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【子どもと本】「読み解く力」以前に「読み〇〇力」を習慣で~文章のかたまりにひるまないってスゴイこと~(1)

 子どもはどうしたら本が好きになるんだろう。

 本の世界って本当は、いちど足を踏み入れると無限に広がっていることに気づくものだ。
 書店や図書館にはおもしろい本があふれているし、メディアには良書の紹介が山ほどある。ーーあるのだが、本に縁遠い子ども(あるいは親)にとっては、そもそも「どれならおもしろく読めるのかがわからない」「いろいろ選んで与えてもさっぱり読まない・・・」というのが、リアルな心情なのかもしれない。

 子どもの読解力、国語力が低下しているーーという話を毎日のように何かしらのメディアで見かけるし、それらを育てるには読書の積み重ねがいちばんなのは間違いない。

 けれど、私は思う。
 いまの子ども達はたぶん、まず本一冊を「読み切る」力が足りていない。いや、読み切るチャンスというべきか。

 なんやかんやと忙しかったり、スピード感や強い刺激のある娯楽に慣れてしまい、自分が読書するイメージがまず湧かないんじゃないだろうか。

 読み切れるから、読み解けるのだ。

 ーーということは、どういうことかを考える。


1.「本」というより「文章を読む」ことがまず課題

 もしかして重要なのはまず「面倒くさがらずに〝文章〟が読めること」ではないだろうか。

 いや文章を読むくらいなら、大抵の人はできるでしょう? 

 と思うかもしれないが、挿絵のほとんどない一般的な小説や、新聞記事は、読むのが苦手な人にとってはほぼ「ぼんやりとした文章のかたまり」で、読むのが面倒くさいものなのだ。
 特に子どもは「え~なんか面倒くさい・・・」とすぐに言うじゃないか・・・。
 でも、そうした長文をストレスなく読み進めることができ、自分なりに「そういうことか」と理解できること、これがまず大切な「読む力」だと思う。

 だって、本といえば漫画や雑誌だって本なのだから、
「本でも読みなさい!」という親に対して「読んでるよ」と子どもに漫画を見せられたら、親はそれ以上(とりあえず)返す言葉がない。
 本当に言いたいのはこうではないのか。

 「文章をしっかり読んで理解できるようになりなさい」 

 ――文章を読む力があるということ。もっと言えば「読み切る力」があること。ちょっとここから考えてみよう(ちなみに漫画や雑誌が悪いということではない。あくまで別物、という話)。
 

2.読み聞かせを続けても本好き小学生になるとは限らない理由

  
 一冊の本(長めの文章)を読める、面倒くさいと感じない。その力や感性を育てるうえで欠かせないのが、子ども時代からおもしろい物語を「読む」ことだと思う。

 「見る」「観る」とか、「読んでもらう」ではなく、自分で「読む」ことだ。

 読む力を育てるために物語が有効なのは、なんと言ってもおもしろさを感じることができるから。
 先の展開が知りたくて夢中になるーーワクワクする。最後まで読んで「そうだったのか」「こうなって良かった!」という子どもなりの感想を持つ。心が動くから、また次の本を求める。本人にとっては物語を知るのが目的で、読む力をつけるのが目的ではない。だからいい。それで結果的に、読む力が身に付く。

 ――基本的にはこの繰り返しだと思う。

 でもここで気になるのが、「赤ちゃんの頃からずっと読み聞かせをしてきたのに、小学生になったあたりからゲームや動画視聴ばかりに夢中で・・・」という親の声が多いことだ。

 私の身の周りだけを切り取っても、こういう家庭がかなりの数ある。
 それに加えて「子どもを本好きにするには読み聞かせを」という情報が多い割に、「子どものデジタル中毒で悩む親」も多い。このアンバランスについてどうしても考えてしまう。
 
