『執筆』
もう、去年末になるのですね。
私は過去に『壊れた期待』という題名で記事をかきました。
この時から私は、何も変わっていません。今でもこの記事を読んでしっくり来るし、今日のように時偶、この記事のことを思い出す時もあります。
今までの私は、滅多に過去の記事を引用したことがなく、とにかく毎週記事をかき続けてきましたが。最近は、こうして引用してもう一度練り直して何かをかくのも悪くないなと感じ、古いものを引っ張ってくるようになりました。
今日はなんというか。
そういう心境の変化についてお話できたらと思います。
私の投稿スタイル
私はおそらく、昔の記事を読むのが、心の中でどこか怖いと感じていたのだろうと思います。
noteの記事はずっと、かいたら読み直しもせず投稿!って感じのスタイルで投稿しています。それは今も昔も、あまり変わっていません。
そのため、読み直すとどうしても粗を見つけてしまうんですよね。
表現や言い回しとか、そもそもの言葉遣いとか、その時々の考え方とか、読み直していれば修正したのに!今ならこう思うのに!と感じてしまうため、振り返るたびに手を加えていたらキリがないし、読んでみたら黒歴史読み返してるような気がして、小っ恥ずかしくなるものもあるでしょうし。
まあ、記事も創作ですからね。そういうものなんですよ。
創作は恥ずかしいもの。(?)
でも最近は、執筆スタイルに少し変化が出てきました。
前後の文とのつながりを把握するため、一から読み直して次の項目をかいたり、前の項目から言葉を引用したり。そうしていく中で、文章の不備程度は修正を加えるようになりました。
あと、毎回ではないのですが、全部を読み直すことも最近は増えたような気がします。
というか、ここしばらく、スランプだなと感じていたんですよね。
理由はよくわからないんですけど、何を記事にするかがパッと浮かばなかったり、題材は決まっても文章が上手く吐き出せなかったり、全く逆に、疲れ過ぎてかき殴ったようなものしかかけなくなったりしていました。
文章が上手く吐き出せないから、「ここまで何かいたっけ?」と読み直して、「ああ、これをかきたいと思っていたんだった」と思い出しの作業をせざるを得ない。或いは、とりあえず記事ができても、なんとなく満足感が無く、なんとなく読み直してしまったり。
読み直すと必ず、気になる言葉遣いの一つや二つは見つかるものですから、その流れの中で自然と加筆・修正がされていくわけですね。
誰かに読まれている実感
ここにきて今更?と感じるかもしれませんが。
最近になって、「こうやって記事を公開した以上、誰かしらの目には止まっているんだよな」ということを、ほんの少し実感するようになりました。
『壊れた期待』を執筆したときは、「誰にも読まれるわけがない」と諦め切っていたから、雑な記事を雑に投稿しても、特に何も感じていませんでしたね。どうせ誰にも読まれないのだから。
しかし最近になって、「誰かに読まれるかもしれないから、ちょっとくらい読み返して修正した方が良くね?」って思い始めたわけです。
もちろん、当時から相変わらず、「必ず読んでくれる人がいる!」という期待は全くありません。
でも、「誰の目にも全く止まらない」とまでは感じなくなってきたのかもしれない。自分が記事を投稿して、画面の向こうに”誰か”がいることを、強く認識するようになってきました。
どういう変化なのか、的確に言葉を見つけることが難しいのですが。
先週の記事とか、今現在で4つのいいねをいただきました。そういう反応を、以前よりかはだいぶ気にするようになったのかもしれません。
相変わらず、ダッシュボードの確認をするほどまめな人にはなれていませんけれどもね。←
今更になって、自分のやってきたことに、ちょっとくらいは意味や価値があったのかもなと、少し前向きに感じ始めています。
「才能がある」わけがない
最近、2名くらいの人から、「才能がある」という言葉を向けられまして。
まあ全く別のシチュエーションで、一人は「才能があっていいよなお前は」みたいな捨て台詞で、もう一人は「やっぱ才能があるんだね、すごい!」みたいな褒め言葉でした。
でも、私はそのどちらにも、心につっかかるものを感じました。前者には「ちげーよ!ばーか!!」って思うし、後者には「そう褒められても嬉しくない…」と思いました。その時に口にしなかった代わりに、ここで文字にさせてもらいます。
