期待は自己肯定感に応えてくれない
人に認められると嬉しいですよね。
テストの点や成績が上がったり、部活や習い事で表彰された時はもちろん、笑ってくれるとか褒めてくれるとか、身近な小さな出来事でも、『認められた』と感じると、自然と嬉しくなります。
逆に、自分ではかなり頑張ったつもりでも、誰からも評価されないとか、酷評を受けてしまったとか、そういう時はとても悲しく、辛くなります。
弟1と喧嘩をした
私には、とてもかわいい2人の弟がいます。びっくりするくらい仲良しで、3人がそれぞれ別の場所で暮らしているにも関わらず、毎週ゲームを配信してしまうくらいでした。
しかし、3人きょうだいの真ん中、弟1くんて、先日喧嘩をしてしまい、以降お話の機会すら得られないような状態になってしまいました。現在の状況的には絶交に近い。
ここ1ヶ月半くらい、私は弟1に対して、やんわりとした苛立ちを募らせ続けていました。
弟1は最近、就職を機に引っ越しをしたのですが、まずネットの工事手配をグダらせて、ネットが無いことに苛立ち八つ当たりとも取れる言動をされ、ポケットWi-Fiを”レンタル”すればと言ったら、ポケットWi-Fiを”契約”してしまい、それが通信制限きて重くなったと言われ、契約したことを知らない私は「一度返却して、無制限のものを”レンタル”しなおしたら?」と提案したら、新しいポケットWi-Fiを”契約”し、ついでにその2台とも機種台をお支払いになり。引っ越し直後、外出をしたり、ネットのない間、カフェやカラオケで時間を過ごしていたにも関わらず、「お金が足りない」と母に催促。
まあここまでは、イライラする程度だったんですよ。
とりあえず姉として、「働いたらお金は返しなさい」くらいのことは言い続けていました。まあそれも、弟からしたらストレスでしょうが、言われずともできるのが年相応というものだと私は思っています。できてないから言われるんだろうがって感じ。
先週水曜、モンハンの情報解禁生放送があり、私は弟たちとそれを見ていました。マジで楽しかった。
その後、手持ち無沙汰だしと、とりあえずモンハンやろうぜになって、適当なモンスターを借り尽くしていました。
記憶が定かではないのですが、おそらく話を始めたのは弟1で、「俺の話って面白い?」みたいなことを聞かれたのが火種。
意見を求められていると思ったため、私は素直に「面白くない」と言いました。続けて、過去に弟1は、自分のボケに対して塩対応をした私と末っ子に向けて「お前ら本当に反応つまらないよな」みたいなことを言ってきたことがあり、末っ子がしょんぼりしたことがあったため、私は「よくそれで、私たちのこと”つまらない”とか言えるよね」と冗談まじりに言いました。それに対して、末っ子も同意していましたね。
翌日、きょうだいでやっている配信を辞めると連絡が来ました。
理由を聞いたら、「お前と関わりたくないからだよ」「あと俺は普通に人と関わるのやめた方がいい」とのこと。
視聴者がいる以上、何も無しに突然辞めますは不義理になるので、引退配信や説明の時間を取ろうとしたのですが、「多分その引退の回すごい暗いと思うけど 喋らないでいるわなんなら」「楽しく引退はしないからね」と言われ、あまりにも敬意や愛情に欠ける発言に私もブチギレ、「そうなるならやらなくていいよ」と伝えました。
まあでもここまで話した時点では、何がどうしてそういう結論に至ったのか、私の中ではっきりわかっていなかったんですよね。詳しく聞いてみるとどうやら、”面白くない”と言われたことに傷つきキレていたらしい。
「毎日どんだけ会話の仕方勉強したりどんな返答すると楽しんでくれるか毎日勉強してるんだよこっちは。1日1時間はしてる」「お前の存在が本気で不愉快だった昨日は」などと言われました。
おおそれは立派なことだと思い、「1日1時間、実際人と話して会話の練習してるの?」と聞いたら、「そういうわけではないよ」とのこと。
…は?
