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【片親疎外】が尚早なら【片親誹謗】【片親悪口】でいいから子どもの傷として可視化してほしい―確かにそこにある困難として

 
 いま、確かにそこにある問題として、ほかの心の傷や問題と同じように、「見える化」してほしいものがある。

 自分の体験にもとづかないのに片方の親を「嫌い」「怖い」と思うことや、同居親から別居親の悪口を日常的に聞かされる痛みについてーーだ。

 人格形成の途中にある子どもにとって、苦痛じゃないはずがない。



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・医学的見地や大規模調査がなくとも「親の悪口を聞くのが苦痛」なのは普通かと・・・


 「片親疎外症候群」はまだ議論の途中で、不自然に別居親を「嫌い」「怖い」と言い出す子どもの状況すべてをそれに当てはめるのが難しいというのならば、少なくとも「日常的に片方の親の悪口を聞かされる」ことだけでも心の傷になると周知してほしい(それは、たとえ離婚や別居がなくてもだ)。

 該当する言葉がなにか必要なら「片親誹謗」や「片親悪口」でもいいと思う。複雑な家庭環境や、非日常的な状況が伴わなくても、このことだけで子どもの心が傷つく・・・ということに医学的、科学的な根拠や大規模な調査は必要だろうか?


(これは、DVや虐待等があっての離婚、別居ーーとは、まったく別の話だということを、あらかじめ書いておきたい。
 そういうことをしておいて、「なんとしても面会を」と(元)配偶者や子どもに恐怖を与える人の話は、まったく別物なので・・・)


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・「片方の親の悪口を聞かされ続けること」は心理的虐待ではないの?


 また、たとえば片方の親と離れ離れになり、何年間も子どものほうから連絡をとる手段がなかった場合。

 その子が成長し、やがて大人に近い年齢に達すると、状況ががらりと変わる・・・という話はよく見聞きする。

 自分の考えや手段をもって「もうひとりの親」を探すこと、会えるものなら会いたいと願うこと。自らの出自をたどる心理や願い――を抱くのは当然ではないかと思うし、実際にそういう人の話を何例も見聞きしたことがある。

 「会いたいという気持ちを抱くほうが少数派の可能性もある」と言い張ることのほうが、難しいのではないだろうか。――単純に、もし自分なら、会いたいと思うからだ(もちろん、自分の体験にもとづいて片方の親に恐怖や嫌悪を抱いていた場合は別だ)。

 片方の親の悪口を日常的に聞かされて育った子どもは心が傷つくし、片方の親と不自然な離別・断絶をした子どもはやがて自分からその親を求めるようになるーーこのことに、医学的、科学的見地や大規模な調査は必要だろうか?  

 だから、子どもの精神医学における「片親疎外症候群」が議論の途中であったとしても、「片親誹謗」「片親悪口」はやめましょう・・・まずこの考え方だけでも広めることはできないものだろうか?

 それだけでも今、少しだけでも、救われる子どもはいるのではないだろうか?

 厚生労働省が定義づけしている「子ども虐待」には「心理的虐待」も含まれていて、そこには「子どもの自尊心を傷つけるような言動など」とある。

 片方の親の誹謗や悪口は、これにあたらないのだろうか?

 

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・議論の途中なのは理解できるーーが客観的に「やはり不自然」とわかった場合はどうするの?


 ある1人の子どもがいる。一緒に住んでいたころはパパのこともママのことも好きだったのに、夫婦の不仲によって離れてから、別居親のことが急速に嫌いになってしまう。会いたくもないし、嫌悪感や恐怖心まで抱いてしまう・・・。

 こうした「状態」や「反応」のことを1980年代に片親疎外症候群と名付けたのはアメリカの児童精神科医リチャード・A・ガードナーという人だが、これを決定づけるには尚早で、まだ議論や調査の途中であるらしい。

