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こんな子育てどうですか『右手を添えるだけ』

 私はよく、『倫理的にどうなんだ?』という微妙な課題について考える時、『野生動物たちはどうしているんだろう?』という点に着目します。

 例えば、最近よく騒がれるLGBTやジェンダー。
 数日前、ツイッターにて「自分の性自認ってどうやって判断しているんだ?どちらの性で在りたいかという願望なのではないか?」というツイートを見かけました。
 それについて私は、「男女どちらの社会的役割を負いたいか(子どもを産みたいor産んでほしい)」というところに着地したのですが。そこに至るまでの過程で、まずは「男女どちらに恋愛感情を向けるか」という部分を考えました。
 面白いことに、調べてみると野生動物たちの間でも同性愛というものが存在するようです。加えて、思いの外少数というほどでもなく、それなりによくあることらしい。
 ということは、人ほどの知能があるから同性愛をしているわけではなく、生物の本能の一部として同性愛というものが存在しているような気がしてきます。何もおかしなことでも珍しいことでもないのかも、と。

 野生動物は、人ほどの知能や高度な文明を持ち合わせていませんし、縛られるルールもそれほど多くありませんからね。
 何となくのイメージで、”本能的に”活動しているような気がするから、人の練りに練られた倫理観よりもよっぽど、自然な価値観をしているように感じます。

子育てなんてしたことないけど

 さて。今日のお題は『子育て』です。

 とはいえもちろん、22歳の私は子育ての経験なんて微塵もないのですがね。弟が2人いますが、あくまでも弟であり、自分の子どもではありませんし。
 それでも、誰もが子ども時代を過ごしてきたということは、誰もが子どもを経験していて、育てられた経験はあるわけです。もちろん私にもあります。

 私の親は、正直な話をしてしまうと、あまり良い親ではありませんでした。ついでに家庭環境自体もあまり良くはありませんでした。
 父はとても自分勝手な上、DVを持っていました。目の前で癇癪を起こした記憶もあります。でも、本質的には、とてもさびしい人だったような気がします。認められたがり、見られたがりな、承認欲求と自尊心の強すぎる人。
 母は相手の目線に立って物事を考えられなくて、ヒステリックな人です。相手のためにと思ってしたことが、相手の首を絞めていることに気づけません。悪意のない悪意ほど恐ろしく救いようのないものはない。
 父の承認欲求とDVな気質、母の自分の目線でしか語れない無邪気な悪意の相性は、考えるまでもなく最悪です。ああしたいこうしたいと、言うだけならただの父の理想に対し、マジレスをする母。イラッと来て当然。

 離婚した後、私たち姉弟は全員母に引き取られました。

手をかけるだけが愛情ではない

 私の母は完全な勘違いをしているのですが、心配や手助けは、愛情である場合とそうでない場合があります。

 雛鳥を想像してください。
 親鳥が一生懸命卵を温めて、やっと孵った雛鳥です。
 最初のうちは、ご飯も毛繕いもトイレも、全部親鳥が世話をします。父母交代しつつ、雛のお世話とご飯の調達をします。
 目が開いて、羽が生えてきて、身体も少しずつ大きくなって、巣がだんだん狭苦しくなって、それでもまだ一度も外に出たことはありません。
 しかし、ある日突然、巣立ちの日はやってきます。
 何も聞かされていないのに、突然「外に出なさい」と、突き放されるように誘われて、外に出る。
 そこで飛び方を練習して、ご飯の取り方を覚えて、寝床の探し方を教わって、立派な成鳥になります。

 卵を温めるのは言わずもがな、親鳥の愛情ですよね。温めなければ孵化することもありませんから。
 雛鳥の頃の、ご飯や毛繕い、トイレなんかのお世話も、愛情と言えるでしょう。まだ何もできない子どもたちにとって、必要なこと。

 そして、巣立ちもまた、愛情だと思います。
 それがいくら残酷で、厳しいことだったとしても、生きる上で最低限必要な厳しさですから、愛情だと思います。
 巣立ちができなければ、番を見つけることも、ご飯を自分で見つけることもできません。一生を温かな巣で過ごしていては、次世代に命を繋いでいけませんし。

