自分へのごほうびってなんだろう
こんばんは。
先週末ごろにやっと自宅へ戻ってきましたので、今週からはパソコン&キーボードでの執筆再開です。
あとから読み直してみて、誤字脱字があまりにも多すぎて自分に失望していました。お見苦しい文章をお届けしてしまい申し訳ございませんでした。
自宅に帰ってきて、やはり私にとって一番心の休まる場所は、自分の家だなと感じました。実家にいれば、家事の負担が減るので身体は休まる気がするのですが、なんだかんだ言って家事は好きだし、母や弟1号の不安定な気分に影響されてしんどくなるしで、一人暮らしの方が精神的にも肉体的にもラクに感じます。
少しだけ、実家に居場所のある人たちが羨ましい。
意味も価値も無く、気に留めるだけ無駄
今日は、私個人の気持ちのお話です。
帰省中にあったあれやこれのおかげで、仕事探しや欲しい資格なんかがだいぶ絞れてきて、モチベーションも高まったため、こちらに帰ってきて一人になってからは、ただひたすら目標に向かって駆け上がっていく感じの日々を過ごす予定です。
生活面については、帰省前よりは今の方が、充実していくのではないかなと、少しだけワクワクしています。とても幸せなことです。
まあでも、仕事をすることも、資格を取得することも、多かれ少なかれ、しんどいとか苦しいとか、大変なことだと思います。
そして、大変なことをやり遂げたからには、何か『ごほうび』的なものを自分にプレゼントしてあげることが大切で、それが今後新しく何かを始めたり、あるいは今まで通り続けて行ったりするモチベーションにつながるということを、言葉の上では理解もしています。
しかし私は、あまりにも自分を卑下しすぎて、自分に『ごほうび』を上げるべきタイミングが全く理解できていないんですよね。
具体的には、私がすることは全て、やろうと思えば全人類誰にでもできる程度の、とても簡単なことだと思っています。私は、そんな簡単なことすらできない、無意味で無価値で、気に留める価値すらない足を引っ張るお荷物だと思っています。
そんなお荷物が何をしようと、何ができようと、全人類にとって当然のことをやっとできるようになったんですから、褒める必要なんてありませんよね。呼吸していることを褒めてくれる人はそうそう居ませんが、そういう感覚です。当たり前すぎて褒める理由になり得ない。
生きさせていただいている
私はこの世に生まれた瞬間から、お金にはあまり恵まれていない人間だったろうと思います。
ですから、私が失業したら実家に戻ることは許されなかった(これに関しては他にも理由がありますが。)し、親からの金銭的な支援は一切受けることができませんでした。その結果、生活保護にならざるを得なかったというわけですね。
それでさえ幸運なことです。福祉の恵まれた国に生まれてよかったですね。
狩猟をしていた時代に生まれたのならば、働かざる者食うべからず、身投げでもしてこいと言われたのでしょうか。
そんな役立たずでさえ、救済措置を講じて生きることのできる環境を作っていただけて。不満を漏らすなんて、とてもとても。
お話を少し戻して。最初に、この世に生まれた瞬間から、お金にはあまり恵まれていなかったといいましたが。
私にとって、何かを学ぶための本の購入や、資格を取るための受験料、余暇や技術向上のための習い事費用なんかを出してもらうことは、幼い頃から難しいことでした。お金のことは基本、母に相談していましたが、何が欲しい、何がやりたい、何円かかる、そういうお話をすると大抵、顔を曇らせました。
私にとって、学ぶことも、資格を取れることも、習い事ができることも、全てがお金持ちの遊び・贅沢に感じていましたし、今でもそういう気持ちが消えてくれません。
まあそれでも、幼少期はピアノと絵画造形、ピアノを辞める代わりにチアダンス、チアをやめて体操、転校して全て辞めてからはなぎなた、洋裁と、それなりに習い事はしてきた方だと思います。
しかし本音を言えば、週5くらいで色々な習い事をしている友人がいたのですが、とても羨ましかったですね。ピアノ、英会話、バレエ、新体操、合唱…本当に色々やってて、当時は、私よりもよくできた子なんだなくらいの認識でしたが、今思えば、単にお金が無かっただけという虚しい事実。
学校で定期的に、漢検や英検のお便りが来て、学年の半分くらいが受けるのを見てても、私は頭が悪いから受けられないと思っていたし、中学になって資格があまりにも少なすぎたので受けたいなと思い、検定料を見たら、お小遣いで出すには少し痛い出費でした。
唯一、ワープロだけは取りましたが。検定料のお話をして、母が少しだけ暗い顔をしたのは忘れません。
高校受験のために、私立・公立の受験料の支払いをお願いするときも、高校に受かって教科書や制服の採寸・受け取りに行くときも、ひたすらお金、お金、お金。
私が父に合格報告をしに行った帰り、母は久々に会った父に、「弟と長女の入学費や制服で50万かかった」という愚痴をこぼしていたことは一生忘れられませんね。絶対に支援してくれるはずがない父、顔も見たくないほど母が嫌ってる父に、その話をしたという事実、その重み。それくらい、母はお金に困っていたということですね。
高校中退した私は、とんでもない親不孝者です。
やりくりすれば受験できる
私は正々堂々と人様のお金を貪って生きている最低最悪の人間ですが。
その人様から頂いたお金を、上手にやりくりしていれば、メルカリで教材を買い、資格を受験するためのお金を出すことができます。
これ以上なく最低な人間です。先に働けるようになって、自分のお金ができてから受験すればいいのに。
資格を取ることは贅沢なので、私は人のお金で勝手に贅沢をしようとしています。なんの代償も払わず、贅沢をしようとしています。
とても罪深いことですが、今の私ができる、仕事につながる活動は、何かを勉強して資格を取る、ということくらいです。無能なので。
