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オンライン哲学対話に初参加

「オンライン哲学対話」に初めて
参加してみることにしました。


1.初めてのオンライン哲学対話…


主催は、哲学者の先生。

その先生以外の参加者7名とを併せた
合計8名で、1つのテーマについて
話し合っていく形です。

今回のテーマは、
「未来に思いを託すとはどういうことか?」
でした。

このテーマ設定は、事前に主宰者の先生と
私が電話で話した内容に基づいて決められた
ものになります。

私の友人が、
「自分の生きているうちには
実現しないだろう」

と話していたことが元になっています。

「障がい者と健常者の壁をなくしたい」
という想いがあって、日々行動しているが、
【壁】が未だにある現状について、ふと出た
発言でした。


2.snsも「託す」行為?

「哲学対話」の中では、

・まだ存在していないものに対して、
 思うことの「不可思議さ」

・津波体験、戦争体験の記録、記憶を
 残すことの意味
→言葉だけではなく、津波被害を受けた
 建物を残すことで、何かが未来に
 つながるのではないか

3.11後に産まれた方には、その
「残っているもの」を見て感じる
 ものがあった

「祖母の言葉」は、幼少期にはよく
 理解できなかったが、大人になるにつれ、
 理解できることもある
→「戦争や貧困で学校に通いたくても
 通えなかった」という祖母の話を孫へ
 伝えることに意味がある
(「託す」と同義なのかは考える余地あり)

・「託す」ということ自体が一方的
 ものなのではないか
→「託したい」と思っている人から、特定の
 誰かに伝わらなかったとしても、「○○を
 託したい」と思って行動している、それ
 自体が「託す」ことにもつながるのでは
 ないか

・「託す」ことは
 「身勝手な行為」なのではないか

→「身勝手な行為」は「種をまく行為」
 なので、肯定的に捉えるべきではないか

・「託された」側は、人によっては、
 押し付けられたと解する人も
 いるのではないか
→受け取りたい人が受け取れたら
 それはそれで良いのではないか

→託される側がそれを託されたいと
 思うのかどうかという、託す側と
 託される側との関係性もそれぞれ
 あるのではないか
 (ex:親が子に野球をやって欲しいと
 願う気持ち)

→託される側に選択の余地
 あるべきではないか

→年長者から若者へ「後悔」をしない
 ために「○○しておいた方が良い」
 などと言う事は、「思い」や「願い」を
 託すことなのではないか

・「託す」という言葉には、
 「責任」があるのかないのか

・「責任」があるとすれば
 それは誰の責任なのか

・「責任」に範囲があるのではないか
→「20年」という期間であれば、自分が
 関与できる範囲なのではないか
  (ex:親から子への関与)

・「願うこと」と「託すこと」の違いは何か

知らぬ間に誰かに何かを「託されて」
 いるのではないか

→自分で選択をし続けているので、
 託されてはいないのではないか

いろいろな考えが出ました。

1番ハッとしたのは、
「知らぬ間に誰かに何かを託されて
いるのではないか」

という考え方でした。

私自身は、誰かに何かを託されては
いない、と思っていますが、それは
こちらがそう思っているだけなのかも…
と思ってしまいました。

もしかしたら、何かを託されていて、
それを行動に起こしていないだけ
なのではないか、と思わされました。


日々、本を読んだり、人と話したり、
snsの言葉を見たりする中で、毎日、
何かしらの影響を受けています。

この「何かしらの影響」自体が
「託す」という行為そのもの
なのかと
思えてきました…


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