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「学歴」は、ある意味「正常」というレッテル

こんばんは。

ああ、先日投稿したnote、脳死で書きすぎていたなぁ。

後悔しています。
まあ、消そうとは思いませんけれど。


高卒は、十人十色

私は知っての通り、高卒が最終学歴ではありますけれども。
その実態は、工業高校から通信制高校への転校をしたので、通信制高校卒業となります。

まあ、高校なんてどこをどう卒業しようと「高卒」に変わりはないのですけれども、「工業高校」だとか「通信制高校」だとか、そういうちょっと普通とは違う学校に身をおいた人間としては、「高卒」と一括りにするのには無理があるのではないか?と思うのです。

大学は、「〜学部卒」みたいになるのに、どうして高校は「高卒」で一括りにされてしまうのか?とも。

世間一般からすれば、普通高校というものが名前の通り普通で、一般的で、ほとんどの人が通る道であるから、文理の選択があって、進学する人が多くて、なんてことは普通なのかもしれません。

けれど私は、その普通を知りません。


高校が、十人十色

工業高校は、高卒で就職する人が多いという特徴があります。
職業訓練とまでは行かずとも、現場で即戦力になるような人材を育てる学校であることに変わりはありませんからね。
ちなみに私のいた学校では、文理の選択の代わりに受験前、出願の時点で学科の選択があります。
また、普通科目がだいぶ削られる代わりに、専門科目(工業科目)がごっそりと入ってきますから、普通の大学を一般受験で狙うのは厳しくなりますね。進学する人はほとんど、推薦やAO入試を利用して進学するようです。

通信高校は、通学か完全通信かにもよって違うかもしれませんけれど、人とのつながりが希薄というか、顔を合わせることが少ないという特徴があります。
その代わり、学校側が職業体験の斡旋をしてくれたり、自由にバイトができたりと、普通学生生活とは違った出会い・体験をすることができます。

それから、私が通ったわけではありませんけれど、定時制高校もだいぶ独特でしたね。
基本的に4年制であることが多いようですが、授業の取り方を工夫すれば3年で卒業できるところもあるみたいです。
一口に定時制と言っても、午前中の早い時間、午後の早い時間、夕方以降の夜間のように、自分に合った時間が選択できる学校も。
もちろんバイトも自由にできるようですから、お金のかかる遊び方も楽しめそうですね。

他にも、私の知る限りでは、商業、芸術、服飾、農業、総合(様々な学科を2年時に選択?)などの学校もあるようです。

普通高校は普通高校で、得られるものがあるのだろうとは思いますが、それは普通高校以外の色々な学校で得られるものとは全く違うものになると思うのです。
もちろんこれは、普通高校だけでなく、どの高校(学科)に対しても同じことが言えます。

私の狭い人間関係の中だけでも、色々な学校にすすんだ人がいましたけれど、本当にバラバラでした。

ここまで読んでから改めて考え直してみると、社会において、様々な高校を卒業した人たちを「高卒」と一括りにするのは、やはり、どうしても無理があると思いませんか?


「私が高卒」という利点

何度でも言いますが、私は高卒です。
しかしその実態は、2年の工業高校と、1年の通信制高校での「高卒」です。

砕いてみれば、私は高校を一度辞めているわけですから、高校を辞めるだけの問題が私自身にあった、あるいは私を取り巻いていたということになります。

それは私の場合、まあ簡単に言ってしまうのならば前者で、自信が「病気」になってしまったと言うのが正しいのですけれども。

例えそういう事実があったとしても、高卒であることに変わりはないという事実は、私に「高卒」という化粧をさせてくれるのです。

何が言いたいかって、中身なんていくらでもごまかしが効くと、言いたいのです。

工業科目も、普通科目(私が卒業した通信制高校は普通科のため)も中途半端で、言ってしまうと私は、高校卒業程度の学力を持ち合わせていないのですけれど、それでも「高卒」という扱いになっているのです。