仕事は、一応探してはいますが、週10時間程度の就労から始めてくださいとお医者様から指示を受けていますので、一般就労は難しいんですよね。福祉サービスの一部の、B型作業所と呼ばれる場所から始めなければいけないくらい、決まった日数、決まった時間、決まった場所へ行くということが、まずできないんです。論外。
そんな人間でも、家で勉強して、決まった日、たった1日だけ、決まった時間、決まった場所へ行って、試験を受けることくらいならなんとかできると思います。
本当に何もせず、仕事ができるようになるまでただただじっとしているのと、少し贅沢をしてでも、中古の本を買って、受験料を払って、履歴書の文字を増やす方が健康的だと思いますし、近道なのではないかなとも思います。もしかしたら、お仕事に活かせることが学べるかもしれませんしね。
正直、とてもうしろめたいですが。
何かを頑張って、結果を出さなければいけない気がして。
受験するというごほうび
普通、試験を受けるご褒美って、とりあえず受験したらその日はコンビニスイーツを買って帰るとか、合格していたら家族や友人なんかと外食をするとか。
そういう、言ってしまえば、試験とは関係のないところで自分を褒めることだろうなと思います。
でも、先述した通り、私にとってそもそも『受験する』ということは贅沢で、それができるというだけで十分幸せなわけです。とても恵まれている。
だから、勉強したご褒美として、受験をする。それで結果が出たらプラスアルファでハッピーだし、出なかったらわがままで自己満のためだけの行為だったと反省した上で、勉強の仕方を改める必要がある。まあ、どちらにせよハッピーではありますね。
私には、勉強をします、受験をします、以上のごほうびは、別にいらないんですよね。受験できること自体が幸運なのだから。
まああとは、最初に最初にお話した通り、私にできることは全て、全人類がやろうと思えばできる程度の簡単なことだと思っているので、受かったからと言って自分を褒める理由にはなり得ないというのもあります。
ただただ、履歴書に一つ、花が増えるでもなく、雑草が生える感じです。それ以上でもそれ以下でもなく、ただそれだけのつまらない話。
人は褒められる
こうしてお話した感じだと、自分を褒めない人間というだけでなく、周りの人間でさえも見下しているというか、私のできることができなければ人間以下、くらいに思っている印象を抱かれてしまいそうですが。
安心してください。そういう感情を抱くのは、基本的には私と、あきらかな怠慢でしっぺ返しを喰らっている人だけです。分かりやすい例だと、夏休みの宿題を夏休み末まで温存していた末っ子には、「めんどくさい」と言われれば「やらなかったのお前やろ」と返していました。
そんな末っ子相手だとしても、褒めるべき時にはちゃんと褒めます。褒めるというよりかは、プラスのフィードバックをする感じです。
例えば、末っ子の自由研究を私が手伝ったのですが、末っ子が教えていることを理解しようとする時、理解して自身で問題を解けた時なんかは、「これは高校生でも難しいからマジですごい」と褒めまくってました。末っ子は自己肯定感の鬼なので、「知ってる、俺天才だから。」と返してくるところがまた、憎めない。
これが別に家族でなくとも、友人でも恋人でも同じです。
褒めて伸ばすというよりかは、褒めも貶しもせず、現実に即した評価を伝える感じです。呪術の七海さんスタイルですね。
相手が自分になった瞬間、あらゆる全ては誉めるに値しない瑣末なことになってしまいます。多分どれだけすごいことをしても、世界を救う大発見をしたとしても、私は私を認めないと思います。
ただ、だからと言って、周りから見た自分がどれくらいできて、どれくらいできないかは、ある程度分かっているつもりです。つまり、客観視はできているつもりです。
客観視をして、自分を正当に褒めたり貶したりすることはできます。これくらいできたらすごいとか、これは基本レベルだからできなければいけないとか。そういう指標から、自分がどれくらいかはある程度分かっているつもりです。
感情として、私は私を褒めようとは思わない、というだけです。
褒めてしまったら、私は私に甘えてしまう気がして。私なんかが甘えてしまったら、ただでさえダメなのにもっとダメになってしまう気がして。
だから、私は私を甘やかしたくないし、貶しはしても褒めたくはないです。自分は常に、誰になんの影響も与えることのできない、無意味で無価値で瑣末な存在だと思っている方が、何か意味を持とう、価値を持とうと、懸命になれる気がしています。
考え方は人それぞれですけれども。
自分を褒めて舞い上がらせて、自己肯定感を高めて挑戦する人もいれば、私のように自分を卑下して用心深く挑戦する人もいます、というだけのお話です。
余談
ただ私の場合、これは本当に自覚がないのですが、周りからは「自分に厳しい」という意見をいただきます。これだけは、客観視してもいまいち分からない。
何をしていても、常に自分と戦い続けているのは誰もが同じことだと思うんです。そして、何かを変えたければ自分を変える以外にできることがないこともまた、誰もにとって当たり前だと思います。
運とか偶然とか転機とか、そういうもので上手くいったり何かが変わったりすることはままあることですが、基本的に、あらゆる全ての中心は自分にあると思っています。
だから、自分にとって自分以上に強大な敵はいないし、環境を変えるために一番手っ取り早い手法は、自分を変えることだと思っています。
これだけは本当に、誰にとっても当然だと思います。
だから、私はそんな、自分に厳しいつもりはありませんよ。
強いて言えば、ほんの少しだけ自分に対して理不尽な自覚はありますけれども。人は褒められるのに、同じ論理で自分だけは褒められないわけですからね。
こんなお話が、誰の役に立つかは分かりませんが。
とりあえずまあ、私のごほうびのお話でした。
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