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”病気じゃない生き方”を知らない

こんばんは。
原因は、色々思い当たり過ぎるという意味で、はっきりしないのですが。気持ちが落ち気味というか、低空飛行を続けているというか。

気持ちが沈んだ時は、とにかく無理をしないことが大切です。
無理をしないでいながら、ある程度の家事とか外出とか、そういう最低限はどうしても頑張らないといけませんが。

いつもよりちょっと早く寝たり、一品だけ買い食いをしたり。
いつもと違うことをして気晴らししたければ、どこかへ出掛けてみたり、外食をしてみたり、何かを買ってみたり、見たことないアニメを開拓してみたり。
自分一人で抱え込むのがしんどい内容なら、誰かに話したり、SNSで発信したり。

あまりにも気持ちが落ちることが多いので、対処にも慣れてきました。
相変わらず予防はできないのですがね。


何者にもなり損ねた私

本当に小さい頃、保育園に通っていたくらいの頃は、中高生といえばプリキュア。
自分はいつまで経っても中高生になれず、ずっと子どものままだと思っていました。

小学生になって、初めの頃は、友人関係に苦労したのを覚えています。

小学3年生くらいに家庭が壊れ始めて、4年生の終わり頃には、完全に壊れていました。父と別居していました。
転校しなければいけないと伝えられて、友達と離れ離れになることにも、習い事を辞めなければいけないことにも、何もかも全てに絶望していました。

転校してからの私は、とても捻くれて酷い人になってしまいました。
すぐに手足が出るし、生活の何もかもに不満ばかり募らせているし。
それでも、何人かの友達がいてくれたことは、とても幸運なことで、本当に幸せなことでした。

小学6年の頃、悲しいことがいくつかありました。
まず、暴力が行きすぎた事件を起こしてしまったことです。これについては、流石に内容を控えます…。すみません。

残りの2つは、私個人の出来事です。
英語の授業で、将来の夢を英語で発表する日。私は「I have no idea.」と、発表しました。家庭の不和にあまりにも打ちのめされすぎた私は、将来についての希望を持てなかったからです。あの時の空っぽで渇き切っていて、泣きそうな気持ちは、今でもはっきり覚えています。
もう一つは、卒業式に親にわたす手紙の再提出です。普通に書いたら、母に対する恨みつらみをまとめた文章が出来上がりました。これはこれで自分の気持ちなので大切だけど、卒業式にわたす手紙だから…と再提出になりました。(先生の判断と伝え方は本当に正しいと今でも思う。)

中学に入って、私は私を変えていこうと思いました。(これは、小6の時に起こした事件が大きく影響しています。)
場所が変われば自分を変えていけると信じて、私は変わることができました。人に手足を出さなくなったし、不満よりも小さな楽しさを見つけて、勉強も真剣に取り組んで、前向きに頑張るようになりました。

小学校後半は悪夢を見ていた、と思う程度には、素晴らしい1年でした。
成績もすごく良かったし、自分でも充実していると感じていました。

しかし小学校後半は悪夢ではなく現実で、確実に私をズタボロに傷つけていたということが、中2のPTSDによって自覚させられました。

PTSDが暴発(?)してた約2ヶ月くらいは、しんどいの極みでした。
ある程度収まっても、夫婦喧嘩やDVを見ていた私は、男の人の怒鳴り声がトラウマで。そんなトリガー、中学校という空間ではいくらでもあるわけで。
まあ、元通りの生活にはなかなか戻れませんでした。移動教室とか集会とか、常にビクビクしながら生活していました。怒鳴る先生と顔を合わせることすらしんどかった。怒鳴る必要、なくない…?

