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親愛ならなかった母へ

母から逃げてきた私が、母になった。

妊娠を機に逃げるのをやめ、実家の近所に住み始めた。しかし息子が生後5ヶ月を迎えてから、また逃げた。

ままならない感情をずっと握りしめている。


母は、天真爛漫で、激情型の人だった。
寂しがり屋で自信がなくて、いつも何かに不安を抱えていた。
ときに「〜してあげなきゃ」の暴走で相手の力を奪う。
「自分は正しい」と「自分はメチャクチャに愚かだ」の間を高速で往復し続け、母自身、疲れていた。

「ことあるごとに父にイチャモンをつけて、ヒステリックにわめいている人」というのが、幼少期の私が母に抱いていた印象だ。しょっちゅう声を荒げて夫婦喧嘩をしていた。父母の応酬は、幼い私の背中を強張らせるのに十分な威力をもっていた。

整った顔立ちで、笑うときゅっと上がる口角や、ツンと細く尖った鼻が、若い頃は美人な印象だった。
ちょっとしたことでギャハギャハ笑う少女のような顔を見せたかと思うと、腹から出す甲高い大声でキレたりしていた。

それでも母は、率直な愛に溢れる人だった。
兄と私をまとめてハグしながら「あんたらはおかっちゃんの宝物やからなぁ」と、心底の笑顔で、おはようやおやすみのようなノリで言った。(私と兄に対する母の一人称は「おかっちゃん」である)
たまに作ってくれた、にんじんのすりおろし入りのパウンドケーキは素朴な味でおいしかった。

私は母が怖かった。でも、どうしても甘えたくて、やさしく抱きしめてほしい相手だった。

芝居スイッチ

私が高校生になった頃から、母の不安定さが加速した。

父母の夫婦仲はこれ以上ないほどに険悪だった。フリーランスの在宅ワーカーだった父の仕事はうまくいかなくなっていった。父は頑張りすぎて疲れて果てていた。病気で入院し、以後は燃え尽き症候群のようだった。

夫婦関係の不満、経済的な不安。母は全てを私にぶつけてきた。私は母にとって都合の良い人形でなくてはならなかった。

築40年、3階建の集合住宅1階。母と私が寝る2段ベッドと、ポストの投入口みたいな縦横比の学習机を敷き詰めた6畳の洋室。

私が学校から帰ってから、または晩御飯が終わってから。母は私を畜生か何かのようにその部屋に手招きして、学習机の前に座らせる。3時間に渡るルーチンが始まる。母は私を見下ろすかたちで立っている。私は愚痴や罵倒のサンドバッグになる。

まずは父の愚痴。「あいつはゴミや」「けったいな母親に甘やかされて育ったからああなった」などと。毎回似たような内容だ。
私はお父さんっ子だった。母から吐き出される言葉たちが初めのうちは辛かったが、いろんなことがだんだんどうでもよくなっていった。

程なく矛先は父から私に向く。スイッチが入る。

母には「芝居スイッチ」があるらしい。
激情すると、芝居がかった物言いになる。的確に相手を傷つける言葉を選んで、それらを執拗に擦り付けてきた。わかりやすく罵倒する言葉も惜しみなく繰り出した。粘着的な、通常より半トーン高い声で、白雪姫の継母の方が100倍上品だったんじゃないかと思うような表情と間延びした口調で。

「あ〜あ、あんたは愚かで可哀想やねぇ」「本当に頭が悪いんやねぇ」「性根が腐ってるもんなぁ」「こんな人間で哀れやわぁ」

こうやって文字にすると、滑稽でアホらしくてしょうがない言葉ばかりだ。しかし当時は、つむじからつま先まで嫌悪感に覆われた。鳥肌が立つ。胃から何かが迫り上がってくる。