 たぶん「読み聞かせを続けただけでは、本好きにならない可能性もある」ということなんだと思う(愛情表現としては、もちろんとても重要だ)。
 

3.「読んでもらう」と「自分で読む」はまったく別のもの

 
 なぜだろう――それは自分から主体的に、能動的に「文章を読む」という行為が、「おとなの膝で読んでもらう」行為とは根本的に違うからではないか。 
 読み聞かせは愛着を育み、本好きのキッカケにはなるが、
「その後も読み続ける」持続と発展の決定打にはならないのだ・・・たぶん。

 たとえば積極的に(文章メインの)本を楽しむ小学生がいるとして、その子はどこかの段階で必ず「読んでみたらおもしろかった」という〝自分主体の体験〟をしているはずだ。
 
 では、具体的にはどんな方法があるだろう(放っておいても本好きになる子もいるが、少数派だと思うので今ここでは言及しない)。

 たとえば図書館を何度か利用して我が子の好きな本の傾向をしっかり見定める・・・という方法がある。これは個人的には効果的だと思うし、我が子に実践したことではあるが、それだけでなく具体的に「読む力」を磨く方法として必須なのは、「自分でちゃんと最後まで読んでみる」「それを繰り返す」ということだ。

 ――最後まで読んでみる? 繰り返す?・・・当たり前すぎる、と思ったらすみません。

 でもこれこそが、「達成感」「読む喜び」という実感を伴った「本好きの引き出し」を自分の心に持つことへの入口なのだ。

 自分で読むことの達成感を味わったら、もう人に読んでもらおうとは思わなくなる(思う回数が減っていく)。


4.子ども時代の貴重な時間を「読み切る」ことに使う意味


 たとえば小学1年生。いきなり100ページ以上の児童書を読み切れというのが難しければ、最初は5ページ程度のショートショートでも、30ページ未満の短編でもいい。
 児童書というものは、作家や出版社といったプロが年齢相応のものを十分に考えて世に送りだしているので、投げ出さずとにかく読み切ってみてほしい。
  最初は時間がかかっても、頑張って最後まで読むと「こういう話だったんだ」ということがわかる。

 ――読み切れば、何かしらの知見は得る
 うまく言葉にできなくてもいい。読解力なんて後でいい
 
 読み切れたなら、次は少しだけ文章量の多い本や、内容がステップアップした一冊を選んで渡してみるのもいい(そういう選書が難しければ、おもしろそうな児童書ならとりあえずいいと割り切る手もある)。

 本好きとしては当たり前だが、どんな本も話も記事も「最後まで読んで書き手の意図やおもしろさ」が伝わるのが基本だ。

 もちろん1ページ目からグイグイ引き込まれれば素晴らしいのかもしれないが、10ページ、20ページと読み進めるにつれてワクワク感が高まり、そのうちに没入させられてしまうという構成はよくあるものだ。

 大人同士でもたまに、読書慣れしていない人から「小説を途中までしか読めなかった・・・」という話を聞くことがあるが、挫折箇所を確認すると「おもしろいところまでもう少しだったのに」と残念に思うことがある。

 だから、とにかく最後まで読んでみてほしい。
 ましてや子どもには時間がたっぷりとあるのだから。
 大人になると、子ども時代に与えられていた時間がいかに贅沢だったのかがよくわかる。

 読書は特別な能力でも趣味でもない。かなりベーシックな時間つぶしで、知識や娯楽の仕入れ先だ。けれどそれに気づいた時には既に大人で、子ども時代にもっと読んでいればよかった・・・と後悔している人に何人か会ったことがある(もちろん、その気になれば何歳からでも読んで楽しむことはできるけど)。 

5.「本好き」を期待するより、まず基本スキルとしての「読む力」を


 「鶏が先か卵が先か」・・・という言葉があるけれど、同じような観点で前々から感じていることがある。
 分厚い本を難なく読んでいる人に対して、そうでない人は「本好きだから長い文章を読む力がついたのだろう」と思うかもしれないが、私は実際は「文章を読む力があるから、本好きにもなれる」・・・そういう場合もあると思っている。

