だれもみえない教室でよいのか
まず吸い込まれるような表紙に注目したい。「四角い水槽って、なんだか教室みたいだ。」(p.183)をモチーフに、ひとりの少年が金魚のエサが入れられていることに気づかないままランドセルを手にする瞬間が描かれている。
この一見些細な出来事から広がっていく波紋。当事者はじめ周囲の本音が、それぞれの立場から明らかにされていく。【以下、一部ネタバレあり】
例えば担任教師。「これ以上ことが大きくならないように、とにかく穏便に済ませなくてはいけない」(P.62)と。さらにこんな記述も。
正直なところ、この暗黙の了解事項を活字で読める日が来るとは思わなかった。
一方、いじめ把握目的で配布される「学校生活に関するアンケート」に対する小学生の反応はこうだ。
何かあった時に「いじめ対策やってました」の免罪符となるアンケート。これが形ばかりであることを、子どもはちゃんと見抜いている。
このような現実がありながら、単に加害者と被害者に分けて謝罪の場を設けたところで、根本的な解決にはなりえない。保護者を交えての話し合い後の、先の担任の心の声。
これを私は「大人が監視役をすること。はたしてこれが答えだろうか?」との問題提起として受けとめた。では、いったいどうしたらいいのだろう。
一つには、大人がいじめを未来永劫なくならないし仕方がないものとして済ませないこと。子どものSOSに耳を傾け、その心に寄り添うこと。このことは、かつて担任教師が加担したいじめの被害者が教師となって発した言葉に如実に表れていると思う。「子どもたちから逃げないで。みんな、夏帆ちゃんを必要としているんだから」(p.152)。夏帆ちゃんとは担任の名前で、ひいては大人のことを指していると思われる。この後、夏帆ちゃん、つまり担任教師が子どもたちに本気で語った言葉が、この物語のターニングポイントになっていく。あたかも逆向きの波紋であるかのように。
重いテーマだが、結末はいともさわやかだ。これは子どもたちの良心を信じている著者だから書けるのであって、これこそが児童文学の醍醐味なのだろう。
(その点、私自身はもっと悲観的で、児童文学には不向きと自覚しつつ惹きつけられている。)
学校に求められているのは監視ではなく、子どもたちの良心を信じて引き出すような教育ではないか。そのためには、まず子どもの心の叫びに耳を傾け、大人自身も本音の部分で本気で変わっていかなければ、取り返しのつかないことを繰り返すのみだろう。傍観者として加担した少年の気づきに大人こそ学ぶべきと思う。
📘追記📘
読書家の伝吉さまが当記事を素敵なマガジンに加えてくださいました。どうもありがとうございます。工藤純子氏の作品は学校教育に深く切り込んだものが多く、子どもたちはもちろんのこと、保護者や学校の先生方にもぜひ手に取っていただけたらと願っています。