いったん芝居スイッチが入ると日本語が通じない暴言マシーンと化すため、話し合いなどもってのほかだった。一言でも反論しようものなら「親に向かってなんやその態度は」とVシネのヤクザみたいになる。苛立ちを表情に出すと、また「芝居」を別ジャンルに切り替え、こちらが立ち上がってもいないのに「暴力はやめて!!」と甲高い叫び声をあげて過剰反応するのだった。

その毎日の繰り返し。二人部屋でのルーチンが終わって23時ごろ、先に寝る母をよそに隣のリビングで宿題やテスト勉強をしていると、シャーペンの音がうるさいと怒鳴られる。
時に母は、奇声を上げながら父の部屋のドアを蹴りまくることもした。壊れたゼンマイ仕掛けの人形のようだった。


目を開けていながら、何も見ないよう努めた。

そうして何も見えなくなったはずなのに、他人の視線が怖くなった。道ですれ違う人、電車で乗り合わせた学生。みんな私を馬鹿にしている気がして顔を上げにくくなった。

依存先の私がいなくなれば母はまともになるだろうか、苦痛のない方法はないかな、と、高校に向かう道すがらぼんやり考えていた。

金がない金がない、という母の言葉が、毎日鼓膜を鈍く振るわせる。ちゃんと高校卒業できるのかな、大学受験できるのかな、さっさと働いたほうがいいのかも、そもそもちゃんと大人になれるのかな、と心許なかった。

大学生や社会人になる未来は現実感がなく、まして結婚や子育てなんて、きっと自分には選べないものだろうと、なんとなく思っていた。

***

母は時折、涙ながらに私に謝ってきた。
「あほな母親を許してや。おかっちゃんも大変な人生やったんや」
そして、自分や自分の親の過去を語った。生い立ちのこと、自分の父親が「大変な人」だったこと。激流に揉まれるような半生だったこと。


過去が波乱に満ちていたとしても、それを免罪符に子供をいじめて良いわけはない。
ただ、母が途中で人生を投げ出していたら、私は存在しない。
母がもし、生きる残り時間という器を放棄していたら。兄も私も、どこにも存在せずじまいだった。

母はいつもギリギリのところで踏ん張って、器を乗りこなし続けていた。

後頭部の母

私の30年もそれなりに起伏があった。

高校3年生のときに一家心中の危機を迎えたが、ちょっとした奇跡によりそれをまぬがれ、大学進学もできた。授業料免除と奨学金のコンボのおかげで、優等生からかけ離れた学生だったにもかかわらず何とか卒業し、社会人になった。

依然として母は不安定だった。被害妄想や見捨てられ不安からか、私をすぐ口撃した。

そんな母と一緒にいる時間を極力減らしたかった私は、なるべく母から物理的距離をとるようにした。

大学時代は恋人や友達の家を渡り歩きあまり家には帰らなくなったし、社会人2年目で家を出た。職場は家から片道小一時間で通える場所だったが。

母は、自分から離れていく娘を快く思わない心の内を、態度で示した。

20代の間、年末年始とお盆、母の日が憂鬱だった。もう実家とあまり関わりたくなかった。

***

もう絶縁するしかないかもしれない、と思い詰めたのは私が27歳の夏だった。

キャリアチェンジを検討していた当時、職場での部署異動があった。異動先の女性上司が職場でも有名な「嵐を呼ぶ人」で、母を10倍ぐらい薄めた感じの「やばい人」だった。私の中の何かが波立つのを止められず、私は休職した。

その頃、母は私に避けらたり疎まれるのが耐え難い様子で、私に執着していた時期だった。初めは、休職した私に寄り添っていた。それはしんどいなぁ、それは大変な上司やなぁ。相槌を打っていた。

私は異動前からキャリアチェンジを検討していたため、葛藤もあったが復職しないまま退職すると決めた。すると母は急に手のひらを返した。準公務員という安定した仕事を手放す娘が許せなかったのだ。

そのとき、実家のリビングに母といたと思う。母は、退職を決めている私にこう吐き捨てた。「芝居スイッチ」をオンにして、何かの悪役でも演じているかのような態度と声音で。