3年生は、体育祭とか合唱コンクールの練習が生理的に無理で、どれだけしんどくても練習しましょう、来てくれないと困る、みたいな感じで。
そういう同調圧力無理無理無理無理無理無理無理。
ちなみに一回、天井から女の子が降ってきて、記憶が吹っ飛びました。(何を言ってるか分からんだろう?私もわからん。)それだけ、ストレス値が異常だったってことですね。

3年の学校行事によってライフがゴリゴリ削られた末、成績ががっくり平均くらいまで落ちました。

高校生。環境が変われば人は変われる。心機一転。
まあ、確実に病的なしんどさなので、自分がどうこうとかそういう域を超えているんですけどね。

1年生は、まあ、そこそこ平和でした。

2年生は後半不登校。
不登校になるまでの経緯も酷いもので、私が学校に行けないと、母に「私は会社行って頑張ってるのに、なんであなたは学校へ行けないの」とブチギレられるため、毎朝喧嘩みたいな日々でした。ここまでは結構日常。
私の気が狂って叫び散らしたら、呆れブチギレた母が「ねぇ、今の何。」と冷静にブチギレた声で問いかけてくる。「来ないで、(部屋の扉を)開けないで」と過呼吸になりながら叫び散らす私。これはたまに起こるイベント。

小学校をストレートに卒業できず、中学生で心の病気になり、高校生で病気&退学(通信制に転校)し、社会人1年目で病気&辞職という。
精神病を拗らせ続けて慢性化させた典型例みたいになってて笑える。(笑えない。)


ずっと病気

さて。

私がはじめて心の病気にかかったのは、中学2年生です。
『PTSD(心的外傷後ストレス障害)』です。
正確には、診断を受けたのは中学3年になってからだったと思いますが、発症したのは中2でした。(もっと正確にいうと、心的外傷を受けた時がPTSDになった瞬間になるらしいので、書類上は小学4年生頃ということになります。)

それから時は流れて高校1年生。
今度は、『ADD』と『アスペルガー症候群』の診断を受けました。色々あった末にちゃんと検査をしてもらって、その上での診断になります。
これは精神病ではなく発達障害なので、今回は除外。

高校2年生の後半に学校へ行けなくなりましたが、病院での診断はありません。

社会人1年生。
以前もらったADDの診断がADHDに変わりました。こちらは、以前の検査結果と先生との面談で、ADHDだろうということになりました。
バイトで入っていた3月と、正社員になってからの1ヶ月くらいは、通院しつつ仕事しつつだったのですが、GW明けから遂に仕事へ行けなくなりました。

休職中の診断書には、『気分障害』と書かれていて、気分障害のお薬を飲んでいました。また、『適応障害』とも言われました。(適応障害は通常、正しく療養すれば数ヶ月で良くなるものらしいです。)

そして約半年後、仕事を辞めました。その頃には『睡眠障害』も併発してて、睡眠薬を飲んでから布団に入っても、4時間は寝付けないのが日常でした。
仕事を辞めて1ヶ月くらいは、今までと同じ薬を飲んでいましたが、ODをして胃洗浄をして以降、本来数ヶ月で良くなるはずの適応障害が良くならないことや、ODした時に命の危険のある薬は避けたいということで、治療方針を変えうつ病の薬を飲んでみようということになり、『うつ病』としての治療がスタートしました。

それから2年と数ヶ月、薬が増えたり減ったりしていますが、病気については大きな進展無く、今日まで虚無を積み重ねて生きています。


『PTSD』『気分障害』『適応障害』『睡眠障害』『うつ病』

こうして並べてみると、どんな人生を送ったらそんなにたくさん病気になるんやって気持ちになりますね。
まあ、精神病って併発しやすいらしいので、そこまで珍しいことではないと思います。


病気にならずに生きるのは無理

私の人生の、どこをどうしたら病気にならなかったのかを考えると、初手の『PTSD』で詰むんですよね。
私の力では、家庭崩壊をどうにかすることはできなかったし、夫婦喧嘩を止めることもできませんでした。

まあそれを取り除くとしたら。中3の『学校行事無理病(仮)』ですかね。
これも、根本的に何が原因かと聞かれたら、よく分からないんですよね。
でも、天井から女の子が降ってきたり、記憶が吹っ飛んだりするという謎体験をしているわけですから、相当なストレスがかかっていたのは確かです。この症状に近い病名は、『解離性障害』ですかね、言われたわけではないですが。

