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わたしの中の精神医学

わたしにとって「精神」というものは長年、謎に満ちたものであった。大変興味深く、それゆえわたしを悩ませてきた。
さらに「精神を治療する」という精神医学に対しても、疑問を持ち続けてきた。様々な人の考えを聞き、治療法を学び、たくさんの本を読んできた。
ここ数ヶ月で、かなり核心に近づいたと感じる。「精神」や「精神医学」という大きな問いに対して明確な答えが出たと言うには時期尚早であるが、21年間生きてきた現在の自分が導き出した考えを記す。それを決定的なものとしたのは、内海聡さんの著書「精神科は今日もやりたい放題!」という本である。

また私は、記憶のあるほとんどの時期において「死にたい」と思い続けてきた。その思いがどこから来ているのかを考えはじめたことが「精神」や「精神医学」について疑問を持ち始めたきっかけであると言える。まずは、そのきっかけとなった経験を順を追って説明する。

⓪人格形成期(幼少期)
内向的でほとんど言葉を発することはなかった。また、大変偏食でほとんどハイチュウしか食べない頑固な子供であった。
経済的に苦しんだことはないが、父はとても尖っていたため(このような表現が正しいのか分からないがそうとしか言い表せない)、弟が軽い暴力を振るわれていたのを何度か見ている。私に対して暴力はなかったが、理不尽にキレられることは多かった。当時の私にとって父は絶対的存在であった。
両親の離婚、再婚、離婚を共に経験する。両親が同じ弟が一人。他にも異父兄弟、異母兄弟数名。再婚した際、妹が生まれる。その母と折り合いが悪く、とても嫌われ、否定され続ける。当時その母は26歳であったため連れ子を大切にするなどできるはずないと現在は理解しているが、当時は難しかった。
また私は不倫時に妊娠した子供である。生まれる前に裁判になったそう。
生まれ持った特性として陰鬱さがあったと思うが、このような環境により基本的不信感を持つようになったと考えている。

⚠︎今では両親ととても仲がいい。何不自由なく生活させてもらい、欲しいものは与えてもらい、何度も学校に通わせてもらい、いつも、いかなる時も応援してくれ、沢山支えてもらっている。
それは、チエちゃんマインドにより大人の罪悪感を利用できる強さを私が少し得たからではないかなと思っている。

①不登校
私は何度か転校を経験しているが、中学3年生時の転校後、不登校となる。当時原因は不明であると考えていたが現在の私の考察では、転校以前、勉強の成績、友人との関係、家族との関係、部活動など、どれをとっても自分の中の「こうあるべき」という基準を満たしていた。しかし転校後の環境の変化に伴いその基準をこれまで通り満たすことが難しくなった。「こうあるべき」とはすなわち「そうでなければそこに存在することは許されない」と私は考えていたのだと思う。そして徐々に混乱を招いた結果、学校に通えなくなったと考える。

②高校中退
志望校に合格するも、他人から悪口を言われていると感じ、再び不登校になる。その後夏休みに退学届を提出。退学した当時、TikTokが世に出始めた時期であった。私は運良く動画が(その当時にしては)伸び、インフルエンサーとしての自分を意識していた。また、わたしには高校に通うことよりも重要な役目があると信じて疑わなかった。若さゆえの思考である。

③フリーター期間
この時期に大きな罪悪感を持つようになる。来年度の4月に他の高校へ入学することは早期に決定していたが、学生でもなく、社会人でもない自分自身に対して、また中退を決めた自分自身に対して「死ぬべき存在である」と考えるようになる。現在では考えられないほど視野が狭いが、当時ほんとうにそう考えていた。そして、退学したことを正当化しようとする自分自身を限りなく否定した。正当化が適切な心の動きであることを当時は理解しておらず、自分が決定したことに言い訳を続ける自分をこよなく嫌った。
この時期に本格的なリストカットや、オーバードーズ、違法薬物の使用など、自傷的で自棄的な行為を始める。
しかしまだ、その行為自体が何を意味しているか、なぜ自分はそのような行動をとるかということは考えていなかった。
両親はこのような私の様子を見て、精神科へ通わせるどうかを考え、結局通わせないことを選択した。
そのことについて恨みのような感情を抱いたこともあるが現在はその選択でよかったと心の底から思っているし、感謝している。