 批判的、否定的な意見を大まかに解析すると、実際に暴力傾向のある親が「子どもが自分に会いたくないと言うのはこの症状が理由であるから、自分の暴力や虐待などとは無関係だし、そもそもそんなことはしていない」というような主張をする可能性があり、それが子どもへの危害やトラブルに繋がるおそれがあるーーということだ。

 もちろん、それは当然だろうと思う。ゾッとする話だ。


 実際、子どもがそうした拒絶反応をみせたとしても、それが果たして「症候群」と呼べるような精神医学的な状態であるか、疾病に準ずる状態であるかどうかは、確かな調査や根拠に基づくものでなくてはならない、というのも理性的には理解できる。

 ――けれど、でも、と思う。

 慎重に聞き取りや調査をした結果、「一緒にいる時はパパ(ママ)のことが好きだった」「同居時に虐待やネグレクトなどの事実がない」「離れて暮らすようになってから、別居親のことを嫌だと思うようになった」・・・ことがはっきりしたら、どうなのだろう。これは片親疎外症候群の可能性がある、と言えないのだろうか。

 

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・亡き姉の調停で驚きとともに見つめた、夫婦間の紛争による「子の変化」


 ーー子どもの痛みというものを、常々考える。

 いや、考えるようになったのだ。
 亡き姉の調停を間近で見守りながら。


 当時私は「子の連れ去り」「面会交流」「調停」というものの実態をほぼ知らなかったし、正直いって他人事だと思っていた。「こういうのがあるんだよ」と姉から「片親疎外症候群」という言葉を聞かされるまでは、10歳以下の子どもを2人、現在進行形で育てているのに、知らない概念だった。

 
 ところが姉の死後、起こった出来事を整理し、いろいろ調べている間、ガードナーという人が提唱した「片親疎外症候群の子どもにみられる主な8つの症状」として挙げている8項目に、姉の子どもの状況・言動がぴたりと一致することに、驚かずにはいられなかった。

 ここでは詳しく書かないが、とても多くの文献や調査資料、関係各所や弁護士のホームページなどに記載されている。
 たとえば「別居親を拒絶しているのは全部自分の考えであると強固に主張する」とか、「借りてきた脚本のように、同居親が語る別居親に対する敵対発言をなぞる」といったものだ。

 この8項目を読んだとき、本当にびっくりした。

 このことは子ども本人に悪意がないことは大人なら誰でもわかるし、成長とともに本人が「子ども時代の自分の感情や言動」を客観的にみるようになるであろうことはーー大方、想像がつく。

 調停をやっている間、姉の夫や、夫側の弁護士が何度も「会いたくないというのは子ども本人の意志ですから」と繰り返していたのも気になった。

 それは言い換えると、「おまえが自分で選んだことだろう」ということだ。成長し、「母親が亡くなるとわかっていても会わない選択をしたのは自分だ」と思うとき、本人はどんな気持ちがするだろう? 


 これは難しい判断ではあるけれど、「会うも会わないも周囲の大人の説得や後押しもあってそうなった」・・・というほうが、救いがある気もしてしまう。
 「すべて子ども本人が決めたこと」ーーとするのは残酷ではないだろうか? もちろん、ケースバイケースだとは思うけれど。

 


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・「私が子どもを愛していないと伝わっているのは明らかに間違った情報なのに!」


 姉の調停の場合、あらゆる点で(子どもが手元にいる)夫側の優位で進んでいった印象が否めなかったが、調停の場で大っぴらに「片親疎外症候群」という概念が話題にのぼることはなかった。

 子どもが家庭裁判所の調査官の聞き取りで何を話したか、その文書は双方が確実に読んだので、姉も、姉の弁護士も「その可能性」を主張し、最終的には裁判官も「母親への拒絶は同居親および周囲の大人からの影響」とはっきり記してくれた

 それはありがたかったが、夫側の弁護士は、最初から最後まで、子どもの言動に関して「その可能性」をなんら言及することはなかった。まるで、そんな知識や発想すらないかのように。夫側の弁護士だから当たり前だったのもしれないが、子どもの福祉にかかわる専門家の当たり前の知識として、同居親の弁護士であっても「その可能性」をふまえて審議に参加してほしかったーーと今では思う。