「あーあ、あんたの上司が可哀想でしゃあない。幼稚で何の役にも立たん仕事もできんあんたをせっかく教育してくれてたのに。あんたのせいで、悪者扱いされてるんとちゃうん。はあ、可哀想になぁ」

珍しく私はキレた。「し、」と口から漏れたが、2文字目はなけなしの理性が飲み込ませた。放水中の消防車のホースがその身を悶えさせるように、私の内側で熱を孕んだ何かが暴れ回った。私はバッグを乱暴に引っ掴んで実家を後にした。もう2度と会いたくない、と思った。

***

母だけでなく私自身も、ずっと不安定だった。母の生き霊を後頭部あたりに住まわせている感覚だった。仕事も恋愛も友人関係も自信がない。常に安心できない、物事に集中できない、地に足つかない。

歳を重ねるにつれて表面上を取り繕うのはうまくなったが、誰といても誰とご飯を食べていても、実のところでは全く寛げなかった。目の前にいない誰かに監視され批評に晒されている心地でいた。

私が私で在ることがしんどかった。母親と一緒にいることに居心地の悪さを感じ続ける自分が幼稚であるように思えて、恥じていた。仲良くならなきゃいけないのになれない、と苦しかった。罪の意識もあった。母との確執や自分の生きづらさをどうにか解決しなくてはならない、と必死の思いで本やインターネットの情報を読み漁った。しかし徒労感や虚しさに苛まれるばかりだった。いつまで私はこんななんだ、と眉間が重たかった。いつも漠然と寂しかった。母を、ちゃんと、愛したかった。

3歩進んで2歩下がる

そんな私も結婚した。どうせ結婚できないだろうしいい感じに家庭を築ける気がしない、とぼんやり思ってきたのに。人生はわからない。

夫は、学生時代の後輩だった。後輩が友人になり、恋人になった。時に兄や弟や父のようでもある。私にとって、一緒にいるとき深い呼吸ができる稀有な人なのだった。私の精神的基盤を固めてくれた。

ほぼ同時期、父方の祖母が他界した。それと関係があるのかないのか、父の母に対する態度が軟化したらしい。父母の夫婦関係は修復されていった。
母はトゲが抜けていき、私への接し方もかなりマイルドになった。

静かな急展開だった。

***

そして2024年。春はまだ遠い寒い日に、息子は生まれた。
息子の誕生について「人生で最も素晴らしいことが起きた」と、母は父に話していたらしい。

母は息子をなぜか「ぷぴちゃん、ぷぴちゃん」と呼ぶ。そう呼びながら、息子の土踏まずのないぷくぷくとした足を触ったり、弾力あるほっぺたをつついたりしている。

呼び方の理由は尋ねていないが、英語の「puppy」に由来すると思われる。子犬、という意味だ。孫のことを子犬か、と釈然としないが、愛情を込めて呼んでいるようなので、好きなように呼んでもらったらいい。

母が家に来ると内心では気を遣っていたが、以前のように険悪な空気は流れなくなったし恐怖心も大幅に減っていた。母は息子のことが可愛くて仕方ないようだった。

このまま関係が完全に良くなれば、と思っていた。

***

ところが、また状況が後退する。

生後4ヶ月を過ぎた頃、息子がアレルギー性の気管支炎になった。小さな体で咳き込み続けとても苦しそうだった。アレルゲンはわからない。ハウスダストか寒暖差か。私も同じタイミングで体調不良が続いていた。

私が掃除を怠った「良くない母」であるゆえに息子が苦しんでいるのかもしれない、と思うと申し訳なくて恥ずかしくて、体調不良も相まってひどく疲れていた。

そんなときに、母が家に来た。状況を伝えると、言った。

「ちゃんと掃除しなさいよ。あんたの仕事やろ。おもちゃは日干ししてるんか。そこもめっちゃ散らかって。片付けたらどう。カーテン洗濯してるんか。カーテンレールとか壁のちょっとした出っ張りやってホコリ溜まるんやで。ベッドの上やって洗濯物とか服なんとかしなさいよ。ちゃんとしてあげなあかんやろ」