努力は実を結ばないもの
弟の愚痴はこの辺にして。
私は人一倍、”間違った挫折”をし続けてきた自信があります。
どこが間違っていたかと言われたら、めちゃくちゃわかりやすい答えを提示することはできないのですが。
私の思う、”正しい挫折”は、挫折した先があるものだと思っています。
私の思う、”間違った挫折”は、挫折した先に何も残らないものだと思っています。
私は、小学4年生まで通っていた小学校を転校しました。両親の離婚が原因です。今まで努力して積み上げてきた友人関係を、白紙に戻されたどころか、すでにコミュニティとして完成しつつある空間に放り込まれました。
高卒で就職し、都会へ出て一人暮らしを始めましたが、まともに出勤できたのは2ヶ月だけ。ずっと私の中でひっそり育ち続けていたものが育つところまで育って、ODして救急搬送されるところまで辿り着きました。
どちらも、今の私からすれば、馬鹿みたいな虚しい思い出です。
今の私に残るものは無く、強いていえば『虚しさ』くらいのもの。
そういう経験をしてきた私は、いっそ捻くれたとも言えるのですが、「頑張っても無駄だ!」と前向きに思うようになりました。
自分が頑張っても自分が望む結果は得られないし、自分の努力が日の目を見ることも、誰かに認められることもないし、その必要もない、と。
基本的に、ほとんどの努力は実を結ばないと思っています。
正確には、実を結ぶことはあるものの、それまでに途方もない時間や労力がかかる非現実的なものだと思っています。
非現実だから、結ばないと言い切っているわけですね。
人に認められないのなら、努力の仕方が間違っている
まあしかし実際、努力が実を結ぶことってあるんですよね。
もちろん私のこれまでの短い薄っぺらい人生の中にも存在していて、私は高校受験に合格しています。受かるかどうか微妙と言われていたのですが、意外にもすんなり受かって、入ってみたら真ん中くらいだったというオチ付き。
少なくとも、今の私が思っているほど、全ての事柄に関して実を結びにくいわけではないと思うんですよね。
こうして気まぐれでかいているnoteも、たまーにダッシュボードを覗くと、いいねや閲覧数が予想外の数字になっていて驚きます。完全に実を結んでいます。本当にありがとうございます。
また、現在は末っ子と続けることになったYouTubeでの配信も、固定の視聴者さんが増えたり、登録者が増えたり、徐々に実をつけつつあります。
noteもYouTubeも、もちろん最初は低空飛行でした。右も左もわからないし、基準値もわからないし、自分の中での指針も定まっていない状態だったので、そりゃ見たり読んだりしても面白くないよな、と。
今のこれが面白いとも言い切れませんけど。←
しかし、例えばnoteなら、募集しているお題に参加したり、YouTubeなら、人の集まりやすいゲームを配信したりすることで、視聴者・閲覧数やいいねが集まるんだなぁということが、だんだんわかってきました。
つまり、『努力の仕方』が問題だったわけですね。
指針との衝突
さて、そうしてたくさんの人に見てもらえるようになって衝突するのが、『自分は何のために投稿/配信をしているのか』という、行動理念というか、指針みたいなものです。
ざっくり、『自分がやりたいからやる』のか『見てもらいたいからやる』のか、どっちなのかが曖昧になってくる時期が来ます。
一番良いのは、『自分がやりたいことをやって、見てくれる人がいる』という状態ですが、そんなことはそうそうあり得ませんね。
自分が面白いと思うことって、主観でしかありません。自分でない誰かが同じものを見て、面白がってくれるとは限りませんし、究極やっている本人だけが面白いという事柄は往々にしてあります。
では、人にウケることをやり続ければいいのか?と言われたら、そうとも限りません。
なぜなら、自分が楽しく感じられなければ、それは続かないからです。
結局私は、noteに関しては『自分がやりたいからやる』を押し通し、YouTubeに関しては、弟とも相談しながら、『やりたいこと』と『求められているもの』のバランスを取る方針を選んでいます。
そのため、noteは閲覧数を全く気にしていないし、逆にYouTubeはある程度、登録者数や参加型の人数を気にしています。
何にせよ、自分の中でしっかりと『方針』を設定するのが大切ですね。
先述した通り、やりたいことをして見てくれる人がいるなんてミラクル環境はほぼ無いと言ってもいいので、どちらかを選ぶ時が必ずくると思っています。
そして、選んだからには押し通し続ける覚悟が必要。
継続は力なり。
自己肯定感を押し出す奴はつまらない
これは超絶持論。真偽は不明。
でも、少なくとも今回、弟と喧嘩をした件については、声高に主張したいです。
私から見たら、弟は「俺こんなに努力してるのに、認めてもらえない!」と癇癪を起こしているようにしか思えないんですよね。そこに正当性があるか、論理的にどうなのかは別として。