 姉はだから、最後は夫に対してだけでなく、夫側の弁護士に対してとても憤っていた。
 「子どもが『会いたくない』と言ってるからって、はいそうですかって、それでいいの? 夫にいろんな感情があるのはまだわかるけど、弁護士でしょう?」と。

 「依頼人のことだけじゃなく、長い目でみて子どもの福祉にかかわる人間として、本当にそれでいいの? 私が子どもを愛していないと伝わってるのは、明らかに間違った情報なのに!」と。

 ――いまから10年もさかのぼらない時期の話である。


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・同居、別居は関係ないーーただただ「人から親の悪口を言われることの悲しさ」を思う


 上記は姉の個人的な体験ではあるが、これを経て私はあれから「とりあえず、子どもに別居親の悪口を言うのはやめようよ」と思っている。

 
 ーーいや、別居親に限ったことではない。

 たとえば昭和のホームドラマでは、母親が子どもに『お父さんにようになってはいけませんよ。ちゃんと勉強して、いい大学に入るのよ』とよく言っていたような気がする。半分ギャグシーンのような扱いで、日常的に母親が唱えていたドラマもあったかもしれない。
 その時、子どもはどんな顔をしていたかなぁーー思い出せないけど。

 これも、今ではアウトかもしれない。
 学歴が大切だと思うのなら、「しっかり勉強して、自分の入りたい学校に入れるように頑張りなさい」でいいじゃないか。「勉強したほうが、希望する職種や生き方に近づけるのよ」・・・みたいな感じかな。べつに、スポーツに関する努力でもなんでもいいけれど、努力するのは自分のためで、「お父さんのようにならないため」ではないだろう、と思う。

 親の願いは一緒であっても、結局、言葉のチョイスの問題だ。お父さんやお母さんを引き合いに出す必要はない。ダメな親なら子どもはとっくに、子どもなりに理解している。自分で思うのと、人から言われるのとでは、大違いだ。


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・2人から生まれたから、半分の心と半分の体が痛む

 
 ――話がそれたが、結局、子どもの自尊心の問題にいきつくと思う。

 厚生労働省が虐待と定義づけている、傷つけてはいけない「子どもの自尊心」とはなんだろう
 
 2人の親から生まれた以上、片方の親を否定される、あるいは自分で否定してしまうことは、自分の半分を否定することにも繋がりかねない。半分の心、半分の体が痛むのだ(もちろん本当にひどい親もいるけれど、繰り返すがそれはまた別の話)。

 夫から見た妻、妻から見た夫と、子どもから見た父、母は、まったく違う存在だ。

 
 そのことをいま、本当に真剣に考えてみたいし、みんなで考えることができたら・・・と思っている。

 「片親疎外症候群」がまだ議論の途中なら、「それ『片親疎外症候群』ですよ」と断定しなくたっていい

 ただただ「片方の親を悪口を言われると、子どもは傷つきますよ」・・・この考えが、あたりまえのように、いまそこにある子どもの心の傷、困難として、認知されたらいいなと思う。


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・「片親誹謗」「片親悪口」は、ちゃんと痛いですと認知されますように

 
 1人ひとりの心の傷や生きづらさ、見過ごされてきたハラスメントが、けっこうなスピード感で「見える化」していっているこの時代

 場合によっては制度や法律が変わり、それぞれの困難に対する支援窓口がうまれ、具体的なサポート方法が確立されたりもしている。


 「個人の問題」「家庭の問題」「心が弱いから」「ガマンすればいい」・・・とされてきたことに、痛みや苦しみの名前がちゃんとつけられる時代になってきた。まだまだスタートラインかもしれないけれど。

 それらと同じように、「片親誹謗」「片親悪口」も、ちゃんと痛いですよ、苦しいんですよと、認知されていきますように。


自分自身で切り拓ける人生を、きみに



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