3歳までは母親が子供のそばで世話をすべき、と考える母は、私が息子を来年の春に保育園に通わせようとしていることを快く思っていなかった。仕事の準備やそれに関連する勉強をしていることも。

「そんなことより、あんたの仕事は家事育児を全うすることやろ。その自分の本分を疎かにするから子供が病気してるんやろ。何してるねん」
と言外に言われている気がした。

アレルゲンがハウスダストだったのかはわからないが「母親として最低限の義務は果たせ」は間違っていない。わかっている。けれど、涙が出た。恥ずかしくて悔しくて。それだけじゃない。寄り添ってほしかったのだ。明らかに体調が悪いときに、正論で責めないでほしかった。自分でも甘ったれだとわかっている、でもまずは体調を慮ってほしかった。

長い年月をかけて作り込まれた、私の中の負の母像が勝手に暴走し、発火した。

これは私の問題だ。

首の裏や肩甲骨あたりが甲羅のように固くなる感覚を覚えた。そんな自分も恥ずかしくて嫌でどうしようもなくて、しばらく涙が出た。

それから、母の訪問を拒否した。近くに住んでいるけど、息子に会いたがっているけど、拒んだ。今の母は、それでも無理やり押しかけてくるような強引さはなかった。

いつまでも過去にまつわる被害者意識を握りしめている自分は、幼稚で恥ずかしいと思った。けれど、距離をとりたかったのだ。母の顔を見ると、私の中の何かが引火してネズミ花火のように暴走してしまうと思った。

私はまた、母から逃げた。

でも、母に会わない間もずっと母のことを考えていた。何かしている間も、頭の別の部分では母のことを考え続けているという感じだった。もう34歳なのに、私はなんでこうなんだ、とお腹のあたりが鈍く痛んだ。


母の訪問を拒み始めてから1ヶ月が経とうとする頃、ようやく心が凪いできて、そろそろ会っても大丈夫かも、と思った。
その頃合いで母から、私への誕生日プレゼントを渡したいからそちらに行きたい、とLINEが来た。いいよ、と伝えた。

1ヶ月ぶりの母は、通常運転だった。不安定な感じはなかった。記憶の中の、常軌を逸した母とは違う、今の母がいた。

ずっと母の目が怖かった。激情して芝居スイッチの入った目を見るのが怖かった。
けれど私の眼前の今の母は、穏やかな目をしていた。息子にも私にも、邪気のない目を細めて笑いかけた。


翌朝、顔を洗おうと鏡に向き合うと、しばらく続いていた目のむくみが取れていた。何度かまばたきしてみるなどした。

だからなんだ

小学生の頃、なぜ母と結婚したのか父に尋ねたことがあった。
「お母さんはめちゃくちゃな人やけど、心がきれいやから結婚した」と父は言った。なるほどと思った。

そういえば、私が生まれる少し前に亡くなった祖父のことを、母は恨みがましく語らなかった。母と祖父の間には、数多の攻防があったにも関わらず。
祖母が亡くなってからおかしくなってしまった、と話すときの口調はさらりとしている。祖父の誕生日と命日には家のリビングに花を飾る。

それを「心のきれいさ」と表現するのが適切かわからないが、祖父を語る母の声はたいてい明るかった。祖母を愛しユーモアに溢れる人だった、というようなことを顔をほころばせて話した。


母は、悪魔的になってしまう病気だったのだろう。

その病気と共存しながら、一心不乱に懸命に生きてきたのだ。血を流しながら、その場しのぎの応急処置だけで走り続けてきたのだろう。今日まで生き抜いてきてくれた。だから兄が、私が存在する。


ふとしたときに、30年ほど前の日常が私の脳裏に映し出される。

吠えるように父と喧嘩したかと思えば、やさしく子守唄を歌って寝かしつけてくれた。かぐや姫の『神田川』が寝かしつけソングだった。ただあなたの優しさが怖かった、というサビ最後のフレーズは、ふかふかの布団やタオルケットを私に想起させる。