私が今持っている全ては、私が自然と手にしたものではなく、私の努力の積み重ねによって自ら手に入れたものだと思っています。良いものも悪いものも、全て。
自分で選んだ人生の結果で、自分が歩む中で得られた成果なので、それを「才能だ」と一言にまとめられると、「今までの努力は一体なんなんだ」と、少し悲しい気持ちになります。
私はあまり野球に詳しくないのですが、『大谷翔平』と言えば、野球界の大スターですよね。野球に詳しくない私でも知っています。
私の知っている世界ならば、フィギュアスケーターの『坂本花織』は、2022年冬季五輪で銅メダル、世界選手権を2連覇し、今シーズンは3連覇を目指しているようです。
結果だけを見れば、彼も彼女も、天才であることは間違いないでしょうが。現実的には、気が遠くなるほどの回数、ボールを投げて、バットを振って、ボールを拾って…、ジャンプを飛んで、スピンを回って、ステップを踏んで…、走り込んだり筋トレをしたり、ストレッチやマッサージ、適切な食事による体調管理も欠かせないでしょう。途方もない時間というか、日常のほぼ全てを『野球』や『フィギュアスケート』というものに捧げ続けているのだろうと思います。
私には想像もできないほどの時間をかけ、想像もできない回数をこなしているのだと考えると、結果だけを見て「天才だ!」と称賛したら、彼ら彼女らの紡いできた時間・捧げてきた時間全てを無視していることになるようで、どこか虚しさを感じます。
強いて言えば、「努力し続ける才能があった」という意味で「天才だ」とは言えると思いますが。その中身は決して『才能』だけでできているわけではないということを知るべきでしょう。
努力は実を結ぶこともある
大谷翔平や坂本花織は、努力が身を結んだ人物の代表とも言えるかもしれません。
しかし、自身の結果に満足しているかは別ですし、社会の評価も千差万別ですからね。もっと上を目指しているかもしれないし、期待されているかもしれない。
私だって、こうして続けてきたnoteですが、今までもそれなりのいいねをもらっていたはずなのに、あまり「実を結んだ」という実感が得られないでいました。満足できないでいたのかもしれません。
しかし、もしかすると徐々に実を結び始めてきたのかもしれないなと、最近になって感じるようになりました。
愛読してくれる友人の助力もあり、いいねが0ということは今までもあまりなかったのですが。最近だと3つくらいのいいねがつくことが多いですね。
数値が評価だとすれば、私の記事はそこそこ安定的に、3人くらいに評価されていることになります。
ほんの少しだけ、報われた気がして、心がじんわり温かく、明るくなる心地がします。
いつもではないかもしれませんが、読んでくれてありがとうございます。
私の言葉を手に取ってくれて、とても嬉しく感じます。
また、今まで素直に「ありがとう」と感じることができず、申し訳ありませんでした。
これからも
この結果を、決して望み続けて得られたわけではないけれど、やはり『認められた』と実感する瞬間は嬉しいものですね。
きっと、これから記事をかく姿勢が、ほんの少し変わることでしょう。
『壊れた期待』が、ほんの少し、皆さんのハートに修復されて、『期待』のかたちを取り戻しつつあるような気がします。
これが何より嬉しいし、『報い』だなと感じます。
決して、いいものばかりをかき続けてきたわけではなかったけれど、こうして報われたと感じる日がきてよかった。
かき続けていて、本当によかったと、改めて感じさせられます。
まだまだ私は満足していませんから、これからもかき続けていきます。
いいものばかりではないと思うし、スランプだって必ずまたやってきて辛い日もあるだろうし、最近のようにほんの少しスタイルが変わる日が来るかもしれないけれど、それでも私なりに続けていきます。
辞める日は…今のところ思いつきませんね。仕事ができるようになっても、結婚しても、noteというサービスが存続している限り、私に意欲がある限り、続けていきたいなと感じています。
今までの文字、言葉、文章…全てが、私の軌跡で、私の生きていた証で、私の時間の重みだと思っています。
よろしければ、サポートよろしくお願いします。 社会復帰に使う、なんて言いながら、きっと、私の人生を彩って、これからもnoteで言葉を紡ぎ続けるために使います。