好き、嫌い、大好き…花占い

こんばんは。

6月に入ったばかりかと思いきや、もう1週間も残っていません。
時間が過ぎるのは早いですね。いつものことですが、社会から切り離された世界、自分の家の中で生活をしていると、置いてけぼりを喰らったような気分になってしまいます。


相変わらず、乙女ゲーの日々

いやもうね、OZMAFIA!!-vivace-にハマりすぎて、めっちゃやってます。
まだ全ストーリー解放していません。やっと、最後のキャラ、ソウくんを解放したところです。

今日は、ここ数日必死にやってたキリエのエンディング回収と、数日前に解放したハーメルンをプレイしていました。

有名な童話『ハーメルンの笛吹』のハーメルンです。
笛を吹いて、動物や子供を操ります。あと、キザです。


恋する乙女

恋する乙女って、私もそうですけれど。
乙女ゲー『OZMAFIA!!-vivace-』のフーカちゃん(自分)のことです。

なんていうか、いいですよね、恋って。
二次元のロマンティックな恋をしているからそう思えるのかもしれませんけれど。

今日攻略していた、キリエとハーさん(ハーメルン)って、だいぶぶっ飛んだ性格をしているのです。

キリエは、あり得ないくらい手の込んだ嫌がらせをして、相手が苦痛に歪む顔を楽しむのが趣味ですし。
ハーさんは、大罪を犯して街から永久追放されてますし。

小説を書いているからでしょうか。
どんな人にも、それが現実の人間でも、ゲームやアニメの中の人間でも、その人がそうなってしまう過去を持っているのだろうと考えてしまうのですよね。

現実の人間はさておき。
ゲームやアニメの中の人間に現実味を持たせたければ、その人の『過去』を掘り下げるということは一般的なテクかと思われます。

公開するか、創作者の中で設定としておいておくかはそれぞれですけれども。

過去は、今を形作ります。
ですから、例えば乙女ゲーであれば、攻略対象の過去が明かされて、その人がそういう人物になってしまった理由に納得がいったのならば、なんとなくスッキリします。

逆に、その人の全てを知らずとも、ありのままのその人を思い続けるエンド、ってのも素敵ではありますがね。


時間の話をしましょう

時間は、絶え間なく前へと流れ続けます。

いくら神に祈ろうと、一人勝手に自棄を起こそうと、誰の時間だって平等に、前へ前へと流れ続けます。

それを残酷だという人もいれば、恵だと捉える人もいるでしょう。

まあそんなこと、どちらだっていいのです。
どう捉えようが、考えようが、思おうが、自分から見える世界がほんの少し変わって見える“かもしれない“くらいですから。

さて、今日の私は、何を書きたいのでしょうね。自分でも分かりません。

『時間の流れ』って、感じ方が人それぞれなのでは?みたいなことを書こうと思ったはずなんですがね。


ハーさんは歳をとらず、死ぬこともない

突拍子もないことを言い出すのはいつものことですから、慣れてください。

今日やっていた乙女ゲー『OZMAFIA!!-vivace-』に出てくるハーさん。
彼って、不老不死なんですよ。

どんなに痛めつけられても、死にたくて死のうとしても、死ねないらしいです。
そういうタイプの不老不死って呪いみたいで、全く羨ましく感じませんね。

そんなハーさんを落とそうと、ゲームするわけですが。

例え不老不死でも、ちゃんと時間は流れるんですよね。
自分も、周りの人も、世界も、ゆっくりと変わっていく。

老いはしないけれど、心や考えの変化はする、と言いますか。
中身は成長する、いえ、中身は老いると言った方が適切かもしれません。

私は当然、そんな壮大な経験があるわけないので、そういう生き方をする人物の気持ちなんて想像しかできませんけれど。

自分のついていけない世界、受け入れることのできない世界になってしまった途端、世界に置いてかれる。
そう考えると、生きていることが恐ろしいですし、生きていたところでその先には孤独しかないような気がしてしまいます。


私のお家

私は老いもするし、死のうと思えば死ねるし、死のうと思わなくても何かがきっかけで死ぬことはあり得ますけれど。

社会から切り離された世界、小さな一部屋の中で暮らしています。

もちろん、そこから出ようと思えばいつだって出られますし、ネットも電話もラジオも届きますから、完全に切り離されているわけではありません。

『凪いでいる』ということを『平穏』と考える自分は、こういう生き方を望んでいるのでしょうが。
どうしても、世界に置いていかれている感じは否めません。実際そうですし。

