見出し画像

記憶の蓋と、私を生きる

こんばんは。
最近、グッと冷え込み始めたなぁ、なんて思っています。

私の大好きなフィギュアスケートは、バリバリのウィンタースポーツなので、寒くなればなるほど、「リンク行きたいなぁ」なんて気持ちが湧いてきます。
夢を語るなら、「どこかの湖が凍って、滑れるようにならないかなぁ」とも思います。大自然の中でのスケートは、きっと気持ちがいい。


フラッシュバック

さて。今日は、私の心の問題というか、病気のことというか。
そういうところを、少しだけ深く掘り下げるような記事をかいてみようかなと思います。

私は過去に、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症したことがあります。
中学2年の、ちょうど今頃。はっきりといつかは忘れてしまいましたが、2学期の間に起きた事件だったことはよく覚えています。

発症したのは中学2年生でしたが、その原因となる体験、いわゆる『トラウマ』を持ったのは、そこから4,5年前の小学3,4年生の頃。
ちょうど今から10年前くらいってことになります。

発症した当時、私は『フラッシュバック』という言葉を知らず、またそういう現象というか、症状があるということも知らなかったため、思春期特有の何かだと思っていました。

でも、フラッシュバックを起こした直後の疲労感は、言葉で表せないような、悍ましさというか、虚しさというか、なんていうんですかね。
とにかく、側から見れば、ただただ『思い出した』という行為に過ぎないのでしょうけれど、私の体感としては、タイムスリップしてその場に戻ったかのように感じられました。
それが、何度も何度も、毎日毎日、繰り返し起こるのです。

『フラッシュバック』という名前を教えてくれたのは、クラスメイトの友達2人で。
いつとか、どうしてとか、挙句のはてに2人のうちどちらが言ったのかさえも全く覚えていないのに、「それってフラッシュバックじゃない?」と言われて、心がふっと軽くなったような、真っ暗な場所に光が差し込んで安心したような、そういう感覚だけはよく覚えています。

フラッシュバック自体は、1ヶ月続いたかどうかくらいのものでした。
しかし、フラッシュバックのせいで、私の中に深くトラウマとして植え付けられた…いや、忘れていたはずが思い出してしまった数々の場面が、私の日常生活に色々と影響を及ぼすようになりました。

それは今でも、多少は残っています。
特定の状況に遭遇すると、殺される恐怖を感じます。
息が上がるし、息が詰まるし、パニックを起こすし、そこがどこであれ、どんな状況であれ、逃げ出します。
それも、ここ数年でだいぶ落ち着いて、イヤホンをしていれば大丈夫とか、お気に入りのぬいぐるみがいれば大丈夫とか。根本的に、その状況は、たまたま遭遇してしまったとはいえ、自分に向けられているものではないと理解することで、やり過ごすことも、それなりにできるようになりました。

今では、ほとんど生活に問題ない程度には、当時のPTSDは癒えていると言っても良いでしょう。
と、思っていました。


閉じ込めていたもの

1年くらい前に、私のPTSDの記事をかこうとして、断念したことがあります。なぜかというと、記事をかくことが思い出すことに繋がり、完成させることが困難だということに気づいたからです。

では、今日はなぜかけるのか。
それは、普段は”閉じている”はずの記憶が、原因ははっきりしませんが、今は”空いている”状態だからです。

先日、夢を見ました。
フラッシュバックのように、実体験を思い返したわけではありませんが、実体験の断片を無理に繋ぎ合わせたような、私にとってのトラウマに繰り返し何度も遭遇するという、なんとも言えない程残酷な夢でした。

その夢をきっかけに、ここ数日、軽いフラッシュバックが絶えないんですよね。

中学2年の頃は、小学3,4年の頃に体験した、家庭内暴力的な映像だけがピンポイントにフラッシュバックしていました。
ここ2年くらいも、仕事をしていた頃のことやODした時のことなどを、フラッシュバックというよりかは、ふと思い出すというような形で、意識の中に流れ込んでくることがありました。

それはまあ、不定期によくあることなので、そこまで気にしてはいなかったのですが。ここ2,3日の『ふと思い出す』は、だいぶ『フラッシュバック』よりの、良くない思い出し方というか。
解像度が違ったり、今流れている時間そのものににねじり込んでくるように入ってきたり(タイミングに全く説明がつかない)、思い出すことで感情が振り回されていたり。