私からすると、マジで努力している奴は、努力してるって言わないと思うんですよ。それが日常だから。
私にとって、毎週noteに投稿をするということは、自分が自分に課した『義務』に近いものですし、YouTubeでの配信も同じ。見方によっては『努力』に映るでしょうが、私からしたら『日常』でしかありません。
もちろん、弟にとっては学業、私にとっては通所や通院が最優先事項ですから、それを押し退けてまで投稿や配信をすべきでは無いと、ちゃんと順位付けはしてありますけれどね。
そうやって、小さな積み重ねを続ければ続けるほど、気付いたらそれなりの実を結んでいるものですよ。
そもそも、努力は報われるまでやって初めて報われるものであり、報われなくてあたけるのは、ただの逆ギレですよね。
先述した通り、努力の仕方が間違っている可能性も大いにあります。弟は、面白い会話を研究はしても、実際の会話をして練習しているわけではないと本人も認めています。一番大切なのはそこなのに、1日1時間は研究しているとか言われても、何の説得力もありません。
真偽不明な主張に戻りますが。
『自己肯定感を押し出す奴はつまらない』、これね。
自分の凄さを認めて欲しいがために、技をひけらかすような言動をしていたら、周りは呆れます。「俺の話って面白い?」みたいなこと、わざわざ聞かずとも、面白ければ笑うし、つまらなければ笑いませんよね。それでわかれよって話。
他にも、やたら自慢ばかりの人とか武勇伝ばかりの人とか、惚気なんかも、どれもたまに聞くくらいなら面白いですが、いつもそればかり或いはそれだけだと、シンプルに飽きますね、少なくとも私は。
究極、人って人にあまり興味がないんじゃ無いかって、私は思っています。
私が相手に興味を持つ理由って、大抵は「一緒にいて面白い」みたいなものですが。そういう人と過ごす時間って、毎回違うんですよ。話すたびに違う話をしてくれて、会うたびに新しい顔を見せてくれて、全てが『新鮮』だから、「この人と居て面白いな」って感じます。
新しいもの好きな私特有のものかもしれませんけれども。
私は捻くれ者なので、ひとつひとつの会話や行動が、明らかに『自己肯定感』が透けて見える人は、わかりやすいからこそ、応える気にもなりません。応えたら集られるのが目に見えているから。
褒めて欲しくて話されても、幼い子どもならまだしも、立派な大人がやってたら普通にドン引きしてしまいます。そういう場合、素直な気持ちを伝えることがほとんどです。「いや、そんな主張されても…」「あんまり好きじゃないかな」とか、「ちょっと面白そう」「え、めっちゃいい!天才!」とか。
素直に褒めも貶しもしますよ。子どもじゃないんだから、素直な感想に怒るのは非常識に感じます。(少なくとも私はそう思います。)
何より、忖度の必要な人間関係は疲れますからね。
期待に期待をするな
さて、タイトルの回収をしましょうか。
私自身も、たくさんのことに期待して、たくさんのことに裏切られてきました。これは私だけでなく、誰もがごく当たり前に経験することだと思います。
そして、私が経験から得た結論は、自分の『期待』に応えてもらうことでは、自分の『自己肯定感』を満たすことはできない、ということ。
以前、『自己肯定感の否定』という記事を投稿しました。
そこでは徹底的に、自己肯定感を否定した上で、自分に対する自分の認識と、社会からの認識のズレを小さくすることで、自己肯定感がなくとも自分を正確に測れるようになり、生きやすくなるんじゃないか、みたいなところに着地したような気がします。
今の私はあの時よりほんの少しだけ成長して、正直「あそこまで否定することもないんじゃないか?」と感じています。根本的に、自己肯定感を積極的に求めないスタンスには変わりありませんけれども。
何にせよ、自己肯定感は自己肯定感でしか満たせず、期待は誰かの反応があって成り立つものなので、全くの別物なんですよね。
自分の自己肯定感のツケを、他人に払わせようとしないで。それはとてつもない卑怯者のやることです。
先述した通り、自己肯定感が無いなら無いなりに生きる方法はあると思います。その方法を探っていけばいいだけ。
また、自分の『期待』に相手が応えるかどうかは、相手の自由です。
そもそも、「この人なら応えてくれるだろう」という信頼は単なる甘えでしか無いと思いますし、応えてくれなかった時に怒るなんて言語道断。
人の感情がコントロールできないように、人の期待もコントロールできないのです。
自分が自分を自由に生きるように、”誰か”も”誰か”を自由に生きています。
自分が自分の自由を愛するように、”誰か”も”誰か”の自由を愛しています。
たったそれだけのこと。
それを知ることが、私は『尊重』だと思っています。
よろしければ、サポートよろしくお願いします。 社会復帰に使う、なんて言いながら、きっと、私の人生を彩って、これからもnoteで言葉を紡ぎ続けるために使います。