 何が言いたいかというと「最初から本好きになることを子どもに期待するより、スキルとしてまず読む力をつけたらどうかな」ということだ。

 しつこいが、とにかく子ども時代に「読み切る」を繰り返す。
 「もういい・・・」と投げ出さないための工夫は、しないよりしたほうがいい。たとえば短編から始める、できるだけ興味のありそうな本を選ぶ、シリーズものを選ぶ、中だるみしそうなら親も一緒に読んでみる、場面ごとの感想について会話しながら読む・・・など。
 けれどそれ以前にゲームや動画視聴が習慣化されていたり、周囲がうるさくて集中できない環境ではハードルが上がると思う。そのあたりも考慮しながら、とにかく「読み切る」を繰り返す。

 短い話でも「読み切る」とだんだん「自分は読み切ることができる」という自信が湧いてくるし、「読んでみたらおもしろかった」は、自分で体験してなんぼの実感だ。人から与えられるものじゃない。

 はじめは大した感想がなくてもいい。適切な言葉なんか浮かばなくても、読み切れば子どもなりに「そうだったんだ」がほんの少しでもあるはずだ。
  
 この「ほんの少し」の積み重ねが読む力につながっていく
 習慣化されれば、子どもにとって読書が日常的な娯楽になっていく。

 ――そうなるとどうなるのだろう。
 考えなくても文章が読めるようになる。
 慣れれば読書なんて大したことじゃないと気づいていく。
 
 読む力はひとつのスキル、習得する技術だ。
 技術なんて大げさなと思う人もいるかもしれないが、技術って結局「慣れ」の一種だと私は思う。だから慣れてもらうのだ、子どもに。そして子どもが何かに慣れるスピードは大人の想像を超えている。問題は、取り組むかどうかだけだと思う。


6.「興味のない文章」を読む時に必ず助けてくれるもの

 
 大抵の人が頭で考えなくても自転車に乗れるように、ピアノを習った人が楽譜を見ると自然に指が動くように、体に染み込んだ感覚で「文章を読む」スキルがあることは、何かと役に立つ
 高度な習い事と違って家庭でもできることなので、子ども時代に習得しておくに越したことはない。

 単純に「本が好き」「小説を読むのが娯楽」という人はそれでいいのだが、そうじゃない人にとっても「読む力」が役立つ、という話をここでちょっとしておきたい。

 たとえば一冊の本(長めの文章)を読む時には、主に2つの推進力が必要だ。

(1)   読む力。読み切る力。
(2)   内容への興味。文章そのもののおもしろさ。

 ――まずこの2つが揃えば、どんなものでもスイスイ読めるだろう。
 本好きが自分で読みたい本を選んで没入している時はこの状態で、寝食を忘れて結末を追いかけることもあるだろう。

 では(1)の「読む力・読み切る力」があり、(2)の「興味がない」場合はどうだろう。
 それでも、仕事や勉強などで読む必要性があれば、読める。スキルとして身に付いているからだ。そして読み切れば、何かしら得るものがある。

 では(1)の「読む力・読み切る力」は乏しいが、(2)「興味がある」「おもしろい」場合。
 これは一定の時間や労力がかかるが、読めるだろう。

 では(1)の「読む力・読み切る力」もなく、(2)の「興味もない」「おもしろくない」場合はどうだろう。

 大変なのはこれで、「だったら読まなきゃいい」と思うかもしれないが、現実には勉強や仕事などで、興味がない書類でも読む必要にかられることは多々あるし、さらには「読んで理解し、言動に活かさなければならない」ことだってある。こうなった段階で、「読み解く」以前に「読み切る」ことにストレスを感じると、その先のステップはかなり困難なものになるだろう。


7.「読もうと思えば読める」は身を助け、チャンスを生む

 
 読み進めるための推進力・・・「読む力・読み切る力」と「興味・おもしろさ」についてもう少し。
 さきほども書いたが、「興味・おもしろさ」度が低い場合でも、「読もうと思えば読める」力があることは、視野を広げる可能性に満ちていると思う。