『ふと思い出す』だったら、ぼーっとしててなんとなくとか、そう言えばあの時…って昔を思い返していたらとか、それとなく説明がつくんですよ。
でも、完全にゲームとかアニメとか、そういう何かしらに意識が向けられているのに、全然関係ない記憶が流れ込んでくる、というか。
”ふと”が、マジで不意打ちすぎて、精神がついていかないというか。

まあ、根本を辿れば、こうしてフラッシュバックになる時点で、その出来事は『トラウマ』として、私の中の奥深くの、開かずの間に閉じ込めることで、その場しのぎをしているわけですから。
その場しのぎは、時間が経っても結局、その場しのぎでしかなくて。
運の良いことにたまたま偶然、”その場”の一瞬が2年とか、長かっただけな訳で。

結局のところ、何も乗り越えることができていないとか、向き合えていないとか、逃げているだけとか。
そういう、自分の浅はかさの証明なんですよ。


つながり

今回の件で厄介なのが、感情的なつながりがあること。

最初に経験した、家庭内暴力のトラウマ。
次に経験した、高校2,3年の頃の、母との喧嘩やバイトでの失敗。
最後に、社会人になってからのトラウマと、OD。

本来、分けて考えるべき3つの事柄が、恐怖(家庭内暴力、仕事)や無力感(母との喧嘩、OD、トラウマへの対処方法が分からない現状)といった感情の繋がりから、分けるに分けれないような感じになっていて。

ただの感情がトリガーになって、家庭内暴力の映像が流れ込んでくるとか。
先日見た夢のように、『嫌だったこと』をつぎはぎしたような形で、全く関係ない2つの事柄がくっついた変な形(例えば、家庭内暴力による暴力+仕事=仕事ができなければ、殺される・大切な人が目の前で殴られる)として現れるとか。

厄介なのが、感情というつながりがある以上、私がいくら意識的に分けて考えたところで、無意識的に切り分けて考えることはできないというところで。

似たような体験をした人がいたら、是非、対処法を教えていただきたいですね。


『開かずの間』に立ち入る勇気を

多分そろそろ、寄ってきたトラウマに立ち向かうのではなく、自分からトラウマへ寄り添っていかなければいけないのかな、と。

少なくとも、仕事関係のトラウマを一掃しないと、私の時間が一向に進まない。いくら進めようとしても、『仕事』が乗り越えられないと、何も変わらないし、変えられない。

かといって、今の自分が、このトラウマを克服する方法、克服とまではいかずとも、共存してうまくやっていく方法が、全く分からない。

ただひたすらに、恐怖。
それから、無力感。

こうして言葉にしてみると、感情的なものがトリガーになって、変な夢を見たのかもしれないし、変な夢がさらに大きなトリガーを引いてしまって、フラッシュバック再発にまで至っているのかもしれない。

なんて、ここまで分かったところで、やはり結局、自分にできることはどうしようもなく存在しない。

そこまで気分が沈んでいるわけではないのですが、前向きというほどでもなく、ぼんやりと、「自分が生きていくやり方が分からない」と思いますね。

楽と幸せが別物だからこそ、難しい。
楽な生き方をしたければ、いくらだってできる。
でも、私は幸せになりたいから、楽な生き方を選ばない。自分の意志で。

幸せになる努力をしたからって、幸せになれるとは限らないけれど、少なくとも努力をしなければ幸せにはなれない。
けれど、この福祉の充実した国で、楽な生き方を望めば、大した努力もなく手に入る。禁断の果実みたいですよね。

私にとって『幸せになる』という意志は、いつだって立ち返ることのできる絶対的な場所だから。
分からないことだらけで、どうにもならないことだらけだったとしても、自分の選択に迷いや後悔はない。と、思う。

自分としては生きられるのに、人間として、社会の中を生きていくのは、苦手なのかもしれません。

よろしければ、サポートよろしくお願いします。 社会復帰に使う、なんて言いながら、きっと、私の人生を彩って、これからもnoteで言葉を紡ぎ続けるために使います。