 人もまたそうだと思います。
 幼い頃は、手取り足取り全てに手がかかる。服もオムツも、口から落としてしまったおしゃぶりも、全部自分ではどうしようもないのが赤ん坊という生き物です。
 少しだけ成長して、あれもこれも自分がやる!という時期が来ますが、流石に買い物や料理、洗濯、掃除なんかを自分でやり出す幼児はいませんよね。いたら逆に凄すぎる。
 もうしばらくすれば、だいぶ色々なことが自分でできるようになりますが、それでもまだ身の回りのことだけ。

 人の子が一人暮らしをできるようになるまで、最短でも10年はかかりますよね。それでもまだお金を稼げないので、するとしても仕送りが必要になってきてしまうのですが。
 経済的かつ精神的な自立をするとなると、最低でも中学卒業までは待たなければいけません。とても時間がかかる。

 それでも、その自立の瞬間まで、何もかも手取り足取りお手伝いをする親御さんはいないと思います。少しずつ少しずつ手を離して、子どものできることを増やしていくのが親の役目。

曖昧な境界

 言葉で言うのは簡単、やるのは難しい。
 難しくしている一番の要因は、どこまで手を離したらいいのか、あるいは手をかけたらいいのか、その境界線がわかりにくいからだと思います。

 この先は子どもしか経験したことのない人の意見なので、参考になるかははっきり言って微妙なところですが。
 一番大切なのは、本人の意思を尊重することだと思っています。

 正直、人が生活する上で必要な最低限の知識なんて、一応学校の家庭科で教わるし、個人差はあれどお手伝いの経験は誰にでもあるし、究極的に、ネットで検索すれば出てきます。
 生活力のある子にしなければと何かせずとも、人の巣立ちは15年もありますからね。そりゃ流石に最低限は身につくでしょう。

 そこから一人暮らしをしたいと言えば、必然的にある程度のことは自分でできなくてはいけませんからね。なんだかんだ勝手に身につく。
 鳥の子に羽ばたき方を教えずとも知っているように、人の子もある程度の生活力は持っているわけです。

 子どもなんて雑草です。
 親がいくら「こう育てよう!」「これだけは学ばせよう!」と意気込んだところで、雑草なので勝手に育ちます。そういう教えが全く生きないわけではありませんが、思った通りには100%いかないと思います。

 習字を習わせても、先生の前でしか丁寧に書かない。
 ピアノを習わせても、練習しない。
 金銭について厳格に育てても、無駄遣いする。
 毎晩歯磨きをしろと言っても、なぜか虫歯になる。

 かと思えば、通知表で毎年、動物愛護に丸がついたり。
 本当にやり切れるのか?と始めた部活動に打ち込んでいたり。

 思った通りにいかないけれど、思った以上の結果を連れてきたりもします。本当に、何にも思い通りにならない。

右手を添えるだけ

 私だって、両親に対してたくさんの裏切りを重ねてきた自信があります。良くも悪くも…悪いことの方が多い気がしますが。
 期待されていなかったから上手くいった経験も、期待されすぎて上手くいかなかった経験もあります。

 本当に、親の意思と子どもの意思は噛み合わないものだと、つくづく感じさせられるから、いつだって応援できる心とお金の準備だけは持っておかないといけないんだなぁなんて、若いながらに考えていたりします。
 実際やってみたら、心理的余裕がなさすぎて上手くいかないことも目に見えているのですがね。

 何にせよ、制御不能の雑草を健やかに育てるためには、とにかく邪魔をしないこと。
 陽を遮らない、風は吹くままに、水を与えすぎない、肥料を与えすぎない、つまりは放置ってことです。これが一番よく育つ。

 でも、ちゃんと見てあげないと、子どもは時にとんでもないやらかしをしますからね。
 目を配って、どんな方向に伸びてるかな?とか、どんな花を咲かせそうかな?とか、どうして萎れてるのかな?とか、病気になってないかな?とか。

 このまま枯れてしまいそうだったら、その時はちゃんと手を貸してあげましょう。
 でも、両手じゃなくて大丈夫。右手を添えるだけ。
 親の手はとても心強いから、添えられたらそれだけで勇気と元気が湧いてきて、その先の道をまた突き進んでいけると思います。

 足踏みをしている時は、少し突き放してもいいかもしれません。
 勇気がなくて巣立ちを恐れているだけだから、一歩を踏み出せばあとは大丈夫。飛び方はちゃんと知っているはず。


 私たちは、花を咲かせることも、大空を羽ばたくこともできるから。
 大丈夫。ためらわないで。

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