 手前味噌ではあるが、我が家の小6娘は、とりあえず読む力はそれなりにある。
 試しに新聞の一面を見せて「ぜんぶ読んでみてと言われたらどう?」と聞くと、「・・・難しそうだし、おもしろくなさそうだけど、勉強として読むなら読んでもいい」との返答。
 一面全部は大変なので時事コラムを読んでもらうにとどめたが、政治や時事ネタの半分も理解できたかわからない。それでも「最後まで読み切った」ことが重要で、何かしらの知見はやはり得たと思う。

 特別好きじゃなくても、「読もうと思えば読める」力は大切だ。
 「やろうと思えば」は、ある意味では消極的な能力かもしれないが、たとえば日々の家事や料理だって似たようなものじゃないだろうか。好きじゃないけど包丁は使えるし、簡単な料理なら作れる。だから作る。これは、作れないとはまったく違う、生きる力のひとつだ。
 
 ちなみに、「読もうと思えば読める」力が身に付いている子どもには、「この本読んでみて」というお勧めもしやすい。
 最初は興味がイマイチでも、「試しに」「騙されたと思って」読んでみた結果、「ものすごくおもしろかった」「この作家の本もっと読んでみたい」というミラクルだってあるからだ。


8.「読み切れる」から「読み解ける」・・・この大切な順番


  子どもが「読み切る」努力をしている段階では、読解力を過度に求める必要はないと思う。もちろん、読解力があるに越したことはないし、子どもが「この本あのね・・・」と言ってきたら笑顔で話を聞いてあげたいが、まずは楽しく読書できているだけでも宝物のような時間だ。「読み解け、読み解け・・・」なんて考えてもしょうがない。

 ただ、「読み切る」を繰り返すと、自然と読むのが速くなる。

 簡単な文面なら、「読む」というより2~3行のかたまりを「見て」内容がほぼ理解できることもあるし、そのうち不思議と児童書一冊くらい軽々と読めるようになり、「すき間時間」や「気分転換」に読書できるようになっていく。

 読む冊数が増えれば必然的に自分にとっての感動作にも出会いやすく、「自分の好きな作家やジャンルの傾向」もわかるので、選書もうまくなっていく。
 好循環が生まれるのだ。

 
この循環がはじまると、子どもは学校の図書室から自分で選書して借りてくることが多くなるし、メディアで本の紹介を見ると「読みたい」というアンテナがパッと立つようになる。書店や図書館に行くと、キョロキョロしながら目を輝かせて本棚の道をスイスイ歩いて行ってしまうかもしれない。

 親が選書に悩み、読解力を求めて「良書」「ベストセラー」を用意するのもいいが、まずは身近な本で「読み切る経験」を重ねることも方法として試してみてほしい。

 読解力なんて、それからの話かな――と私は思う。
 読み切るから、読み解けるのだ。

 読書は体験だから、「本には書き手のメッセージがあるものなんだ」
「前半と後半はこういうふうにつながっていたんだ」「主人公が幸せになりますように」・・・と子どもは読みながらやがて考えるようになる。
 そして語彙力や文章力、表現力、集中力、想像力・・・が体に染みわたっていくのだと思う。


 後半につづきます↓
【子どもと本】「読み解く力」以前に「読み〇〇力」を習慣で~文章のかたまりにひるまないってスゴイこと~(2)|涼原永美 (note.com)

(後半内容)
9.言語感覚、リテラシーを「磨かないデメリット」の怖さ
10.「子どもが子どもの時代」を逃すと選書が難しくなるかも
11.親子で書店へ行ったのに、いちばん残念な行動って・・・
12. その本を読み切れないのは「内容が難しいから」じゃない
13.義務教育の国語だけでは「本好き」が生まれづらいと思う理由
14.スキじゃなくても九九みたいに基礎力として「読む力」があったなら
15.文章のかたまりにひるまないって、すごく楽しいこと




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