私のプロレスごっこに心底楽しそうに付き合ってくれた。

台所の流しで食器を洗う母の横顔のその口元が真一文字で怖いときも多々あった。

けれどやはり時折、兄と私をまとめてハグして相好を崩し「あんたらはおかっちゃんの宝物やからなぁ」と言った。

***

家族を大切にしたいのに、ひどく傷つける方法ばかり選んでしまっていた母。兄と私への一人称は「おかっちゃん」なのに、孫には「グランマ」と呼ばせようとしている。洋楽と洋画ばかり摂取するのに、私に歌い聞かせていた子守唄はかぐや姫の『神田川』。いちいち一貫しない。

母とのマイナスな思い出を全て洗い流してしまいたいのに、手放せない私。母の存在は大切だけど、屈託ない笑顔を向けるのは難しい。すぐに引火してしまう気持ちもあるけど、母には心軽やかに暮らしていてほしい。私も矛盾だらけだ。

母と私は今も、一貫しないものと同居したまま生きている。

***

私は10歳ごろまで、母方のアメリカの親戚と文通していた。まだ携帯電話を手にしていなかった時代だ。母は、英語の手紙の作法を簡単に教えてくれた。

「Dear + 〇〇」すなわち「親愛なる〇〇へ」から始めて、「Love + ◻︎◻︎」つまり「愛を込めて ◻︎◻︎より」で終える。

親愛なる、という馴染みのない甘やかな響きが、一気に自分を成熟させてくれる気がして、Dearと手紙を書き出すのが楽しかった。

いつかDearの心もちで、胸の内を母にしたためることができるだろうか。

***

母の芝居スイッチが入る音を、ここ数年聞いていない。
価値観の相違は感じるが、それは「異常」ではないと思う。

だからと言って、
人は変われるんだなあ、めでたしめでたし。
というわけにはいかない。

母の言動にいまだに一喜一憂してしまう自分のメンタリティは依然として課題だ。母の芝居スイッチが健在だろうがどうだろうが、私は私の日々を淡々と暮らし抜ける方が良い。だいたい、昔の母がカムバックしてしまう可能性だってゼロじゃない。そんな疑念も捨てきれない。

10年前の私が今の私を見たらどう思うだろうか。諸問題がスッキリとは解決していないことに落胆するのだろうか。

30代も半ばを迎える今だって、人の顔色は気にしてしまうし、すぐ自分の粗探しをしてしまうし。いろんなことを宙に浮かせたまま、矛盾を抱えたままだ。


でも、だからなんだ。
細かいことがどうであれ、夫の作るスパイスキーマカレーは私の胃袋から胸にかけての体の芯を温めてくれるし、息子は横隔膜を上下させてケラケラと笑うようになった。少し前までは、誰といても内心は安らげなかったのに、今は友人と寛いで話している自分に気づく。

運が良かったに違いなく、現在のすべてが全く当たり前でないのは、そうだ。
ただ、これまでの何かが1mmでもズレていたら何もかもが違っていたはずで。そう考えると、周囲や親先祖に謝意を示すと同時に、恥や罪悪を携えてもがいてきた自分のことも、少しは労ったって良いんじゃないかと思う。半端な自分と、居心地よく暮らしていくために。


まもなく梅雨が明ける。

先日、1日中雨が降った。
夕方雨が上がってから、息子を抱っこして近所の畑まで散歩に出た。
息子の顔よりも大きな里芋の葉っぱに、雨粒が幾つもビー玉みたいにくっついていた。夕陽を受けて自ら発光しているように見えた。
私の顎の下でキョロキョロと周りを見渡す息子の瞳と少し似ていると思った。

我らがぷぴちゃんこと息子は今日も、熱心に指をしゃぶっている。ときどき、丸呑みする勢いで自らの拳に噛みついている。器を乗りこなしている。


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