④一人暮らし前期
新しく入学したのは大阪にある高校で、そのため私は16歳の12月ごろから一人暮らしを始めた。正当化を否定し続けた代償として、高校中退という選択をしたことにとても大きな後悔を背負うようになる。中学転校前まで、私はかなり優秀な生徒であった。それゆえ、大学に進学することを望んでいた。しかし新しく入学した大阪の高校は、大学進学を目指す高校ではなく、美容師免許と高校卒業資格を得られるという高校であった。地元から離れたいという気持ちと、通信制高校に行くくらいなら、資格が取れるほうがまだよいだろうという親の声を聞き、わたし自身が選択した高校であったが、やらなければならない課題と、自分が目指すものの差異が顕著となり、大きな混乱を招いた。また、一人暮らしをはじめたことにより孤独感がより強調され「死にたい」「生きていてはダメだ、無駄だ」という気持ちがより強く、本格的になる。自殺未遂を繰り返すようになり、リストカットなど自傷的な行為も継続した。この頃、不眠を主訴に心療内科に通う。ベンゾ系の眠剤を使用するようになる。


⑤一人暮らし後期
祖父の死、また母親の再婚者の死や、度重なる自殺未遂をしてもなお死ねない(死なない)という事実により「死にたい」と感じる自分自身に疑問を持つようになる。この頃に精神の疾患や障害についての本を読むようになり、自分自身に対する「精神の病識」が生まれる。病識を持つようになった私は、通っていた心療内科に正式な診断を求めた。医者はわたしに「境界性パーソナリティ障害」と「ADHD」また「双極性障害」であると告げた。本を読み、自己診断していたものと一致した。しかし、当時の私は、抗うつ薬を内服することを頑なに拒んだ。理由は「神風特攻隊と変わらないじゃないか」と思っていたからである。薬で精神をコントロールされ、社会の歯車となり働き続けることは本当に正しいことなのか、本当の意味で生きているということになるのかを疑問に感じていた。また、それは洗脳の一種であると考えた。
そのような考えに至った私は、心療内科に通うことを突発的に絶った。一時期不眠と悪夢に悩んだが、その期間は短い。
そして、自分自身の精神について、自分自身で変えていこうという思考になる。
まずは当時の「死にたい」と考えてしまう主たる原因の罪悪感について解決することを考える。
具体的には、自身の選択への後悔の感情が消え去るような行動を心がけるようになった。これでよかったと考えられるようになるには、現在の自分が幸福であることを証明する必要があると感じ、さまざまな角度から幸福な自分を作った。
それにより、今後自分はどのように生きたいのかについて考える余裕、努力する余裕が生まれ、看護学校に行くことを決める。その後も一時的であるが比較的安定した期間を送る。


⑥看護学校入学
ここで、地元に戻る選択をする。そして社会に適応できるために矯正を受けること、また訓練をすることを自身と誓う。そしてしばらくはその誓いに沿う形で、看護学生であることを全うする。しかし一年後「死にたい」という気持ちが強くなる。この時にはもう、過去に自分が「死にたい」と考えてしまう理由について考えたことなど思い出す余裕もなくなっていた。再び不眠を主訴に、内科でベンゾ系の眠剤を処方してもらうようになる。違法薬物も再開し、自傷行為も再開した。リストカットではなく、高所に登り、そこから飛び降りるという行為に変わったが、同じく自傷行為である。また、そこにアルコールの多飲も足された。さらに、このままではいけないという思いや、自分は変わらなければならない、同じ失敗を繰り返してはいけないという罪悪感や使命感から、より自分を追い込んだ。そんな日々を続けることにより「死にたい」という感情はますます強化され続けた。
そこで私は、過去の私が乗り越えた方法について再び考えた。しかしそれはどれもが正しいものとは思えなかった。そんな中ひとつの気付きを得る。「死にたい」と強く感じている時期と、違法薬物の使用や自傷行為をしている時期が、必ず被っているということである。そこで私は、その希死念慮が強くなること、自傷的で自棄的な行為をすることの関係を見出そうとした。具体的には、どちらが先に起こっているのかを考え、先に起こっている方を根本的な問題と捉え、変化させようと考えた。結果的にどちらを検討してもうまくいかず、変化を起こすことは不可能に終わった。それにより私は自己効力感を失った。しかし、どうにかしなければならないことは分かっていたため、考え続けた。この時点で、授業で精神看護についてある程度学んでいた。
次に、私は人格を形成する段階での環境が悪かったため、不安を強く感じる、そのため希死念慮を感じやすい状態にあるのではないかと考えた。自分の人格を形成したと思われる環境や経験について、また内因的な要因について考えた。しかしそこでは、なぜ客観視すると幸福であると捉えられる状況に対して、私は絶望するのかという自分への不信感を増す材料となってしまった。また、ほとんど同じ環境で育ったはずの弟が、私とは全く違う性質を持っていることも、劣等感となった。この時期に「世界は自分が作っている」論や「チエちゃんマインド」などを考え実行していたがどれも失敗に終わったと感じていた。そして、私は境界性パーソナリティ障害で、ADHDで、うつ病であるということが、疑いから確信へと変化していった。
さまざまな自分の方法が成功したかのように思えた瞬間もあったが、最終的にはもう無理だと感じていた。
そして、これだけ考え抜き、実行した末にあるのが絶望なら、私はもう本当に生きていきたくはないという思いに達する。12月ごろだったと思う。④より、より成功率の高い方法での自殺未遂を繰り返す。その度に増える骨折や外傷、内出血を見て、学校の先生が異変を察知し、私は精神科に医療保護入院することとなった。