高校生の頃の不登校は、スクールカウンセラーさんには『適応障害』だと思うとは言われましたが、真偽は不明。
でも、唯一、私の精神病生活を救う希望があるとしたら、ここだと思っています。これが本当に『適応障害』だったとしたら、数ヶ月、適切な休養を挟めば、ほぼほぼ全快するはずだったんです。
ここで母とぶつかった末、ボロボロの状態で通信制高校に転校…。
しかも、当初の予定では転校すると同時に働いて一人暮らしする予定だった(家でぐうたらしている人がいると、働いている自分がバカらしく思えてくる。by母)ので、就活もしていました。
その件で、精神科の先生から母に、お呼び出しがかかったのですが、「病気の娘を一人暮らしさせて仕事させるのは無理があるんじゃないか」的なことを先生に言われてですね。それが気に食わなかった母は、二度と通院に同行してくれませんでした。
17歳・私、どうやって病気を治したら良かったんですか。

大学は、もうどう考えても無理だったので諦め。
就活をしました。内定をゲットしました。
引っ越しました。一人暮らしを始めました。仕事も始まりました。
正直、自分が仕事を続けられるとは思っていませんでしたし、実際その通りになりました。一縷の希望にかけて、頑張ってはいたのですがね…。

その後、実家に戻らなかった理由としては。
どうせ母が通院に同行してくれないのなら、一人暮らしで通院しても同じことですし、これまでの経験から、むしろ母の近くだと病気が悪化する気がしたからです。
おそらくこの先も、実家に戻ることは無いと思います。

現状が、私の取り得る限りの最善だと思ってます。
頑張った方だと思うよ、私。


病気を治すことより、病気とどう付き合うか

病気について、私がやれる限りのことはやってきたと思っています。
もう、どう頑張っても私は、心の病気という泥沼からは抜けることができない。

だったら、「どうしたら治るか」ではなく、「どのように付き合っていくか」だと思っています。

一生かかっても、フルタイムで働けるようになることはないと思っています、少なくとも今は。
だったら、フルタイムで働けることは諦めればいい。
その代わり、どれくらいなら無理が無いかとか、どんな仕事ならできるかとか、そういうのを模索して、できる範囲を見極め、その中でやっていけばいい。

薬がゼロになることも、もう数年は無いだろうなと思っています。
今はしっかり薬を飲んで、遠い未来でいつか、薬のいらない生活になれますように、そうなったら今より少しだけ幸せだなと思っています。
服薬中は、お酒飲めないですしね。ちょっと寂しい。

気分の波も、普通の人より激しいです。
何かがあって落ち込むわけではなく、本当に何もなくても、楽しいことをした日でも、いきなりずんと沈むことがあります。予想不可能。
心の病気はそういうものなんだと諦めつつ、そういう自分も自分なんだと受け入れつつ、心を穏やかにさせる”ささやかな魔法”を大切にしています。恋人だったりぬいぐるみだったり、音楽だったりゲームだったり。

万人にとっての幸せが私にとっての幸せではないし。
逆に、私にとっての幸せが万人にとっての幸せというわけでもない。
幸せは個々人の心の中ではかって決められるものだから、私は私のものさしで幸せをはかって、見つければいい。

薬を飲まないことが幸せという人もいれば、薬を飲んで落ち着いた生活の送れることが幸せだという人もいるでしょう。
バリバリ働くことが幸せという人もいれば、週10時間のお仕事がちょうど良くて幸せな人もいるし、働かないで家にいる方がいい人や、ボランティアをして生きがいを見つける人もいます。

どんな人がいたっていいし、どれも間違っていないんだから、自分のなりたい自分になれるよう、幸せになるためだけに頑張っていけばいい。

何者にもなり損ねた私だけれども、”病人”にだけは、ちゃんとなれた。
なにもこんなところだけ当てはまらなくたっていいのにさ。
でも、なっちゃったんだから仕方ないか。

”病気な生き方”を、ちょっとでも鮮やかに、楽しく、美しく、面白く、幸せに。
今日よりも明日が、明日よりも明後日が、輝いていますように。


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