だいぶ前までは、寂しいだとか刺激が足りないだとか退屈だとか、色々思いました。
けれど、最近は全然。
ひっそりと息を引き取っても、誰にも気づかれないのではないかって気持ちになるくらい、自分から特定の人に向けての連絡はほとんどしてません。
相手から連絡が来るか、例外を挙げるとしたら恋人のみ。

誰かと会ったり連絡を取ったりすれば、それなりの気持ちは湧きます。
Twitterとか見てると、ふと寂しさを感じます。だから見なくなりました。

だいぶ異常、かもしれませんね。
でも、自分が何もかもを拒絶してしまっているんですから、仕方がない。


世界は進む、私を置いて

何かのタイトルにありそうでかっこいい。

私が外の世界へ足を踏み出した時に感じることは、だいたいこれです。
足を踏み出さずとも、ニュースやSNSを見たり、今日の日付を気にするだけでも、そう感じます。

私は昨日と、何も変われていない。
私は1週間前と、何も変われていない。
私は前回の通院から、何も変われていない。
私は1ヶ月前と…。私は1年前と…。

いや、1年前と比べれば、だいぶ変わりましたね。
社会人から、無職になりました。
納税者から、生活保護受給者になりました。
通院患者から、障害者手帳所持者になりました。

でも、そうなってからは。
無職に、生活保護受給者に、障害者手帳所有者になってからは、何一つとして変わっていません。

相変わらず無職ですし、生活保護で生活していますし、多分今申請しても障害者手帳の級は変わりません。

私の中の時間は、ところどころが『その時』のまま、動いていません。

私の全てが止まっているわけではありませんが、生きていれば生きているほど、自分の一部を置き忘れて進んできてしまっているようです。
どこかに服の裾を引っ掛けて、ずっと引っ張りながら、自分の一部を解きながら、それに気づかずに歩き続けてしまっているような感じ。

気づかず、というのは変ですね。こうして文字にできているのだから、認識していないはずがありません。
訂正。今更戻りようがないから仕方なく、歩き続けているのだと思います。


芽吹き、育ち、咲き、枯れる

植物に限らず、生きているものはなんだって、最初は『誕生』です。

生まれた子は何者かに育てられ、次の世代を残すために自らを輝かせます。

そして最後には例外なく、死んでいく。

そんな生き方ができたのなら、幸せだと思います。
芽吹いた途端に枯れてしまったり、咲いてる途中に摘み取られてしまったりしては、誰だって悲しいですよね。

しかし私はそれ以上に、十分に育ってもいないのに開花時期を迎えてしまったり、無理して咲いたが故にすぐに枯れてしまったりすることの方が、悲しいと思います。

個々人のペースでいい、と言いますけれどね。
『時期』というものは、ちゃんと存在するんですよ。

開花するには遅すぎる時期というのは、必ず存在する。

私はきっと、それが怖いのです。
自分がこうして療養生活を送っている間、自分がどんな気持ちでいようと、私の体は老いていきます。
それと同時に、若さを失いますし、輝きだって失われていきます。

私は、18,19歳という若さだからこその楽しみというものを、簡単に捨ててきました。
そして、20歳になってもまた、同じことをすると思います。

けれど、そうしている間の私は、全く後悔をしないわけです。
まるで後悔を忘れてしまったかのように、何一つ悔いることなく、その時を生きているのだと思います。

それでいつか、体が元気になって、お金が手に入って、何かを学ぼうと思った時に初めて、『若さを捨てた後悔』をするのだと思います。

それと同時に、自分を過去に置き去りにすることが、どれほどまでに取り返しのつかないことなのかを知るのだと思います。

もしも私が、自分の中の時間を、正常に進め続けることができていたのならば。
時間というものの、掛け替えのなさを知っていたのならば。
絶え間なく前へと流れ続ける社会を、拒絶していなかったのならば。

私はいつか必ず、そういう後悔をする日がきます。
そしてその日は、後悔をするには遅すぎる時であるはずです。

だから、自分の時間を、進めたい。
進めたい、のに。


いっそ、なんとか咲いたその瞬間に摘み取って、花占いで散らしてくれた方が、ラクだと思いませんか?

そんな、皮肉を込めてのタイトルでした。

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