だから、高卒程度の一般教養を求められれば、数学も国語も理科も社会も英語も、何一つできないのです。

中身はそうでも、「高卒」という化粧ができる。

これは、ある意味では私にとって都合が良くて、ある意味では私にとって見逃すことのできない課題でもあるのだと思います。


今日書きたいことは

ここまで長々と色々書いてきましたけれど、これは全て私がなんとなく思ったことで。

まあ、つまりは、前置きです。
長い前置きになってしまいました。

さて、今回のタイトルは『「学歴」は、ある意味「正常」というレッテル』でしたね。

私を例に挙げて、考えてみましょう。

私はの最終学歴は「高卒」です。
これは、先ほどの化粧の話を考えると「高校を卒業することのできる程度の常人」という証明でもあります。

証明、といえば聞こえはいいですけれども。
実態を無視して一方的につけられたもの、という意味では、レッテルという呼び方をした方がしっくりきます。

これが大卒だったら、「大学を卒業することのできる程度の常人」という証明に。
大学院も然りです。

卒業さえしてしまえばこっちのもの、と言うか。

その後がどうであろうと、なんであろうと。
もっと言うとその中身がどうであろうと、なんであろうと。
問答無用で価値が釣り上げられてしまうというか、一律に均されてしまうというか。

めちゃくちゃ頑張って卒業した人も、ギリギリスレスレで卒業した人も、卒業さえできていれば全く同じになってしまう。

まあ、頑張っていた人はそれ以外にも、何かしらの資格だとか大会なんかの成績だとかも残されてはいるのかもしれませんけれど。
もしそういうものを残さなかったとすれば、ただの卒業になってしまいます。


誰もが一点モノ

同じ物を持っている人が大勢いたとして。

その中で自分は、その物に自分というものを加え、「一点モノの価値」を作り出さなければいけないわけです。

いや、作り出す前から、同じ物なんて言いつつも、その実態は違うのですから、初めから「一点モノ」ではあるのかもしれませんが。

しかし、そこにどれくらいの価値をつけることができるか、どこまで価値を引き出してあげることができるかは、結局は自分次第なのです。

人も、物も、能力も、技も、知識も、そこに価値をつけるのは人です。
それは自分かもしれないし、評価を下してくれる先生や上司かもしれない。

けれど、引き出すのは自分自身なのです。
自分自身が自分のことに気付いてあげることができなければ、自分自身が価値を引き出そうと思わなければ、努力しなければいけないのです。

自然と下される評価なんて、たかが知れてますから。


さいごに

こんな記事を書いておきながら、この記事を書いた私は、自分に価値があるということをとても恐れているのです。

だって、もしも自分に価値があったら、その価値に見合うだけの貢献をしなければいけないと感じてしまいますから。

人から評価されるということは、それが高い評価であればあるほど、私はそれを恐ろしく感じます。

評価するに値しない評価規格外くらいが、私にはちょうど良い。
無価値だと言われる方が、傷つかない。

そう、きっと、私は、自分で自分を傷つけることも貶めることも、自衛のために必要な行為なのだと思います。

評価を与えられることが怖いのだから、最低評価の与えられる道を選び続けていればいい。
しかし、そうして下される最低評価に、傷つかないというわけでもないのです。

こんな私でさえも、自己顕示欲のようなものを持ち合わせている、ということなのでしょう。

ですから、初めから、自分の評価は最底辺のさらに下をゆく最底辺。
自分を「無価値」としておくことで、評価に裏切られることも落胆することもなく、私は傷つくこともなく、全てが丸く収まる。

とても、寂しいこととは思いますけれどもね。
今の私ができる最大限の幸せな生き方は、それなのだろうと、思っています。

よろしければ、サポートよろしくお願いします。 社会復帰に使う、なんて言いながら、きっと、私の人生を彩って、これからもnoteで言葉を紡ぎ続けるために使います。