⑦精神科への入院
精神科への入院で私はさらなる絶望を体験する。言い換えれると、それまで何となく感じていた「精神を治療する」ということへの疑問に対して大変大きな気付きを得る。
まずはじめに、医師は私が精神疾患であることを信じて疑わない(前提としている)。入院時に私がつけられた診断名はアルコール依存症と、それに伴ううつ状態、軽度ADHDである。私は医師や病院、学校に通報義務があることを恐れ、違法薬物の使用については言わなかったが、そのことに関して指摘されることはまずなかった。その診断に、不信感を覚えた。医師は、まずはじめにベンゾとアルコールを抜くため、抗精神薬(セロクエルや、リスペリドンなど)を大量に用いた。そのため入院一週目はほとんど朦朧としていた。薬剤が少し減り、思考が可能になると私は「とにかくここから出なければ」という思いに駆られた。それは本能的に感じたものである。ここにいる限り私は精神疾患患者であり、また治療の対象であることを肯定することになると感じた。医師にその気持ちを必死に伝えようとした。「私は大丈夫である」「退院させてくれ」「ここはわたしに相応しい場所ではない」何度も泣きながら訴えた。
しかしその度看護師にリスペリドンを服用するよう言われた。
そのようなことを繰り返すうち、私は騙されたと感じるようになった。その際のツイートがこちらである。

パニック発作のようなものを繰り返し、その度に増える薬の量に耐えられなかった。その度に必死に訴えた。たしかに、その様子は精神疾患患者そのものであるように見えたかもしれない。私はそのことに強い絶望感を持った。
一度精神疾患患者であるというレッテルを貼られてしまえば、どんな行動、どんな訴えも病気の症状だと捉えられるということに強い嫌悪感を覚えた。また、他の患者への対応を見る際にも私にとってかなり苦痛を伴った。彼ら、彼女らは病識もなく、私のように、どちらかが間違っているという見解も持っていないように見えた。(実際はどうなのか話ができなかったので分からないが)そして彼ら彼女らは、いつも自分の心の赴くままに生活していた。そしてそれが看護者や医師にとって不都合だった場合にはすぐさま鎮静される。そうでなければ、放置される。大量の薬剤で、入院一周目のように思考もままならない状態に常にされているようだった。ここは人間のいる場所ではない、そう強く感じた。これは精神疾患患者が人間ではないということでは決してない。何かの拍子で精神疾患患者というレッテルを貼られてしまった場合(全ての患者の入院理由を知っているわけではないが、なんらかの形で周囲の人にとって不都合だったから入院させられているのだと思う)、人間を人間たらしめているものを全て奪われる、そう感じた。
また、それを望む人も一部いるようである。なぜなら洗脳は苦しみから解放されるかなり手軽な手段であるから。

そこで私は、ここから出るために、出たいという主張をしない
という行動をとる。このことについて皆さんはどう考えるだろうか。わたしは、ひどく滑稽で矛盾したことであると考えていた。しかし、私が主張を続ける限り、症状の悪化と捉えられ、薬は増え、退院は遠のくのである。
そしてこの事実を踏まえ、私は入院中に「精神医学」とは何なのかについて考え続けた。私がこの時に出した答えは「社会的に迷惑な人間を病気と称し洗脳すること」である。これは⑤での抗うつ剤を拒む理由と似ている。当時はそうなのではないか、そうであるはずと思っていたことが、入院によりそうであるという確信となった。
洗脳され、わたし病気であると思い続けられたら、あるいはその方が楽だったかも知れない。

⑧退院後の生活
私は、通院を続けること、飲酒をしないことを条件として、無事4週間ほどで退院することとなった。また、学校と病院が密接に関わっているためか、通院を中断した場合は退学という条件もついた。
退院後は、さまざまな大人から「入院してよかったね、元気そうで何より」といった言葉をかけられた。私はその言葉に全く納得できていなかった。たしかに、一見すると、私はとても良い方向に変わった。しかしそれは私が精神疾患患者であると認識されないために、社会に適応している、またはしようとしているフリを続けていたからである。言い換えると、洗脳されたフリを続けていたからである。根本的には何も変わっていない私、でも振る舞いを変えることに意味があると気がついた私(適応する形で動くようになった私)に対して、よかったねと言われるたびに、精神の治療に対する不信感が強化されていった。

