に入りやすいようで、ワゴンにたくさん積まれている。
ここはやはり、ボルシチ的なスープを作ってみるのがいいかしらと思い、ビーツを購入することにした。そして下の写真が、何とか勘でこしらえたその料理である。トマトとビーツ、ウインナー、それに持ってきていたヌードルをごちゃまぜに煮込んだスープのほか、ハードビスケットを使ったケーキのようなもの、それからホットワインもつくってみた。おいしいロシア料理には程遠い出来栄えだったけれど、お腹を満たせたのでよしとした。
私の調理をはらはらと見守ってくれていたドミトリーのオーナーさんに、シベリア鉄道に乗ってみたい旨を相談すると、ホームページでチケットを購入するのを手伝ってくれた。予約してもらったのは、地元民が帰省などでよく使う三等席だ。私が購入したときは、全部合計して6161ルーブルでチケットを購入できた。(2020年現在の日本円で8000円程度)クラスノヤルツクで乗り換えて、モスクワまで五泊六日の旅程だ。これでいよいよ、念願のシベリア鉄道乗車である。
シベリア鉄道 その5日間
食料を買い込んで、真夜中イルクーツクを出発した。シベリア鉄道の三等席は、ずらっと並ぶ二段ベットの上段か下段を予約するようになっている。下段はゆったりとしていて日中は備え付けのテーブルを使うこともできるため少々高い。席もほとんど埋まっていたこともあり、私はすべて上段を予約していた。乗り込むと、はじめはアジア人が珍しいらしくぎょっとした顔をされたが、「上段のベットを予約しているんだ」と手振りで示すと、周囲の人が協力して、備え付けのシーツや荷物置き場の使い方について説明してくれた。
一泊して、クラスノヤルツクで別の電車に乗り換える。この時点で、すっかり体が痛くなっていた。上段のベットは、頭を上げて座れないほど天井との距離が近いのである。残り丸四日間、寝っ転がって過ごさなくてはいけないのか。しかも三月のシベリアは、窓の外の風景も雪景色ばかりで変わり映えしない。この旅のいちばんの目的であるシベリア鉄道だが、思いのほか退屈との勝負になりそうだと覚悟した。
ところがこれも杞憂であった。次々乗り込んでくる下段の乗客に親切にしてもらい、交流で忙しかったのである。私は、同じ鉄道に四日間乗りっぱなしだったが、地元の人はあまりそういう使い方はしないようで、半日、長くても二日だけ乗る人が多かった。そのため下段の住民はほぼ毎日入れ替わった。
初めに下段にいた男性に「どこから来たんだ」と聞かれたので、「ヤポーニヤ(Япония)」と答えると、彼は降りる際に次の乗客に「上段にいるのは日本から来た人で、鉄道に乗るのははじめてらしい」という旨を恐らく引き継いでくれた。そうすると次の乗客が私のことを手助けしてくれ、また降りる際に次の乗客に私の情報を引き継ぐ……ということが行われたのである。特に二、三日目は下段のおばあちゃんが手招きして私を自分のベッドに座らせてくれたので助かった。乗客には美しい装飾の施された銀のカップが貸し出され、列車内では自由にお湯が飲めるので、おばあちゃんと一緒に紅茶を楽しむことができた。編み物をするおばあちゃんの横で読書をする……なんと豊かな時間。さらに次の乗客は、毎回のご飯を一緒に食べようと誘ってくれた。持ち込んだきゅうりとハムを使ってサンドイッチを作り、毎食山盛り食べさせてくれるので、結局持ち込んだ食料にはほとんど手をつけなかった。そうこうしているうちに気づくと四日目の朝だった。憧れのモスクワに着いていた。
モスクワ 旅の終わりに
モスクワは曇天だった。早速予約しておいた宿を探す。物価はイルクーツクほど安くはないものの、宿は一泊500円だった。同室には、ファッションショーの仕事で来たモデルの女の子と、アジア系の五十代くらいの女性が二人泊まっていた。特にこの女性二人がロシア語の分からない私にちょっとおせっかいなほど、親切にしてくれた。夜中二時まで共用キッチンでだらだらしていると、必ずカップラーメンを作って私に食べさせようとするので毎回断るのが大変だった。ロシアのお母さんには、若者にはとにかく食わせなきゃいけないという強い信条があるらしい。
彼女たちがロシアのモスクワの観光名所についてこと細かに教えてくれたので、教えに従いプーシキン美術館をまず見に行った。かの有名な「赤の広場」でやっと中国の観光団体を見かけ、何となくほっとした。
モスクワはどこもかしこも壮大な造りの建物ばかりで圧倒された。、私がモスクワで最も心惹かれたのは蚤の市であった。ウォッカミュージアムという観光施設のそばに決まった曜日で毎週開かれていて、「何に使うの?」というような古道具から、ソ連マニア垂涎の骨董までさまざまなものが売られている。特に私はロシアの古いピンバッジを集めて回った。オリンピックの記念バッジや、いかにもソ連といったバッジ、子供向けの動物シリーズのバッジなどが1つ80円から手に入る。旅の最後にいいお土産を手に入れた。
あのシベリアの冷えた空気を今でも、時々吸いたくなる。旅で出会ったどの人にも、ありがとうと言う機会はもうないけれど、時おり飴玉をなめるようにして、彼らの笑顔を思い出している。(文・クサナギ)
※これは2019年3月に行った旅行について、2020年にまとめた日記です。内容は当時の情報です。
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