⑨とある本との出会い
退院後しばらくして内海さんの「精神科は今日もやりたい放題!」という本と出会う。そこで内海さんは私が疑問に感じていた「精神医学」について全てのことを確信に変えた。
詳しくは書かないが内海さんは著書内で
精神医療の問題として

*精神科・心療内科では、無根拠・無責任な診断が行なわれている。
*すべての精神科医が薬に頼り、薬漬け医療が横行している。
*治さない(治せない)精神科医療により、治らず通い続ける患者が急増している。

ことを挙げている。
これはまさに、私が初めて心療内科を受診したときから、入院、そして退院、また、精神看護を学ぶ際など精神科に関わってきた中で感じてきたことである。また、精神病院は製薬会社や、政治家と密接に関わり合っており、一種のビジネスであり(それは内科や外科などでも同じであるが)診断が曖昧な点を活かして更に儲けられる対象になってしまったそう。そして内海さんは精神疾患そのものを否定している。


これら⓪〜⑨のことを踏まえ
「精神の治療」を行う「精神医学」に対しての私の考えとして
まず、精神疾患というものは現代社会に限定して存在すると考えている。しかしそれは、人間ならほとんど、いや全てに存在するのではないかと予想している。大きく捉えるとこの社会で生きるにあたり、完全なる完璧でなければ、それは全て精神疾患患者であると言える。それが、生活になんらかの影響を及ぼしていたり、本人にとって大きな苦痛となる場合は治療が必要なのではないか。「生活になんらかの影響を及ぼす」と書いたが、現代では生活は社会と切り離せないものである。つまり、生活に影響が及んでいる状態というのは、社会的に見てなんらかの欠損があるということと同義である。また「本人にとって大きな苦痛となる」これも、社会で生活していく上でしか生まれないと考える。現代のような社会でなければ、精神疾患というものは存在しない。それは精神医学の歴史が浅いことからも言える。となれば、精神疾患患者とは、社会に変化を起こせないことに絶望し、その仕組みに囚われた人であると私は考える。わたし自身は、外来での通院中自分自身の苦しみを精神医学が救ってくれるのではないかと微かな期待を持ち続けてきた。この期待をしている限り、精神医学にとっては、金のなる木でしかなく、仕組みに囚われてしまった患者となる。しかしそれは入院と退院を通して、みごとに絶望と化した。自分自身を救えるのは自分自身であると気付くまでは、金のなる木であることから変わりえない。

しかし私はだからといって「精神医学必要ではない!」とは言えないし、言わない。もちろん医師からみて、心を病んだと訴え来院し、薬を飲み続ける患者は金のなる木のように見えていることは確かである。わたし自身、いやもっと偉大なる人ですら、社会の仕組みを変化させるというのは並大抵の努力では叶わないし、通常そんなことは起きない。起こせないと言った方が正しいかもしれない。したがって「精神医学」というものの仕組みやその実態についてはとても肯定できたものではないが現代の我々にとって、仕方のないものとして捉えられる。必要なのかと問われれば、分からないといった答えになる。社会を変革できるならば、必要ないであろうし、必要であると断定してしまうと、現代の社会のあり方を肯定することとなるからである。それゆえ、仕方のないもの という表現が一番しっくりくる。
となれば、看護学生である私にできることは
看護師となり、精神看護の道を志し
自らの意思、周囲からのすすめ、どんな理由であれ精神科に来院することとなった患者との関わりの中で、その患者と医師との関係の中間に位置し、看護するということである。つまり、治療をするという認識である両者に少しでも良いので、そのままでいいのだと受け入れられる関わりをすること、絶対的な正しさというものはないが、決して間違っているわけではないと思えるような関わりをすることであると現在の私は考えている。業界を変えることなどできないが、自分と関わった患者や家族が、精神医学に対して少しでも自分なりに考え、納得した形で利用できるような関わりをしたいと思っている。

そして、私はこの不明瞭で不確かな「精神」と「精神医学」に対して、まだまだ興味を持ち続けている。
自分自身が患者となり感じてきたこの不信感を、反対側の視点から見ればどうなるのか。それはやはり、仕方のないもの なのだろうか。またその新たな視点を持った自分が、どのように考え、どのように行動するのか、長期的に携われば、やはり反対側の視点を強く持つようになり、私が学生時にこんなことを考えていたことなど忘れてしまうのだろうか。

なんにせよ、私は看護師として精神医学に携われることを心待ちにしている。目標として掲げると、負担になり、そのために行動しない自分自身に罪悪感を持つことは分かっているため、
心待ちにしている という言い方で終わることとする。

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